2008年12月07日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と、シーズン2・・・

この「河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と」は2年位前に一度終らせましたが、最後の〆として長岡に行き、長岡戦争(戊辰戦争中の長岡藩家老河井継之助による、善戦を言います)の取材をしてから、最終結としたかったのです。


しかし、今年8月頃、何と私の記事を読まれたファブル・ブラントの子孫の方から連絡を頂きまして、本当にびっくりすると同時に、違う側面から、河井継之助とファブル・ブラントを見直して見る機会を得ました。そして2年振りに、シーズン2と称して、再び、色々と探して見たいと思います・・・

シーズン2は「ファブル・ブラント」にスポットを当てたいと思います。このスイス人が、日本の文化に多大な影響を与えつつも、ほとんどその功績について語ることのなかった(語ることのない理由は今後の調べで恐らく想像は出来ますが・・・)

「ファブル・ブラント」の晩年の肖像です・・・

題して「ファブル・ブラント」という事で・・・  


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2008年10月07日

縄文文化円熟展・・・縄文式土器について

横浜市歴史博物館で開催されている、「縄文文化円熟・華蔵台(けしょうだい)遺跡と後、晩期社会」展を観に行って、レクチャーも受けて来ました。縄文の文化については詳しい積りでしたけれど、何の何の私の知識など、専門の学芸員に比べたらヒヨョコみたいなもの、大いに納得して帰って来ました。






例えば、土器ですが、このポスターの画像に代表されるように、まるで専門の土器造りの職人がいた(実際にいたらしいのです)ような、洗練された機能美の土器たちが生まれています。それに比べて、縄文中期の土器は下の火炎土器に代表されるような、荒々しい生命力に満ち溢れているように思えます・・・


これは、教科書にも出てきますが、有名な縄文中期の別名「火炎土器」と称される土器です。これは中期の極端な一例ですが、押しなべて、中期の縄文式土器には抽象的な文様が、まるで判じ物のように時には美しく、時には荒々しく描かれています・・・










「縄文文化円熟」と言うタイトルでしたけれど、洗練と円熟は同義的なのか私には分かりませんが、縄文中期の荒々しく、生命力に溢れている美しさ(人により美しいとは感じないのかも知れませんが・・・)の方が私にとっては「円熟」なのではないだろうか、いえ、そんな「へそ曲がり」的に考えなくても、縄文後・晩期の土器の生活を楽しむ意味での機能美を具えた土器たちより、中期の縄文式土器の方が、素晴らしく素敵に思えるのです・・・  


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2008年02月02日

横浜刑務所(横濱監獄)考・・・

大量の煉瓦を手に入れましたが、それをきっかけにして、この煉瓦が使われていた横浜刑務所について少しひも解いて見たいと思います。

そもそも、横濱監獄の始まりは、この場所に1859年(安政6年)、開港に伴う犯罪増加対応として戸部監獄(戸部牢屋敷)が設立されました。場所は現在の御所山町か伊勢町近辺と思われます。しかしこの戸部監獄も横浜の発展とそれに伴う犯罪増加により、建て増しを重ねたものの、収容し切れなくなったようです。


そこで神奈川県議会で予算が立てられて明治27年から明治31年までの5ヵ年計画で新たな地に横濱監獄が移設されました。そして明治32年から監獄としての事業を開始した訳です。その場所が現在の私の職場前、丸山なんです。




当時の横濱監獄の全容です。多分、現在の根岸米軍住宅辺りから撮影したものと思われます。

ところでこの写真は、私の職場近くに住む方が、やはりご自宅の土台にこの煉瓦を使われていて、その中から3種類を「横浜開港資料館」へ寄贈されたと言う記事がありました。このただの煉瓦に意味を感じている人が他にも居たなんて嬉しい限りですねー・・・face02
この煉瓦は現在の東京拘置所である「小菅監獄」で受刑者によって作られたと言う記録がありました。また、もう一種類「上敷免製」と刻印された、埼玉県深谷市の「日本煉瓦製造株式会社」が製造したものもあるそうです。私がゲットした煉瓦の中にまだセメントが覆っていて刻印が分からないものもありますから、この「上敷免製」の煉瓦も探して見たいと思います。右の地図は、関東大震災の時の横浜刑務所です。斜線で囲んだ部分が震災で類焼した箇所を表して居ります。

この地に戸部監獄が移設された時の最初の刑務所長(典獄)が、我が職場の創始者なので、横浜刑務所とは浅からぬ縁で結ばれているんですね・・・

この地図は再掲ですが、上の関東大震災時の地図と見比べて頂ければ一目瞭然かと思います。因みに我が職場の創始者はこの関東大震災の時は、奇しくもこの煉瓦が焼かれた小菅監獄の刑務所長在任中、震災に会い、受刑者全員を一時解放して、全員が戻って来たという美談を残して居るそうですよ。  


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2007年12月11日

北方作戦・・・横須賀軍港に刺激されて・・・

真珠湾の急襲、ミッドウエイ作戦、沖縄戦、硫黄島戦など、太平洋戦史に残る戦闘は、数多くありますが、その是非はともかく、それらの作戦には、日米双方とも、大変な兵力を投入している事は、ご想像の通りです。
例えば私の祖父及び伯父が従事した「北方作戦」と言う、今ではほとんど知られて居ない作戦があります。この作戦は、北方(アリューシャン列島からダッチハーバー方面)からの米軍の日本本土空爆にショックを受けた大本営が、ミッドウエイ島攻略と同時進行の形で、行われました。言わば、ミツドウエイ作戦の「裏作戦」とでも言えるものでした。ミッドウエイ作戦は大敗を喫してしまい、これが、太平洋戦争での日本軍が劣勢になる一因とも言われ、特に現代に語り継がれる華々しい作戦ですが、その裏作戦の北方作戦で使われた、艦船を掲げて見る事で、戦争というものに流された汗と血と涙を伝えられたらと思います。
(戦艦)
那智(旗艦)・摩耶・高雄
(航空母艦)
阿武隈・龍驤・隼鷹・赤城丸
(駆逐艦)
初霜・若葉・初春・子の日(伯父搭乗)響・暁・雷・電・潮・曙・漣・帆風・汐風
(潜水艦)
伊25・伊26・伊15・伊17・伊19
(特巡艦)
浅香丸・栗田丸
(炭油輸送艦)
日産丸
(兵員及び雑輸送艦)
白山丸・球磨川丸(祖父搭乗)・明石山丸・第二東光丸・
(砲敷設艦)
まがね丸
(運輸艦)
衣笠丸(陸軍北海支隊員搭乗)
(水上機母艦)
君川丸
(特別砲艦)
神渾丸・第二日の丸・第十福栄丸・第一雲洋丸
(油送艦)
第二菱丸・富士山丸・帝洋丸・尻失
(病院船)
室戸
(農業監視艦)
快鳳丸・白鳳丸
(林業視察船)
俊鶻丸
(哨戒部隊母艦)
昌栄丸・安州丸・昭興丸

画像上は駆逐艦「子の日」です。この作戦で昭和17年7月5日米潜水艦「トライトン・・SS201」の攻撃を受けて沈没。
画像下は祖父が同作戦で監督官として搭乗していましたが、一旦日本に帰港した後、南方作戦に従事しました。

ここで長々と、艦名を連ねましたのは、目立たないこのような作戦にも膨大な資材と人間が投入されたという事を言いたかったのです。戦艦一隻に約2000名から3000名の兵士が、駆逐艦でさえ、100名前後が従軍している事を考えると、何をかいわんやです。これだけの資材と人命を投入する戦争と言うものが、無駄であるのか、そうでないのかは分かりません・・・無駄とするならば、伯父は何の為に、勇んで戦い戦死したのでしょうか・・・

(戦場からの手紙)
駆逐艦「子の日」が青森県の大湊港をアリューシャンに向けて出撃したのが昭和17年5月29日、そして輸送船「球磨川丸」は5月28日でしたが、祖父と伯父の親子は、出撃前のひと時を大湊で食事をして過ごしています。その事が伯父にとって大変に嬉しかったようで、自分の死地アリューシャンへ向かう艦上から、父へ向けて手紙に記しています。この手紙は伯父が肉親へ宛てた戦地アリューシャンからの最後の手紙です。


  


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2007年03月27日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・10

果たして、長岡藩家老 河井継之助とスイスの時計商人ファブル・ブラントが、横浜の外国人居留地145番地のファブル・ブラント商会で出会っていたという話しの真偽は謎・・・本人達だけが知っている?・・・ですが、ここに、スネル兄弟と言う、不思議な人物を登場させます。兄弟は弟をエドワルド・スネル、兄をヘンリー・スネルですがプロシア人ともオランダ人ともいわれ出身地不明です。兄弟は、戊辰戦争の時は奥羽列藩同盟に肩入れをして、兄のヘンリーに至っては、戦いに敗れた会津藩の人々をカリフォルニアに移住させ「若松コロニー」なる牧場を開墾させた事は、早乙女貢氏の小説「おけい」に詳しく説明されています。
前にお話ししましたが、河井継之助が横浜に来たのは1860年とされていますが、その頃、ファブル・ブラントはまだ横浜に来ていません。しかし、この時期スネル兄弟は確実に横浜へ来ていますから、河井が会った最初の外国人(「峠」の表現による)とは、もしかしましたら、スネルだったのかも知れません。ところが、この頃の長岡藩は、スネルに会ったにせよファブル・ブラントであれ、藩の財政上から、彼らから大量の武器を買い上げるのは全く無理でした。それが実現するのは、慶応3年(1868年)大政奉還で藩士全てを長岡に引き上げさせて、長岡藩江戸屋敷の財物を全て金銭に換え、かつ、藩政改革の末に長岡藩兵器購入資金73482両を捻出する、長岡藩家老及び軍事総督になった河井継之助の手腕を待つことになります。我ながら長々しい文章で恐縮して居りますface04

さて、その慶応3年(1868年)大政奉還前後、長岡藩では河井のこれからの世の中は混沌とするので生き残るためには「軍備」という「先見の明」のもと、大掛かりな洋式兵制改革を実施します。それは・・・icon10
全藩士を銃隊主体に8小隊(1小隊36名)、大隊が4大隊総数1152名の藩士による軍隊としました。
その、藩士の一人が私の祖先だった訳ですが、それはまず置いて・・・それに先立つ1867年にはファブル・ブラント商会で、歩兵操錬書、銃砲マニュアルとともに、上記画像の「ガットリング砲」2門を買い付けて居ります。このガットリング砲は日本に3門しかないと言う、アメリカ南北戦争時に開発された連発銃砲です。そして、同時に全藩士へ元込め式最新銃器を支給しています。この元込め式銃はヘンリー・スネルから購入したと言われています。
と、言う訳で、河井継之助の長岡中立国構想は着々と準備がされて行きます・・・横浜がもう少し前面に出ると良かったのですが、当時の横浜は、長崎と並ぶ外国文化のルツボの中、新しい日本を模索する幕末の志士達が多くを学ぶ地であったことは確かですね・・・やれやれ・・・icon11  


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2007年03月18日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・9

(河井継之助とファブル・ブラントの出会い1)
今日は河井継之助とファブル・ブラントの出会いについて語りたいと思います。
まず、司馬遼太郎氏の小説「峠」では河井継之助とファブル・ブラントの出会いは文久元年(1860年)に河井継之助が横浜在住の通訳「福地源一郎」の仲介で出会い、河井が初めて会う西欧人という設定で、一目でお互いに理解し合い、河井がその時に、スイスの永世中立国という事をファブル・ブラントから説明を受け、後の長岡藩を永世中立の国家にするヒントとしたと描かれております。
しかし、1860年の3月か4月に岡山の「山田方谷」のところから江戸の古賀塾へ戻り、夏に長岡へ帰るまでの間に横浜へ行った(行ったとしたらこの時期しかない)と思われますものの、ファブル・ブラントは元治元年(1863年)に日本へ来ていますから、そこで会うというのは、物理的に無理のようです。
また、「峠」では、慶応2年(1866年)の横浜大火(豚屋火事)後に河井継之助は再びファブル・ブラントを横浜外国人居留区145番地の商館にしばし寄宿して、周辺の夜回りをしたと記述がありますが、この頃の河井継之助は1865年に長岡藩の郡奉行から軍事総督となり、藩主、牧野忠恭の京都所司代赴任により疲弊した藩の財政を立て直すための内政改革をしていますから、「峠」に記載のこの時期に、河井継之助が横浜のファブル・ブラントを訪ねるという事は、新幹線も飛行機もないこの当時、やはり、物理的に無理と思えます。
←居留地145番地(現NTTピル)のファブル・ブラント商館(再掲)・・・拡大で観ることは可能です

と、いう事で司馬氏のロマンを年代的に否定した形になりましたが、私は、河井継之助とファブル・ブラントが横浜の何処かで会ったとは思いたいです。
こんな話しが残っています。当時武器調達係としてファブル・ブラントの商館に度々出入りしていた、掛川藩士「福島住弐」氏が晩年に語ったことです。商館の主人ファブル・ブラントと大変に親しそうな日本人がいたので、ある時名乗りあったらそれが、河井継之助でした。ファブル・ブラントは「私のことを保護して下さるお方です」と大変に丁寧に接していたそうです。  


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2007年03月05日

「象の(が)鼻」について・・・

「象の鼻」という一風変わった名称は、横浜開港以前は現在の桜木町近辺にありました。



以前、吉田新田物語でお話ししましたが、現在の元町辺りから延びた「州乾(干)島」と言われる砂州の先端に「象の(が)鼻」がありましたが、この「象の(が)鼻」今では埋め立てられて影も形もありません。



その後、横浜開港に伴い波止場として築造されたのが、この新「象の鼻」です。築造当初は、「イギリス波止場」という名称だったようです。この図は明治15年位の横浜港の地図ですが、二本の象の鼻が海に突き出している事が分かります。当時の荷揚げは、大きな船は接岸せずに沖に停泊し、小舟がこの波止場を往復して行いました。その後、大きな方の突堤の先が大桟橋になって接岸できるようになりました。


この場所は現在の横浜公園(横浜スタジアムを含みます)です→


この、「象の鼻」跡が、驚きですが、しっかりと残っています。写真に向かって左側が小さい方の「象の鼻」跡、そして右側は大きい方の「象の鼻」跡です。奥の方に見えるのが大桟橋です。大桟橋と赤レンガ倉庫に人気を奪われた感はありますが、私にとってはこの「象の鼻」跡地が大切な場所の一つです。  


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2007年02月24日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・8

河井継之助は長岡藩では保守的な官僚からは嫌われる存在、いわゆる先見の明があり、古い壁を破って藩主にずけずけと物を言う人でした。藩主、牧野忠恭も事の外河井の先見の明を愛したようです。牧野忠恭が文久2年(1862)に京都所司代に任命された時も、猛烈に反対して、翌1863年には河井の建言で京都所司代を辞任させております。ちょうどその時期、京都守護職に任命された会津藩主、松平容保ですが、その後の会津藩が味わった過酷な運命を、長岡藩も味わうという先見の明があったからこそ、このような建言が出来たものと思われます。

画像は河井継之助が生涯の師とした岡山の「山田方谷」です。山田方谷は農民出身ですが、その学識をもって、備中松山藩の藩政指導者になり、松山藩の逼迫した財政を立て直した学者です。河井継之助は安政6年(1859)に江戸の古賀塾からこの山田方谷の元へ学びに行っています。後の長岡藩の内政改革には、常に山田方谷の思想が感じられます。

山田の思想は一言では語れませんが、武士が原点に戻る「屯田兵」のすすめかと思います。武士は本来戦闘のない時は農民として生産していましたが、この頃の武士は生産をしませんでした。この事は、藩の財政を逼迫し逆に商人を富ませるようになるだけでしたので、原点に帰って、武士も生産すべきだと言うのがその理屈です。

どうも大変退屈なお話しばかりですみませんが、次には河井継之助とファブル・ブラントの出会いが果たしてあったのかなかったのか、どんな形で出会ったのかなどを考察して見たいと思います。  


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2007年02月18日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・7

(河井継之助1)
この画像は再掲ですが、河井継之助の性格を良く表しているように思えます。我がままで、我が強く、反対意見はバッサリ切り捨てる、頭は良くても紙一重のところもあるような、とっつきの悪い感じがしますが、その通りかも知れません。河井継之助を語るについては、彼とことごとく、藩政についての言論を異にして、長岡戦争の頃は謹慎していた「小林虎三郎」について語りたいと思います。

小林虎三郎は長岡戦争が終結し、河井継之助も戦死した後の長岡で、一転して中心人物に据えられた人です。河井継之助が生涯の師を、岡山の陽明学者「山田方谷」としたのに対し小林は開明派の「佐久間象山」でした。この小林虎三郎の為政について、作家山本有三が「米百俵」と言う戯曲にしていますが、小泉前首相の好きな言葉でしたね「米百表」・・・

「米百俵」の話しは、長岡敗戦により、長岡の人々の困窮は筆舌に尽くしがたい事になりました。この時、これを救うべく、三根山藩が、「米百俵」を贈りました。その米を長岡の人々は配分するように槍刀をもって小林虎三郎に迫りますが、小林は「この米を配分してしまったら、わずか一日分のものにしかならない。それよりも、この米を換金して教育や人材育成に使うべきだ」と説得した話しです。山本有三をして小林虎三郎にこう語らせております。「あの時(長岡戦争時)先の見えた人物がおりさえしたら、同胞はお互いに血を流さないで済んだのだ。町は焼かれはしなかったのだ。そして武士も町人もこんなに飢えに苦しむことはなかったのだ・・・中略・・・国が興るのも滅びるのも、町が栄えるのも、衰えるのもことごとく人(教育・人材育成)にある」。

「先の見えた人物」とは、河井継之助に向けられていることは確かです。もちろん、結果論ですから、長岡戦争で勝っていたとしたら河井継之助に対する歴史的評価もまた違ってくるんでしょうね・・・  


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2007年02月09日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・6

(ファブル・ブラント商会2)
ファブル・ブラントは後の明治高官との友好関係を商業化する人物ではなかったと言われておりますが、私は、長岡藩や薩摩藩双方に武器の仲介をした、言わば「死の商人」の顔を感じます。その事に対する良心の呵責があったのかなかったのかは分かりませんが、ファブル・ブラント商会がその後も規模は大きくともあくまでも個人的な企業で終わったのも感じるところはあります。ファブル・ブラントは横浜の外国人射撃クラブの会長になると、日本人も入会できるように努めました。彼の裏庭の射撃場には、閑院宮、大山巌等が頻繁に訪れたと言います。特に西郷隆盛との親交は深かったと言います。西郷隆盛が征韓論に破れて鹿児島へ帰る(野に下る)前、西郷はファブル・ブラントを横浜に訪ねました。二人は何も語らなかったといいますが、後に西南戦争で子息、菊次郎が負傷すると、一時ファブル・ブラントに匿われ、そしてアメリカへ留学するが、これもファブルの後援でした。菊次郎は後に京都市長になりました。

文明開化の時代、ファブル・ブラント商会は時計輸入で盛況を極めました。明治年間に大流行の時計ですが、掛け時計、置時計はアメリカが優位、懐中時計は圧倒的にスイスが優位でした。ファブル・ブラントの時計には全て画像上の銘が入っていました。また、現開港記念開館の地に横浜町会所が建設されましたが、その時計台にはファブル・ブラント自身が塔に昇り指示したと言います。また工業技師としてのファブル・ブラントは富士山にて測量して、気象台創立以前の気象予報は彼の観測がもとになっていると言われます。このような日本への限りない貢献に幾度か叙勲の話もありましたが、その都度彼は断ったそうです。

日露戦争後の軍備はすでに一商社の出る幕ではなく、武器工場代理はもはや無用の長物となっていました。ファブル・ブラントは居留地の長老として敬愛を受け、日本人の友人を多く持ち、晩年は安穏だったはずです。また、彼の最大の天啓は第二の故郷として青春をささげて苦楽を共にした「横浜」が関東大震災で壊滅する事を見ることなく震災24日前に逝ったことでしょうか・・・この震災で壊滅したファブル・ブラント商会は再び起こることもなく、跡地も政府に買収されて、現在はNTTビルになっています。次は河井継之助を取り上げたいと思いますが、余裕のある方には司馬遼太郎作「峠」を読まれることをお勧めします。  


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2007年02月06日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・5

(ファブル・ブラント商会1)
もう一人、イワン・カイザーという使節団の中の砲兵将校が、横浜で条約締結の翌日に土木技師として旗揚げをしたものの、ブレンワルドやファブル・ブラントのような強力な背景のなさからか、3年後には居留地人名簿から消えています。
さて、ジェイムス・ファブル・ブラントは、時計の産地として有名なル・ロークルで生まれてニューシャテルの工業学校卒業、特派使節団に22歳で加わりました。国民皆兵制のスイスで彼は射撃下士官の資格を持っていた事もあり、薩摩藩を訪れて、薩摩藩の藩兵に射撃の指導を頼まれたといいます。薩摩藩と言いましても必ずしも鹿児島で指導した訳ではなくて、横浜の薩摩屋敷での訓練かと思われます(今でも「薩摩町」の町名がファブル・ブラント商会跡近くに残ります)薩摩藩の武器購入係は大山弥助(巌)で、当時最新式のシュナイダー後装銃、クルーゾ銃などを大量に調達したそうです。メーカーとの代理店契約のために横浜のどの商社よりこれら武器の値段が安かったそうです。明治維新戦争前夜、ファブル・ブラント商会には薩摩の大山巌、西郷隆盛、黒田清隆、山県有朋など薩摩長州の藩士たちが集まったそうです。

この時期に、後に薩摩長州藩主体の官軍と激しく戦うことになる長岡藩士もファブル・ブラントとの親交を深めたと言われます。  続きを読む


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2007年02月04日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・4

(シーベル・へグナー社)
次はシーベル・へグナー社ですが、スイス使節団の一人、カスパー・ブレンワルドがヘルマン・シーベルとで作った商社です。カスパー・ブレンワルドは、スイス政府の横浜総領事に任命されていました上、スイス総領事館がブレンワルドの商館に置かれていました。つまりスイス総領事が経営者も務めるという横浜居留地屈指の商社でした。扱った品目は生糸の輸出と器械や時計の輸入を中心にしていました。当初は、シーベル&ブレンワルド商会と称しましたが、ブレンワルドの死後はシーベルト・ウォルフ商会、そして1906年にシーベル・へグナー社という名称に変わりました。主に生糸輸出に携わり、現代も、総合商社としての「シーベル・へグナー社」はアジア、アメリカ、ヨーロッパに40の支店、子会社を持つ大企業に成長しております。

右の画像は居留地90番地のシーベル&ブレンワルド商会です。
このシーベル・へグナー社は、同90番地(薩摩町の近く、後ほど話しますファブル・ブラント商会の道一本隔てた、お隣さん位の場所です)に十数年前までは、社屋がありました。今は、場所を移しましたが、土台石だけは残っています。(右の写真)
仕事でこのシーベル社(当時はシーベル社という由緒ある会社とは知りませんでしたが・・・)の横を良く通りましたが、社屋の前の狭い敷地内に、大砲が3本(本という言い方は正しくないのですが、そのような無造作な感じでした)、別に陳列すると言うでもなく置いてあったのをはっきりと覚えています。あの大砲は何処へ行ったのかと気にしていましたら、一本はシーベル社跡に残され、後は神奈川県立博物館、そして、開港資料館で見つけました。この大砲は、シーベル社が武器商人の顔も持っていた事も物語りますが、売れ残りの大砲を鋳直して鍋釜を作ったなどという話しも残っています。次はいよいよファブル・ブラント商会について話したいと思いますが、生糸や時計の商社が大砲などの武器を扱っていたという一面は、ファブル・ブラント商会にも共通した事です。  


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2007年02月02日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・3

(バビィエ商会)
スイスという西の小国が日本という東の小国へ使節団を送るという事実は、アメリカ、イギリス、フランスなどの列強による外交団の影で誠に特異な印象が現代の私たちは少なからずあるものと、思われます。しかし、この一小平和中立国スイスの使節団は半官半民で、6人の使節団のうち、4人までが日本に定着した誠に合理的な使節団である事に驚かされます。これからは、ファブル・ブラントと同じく使節団に加わり、条約締結後、日本に定着した4人について語って行きたいと思って居ります。

商人の肩書きで使節団に参加したエドゥアール・パビィエは条約締結後に使節団を離れて、米一番館ウォルシュ・ホール商会で2~3年働いて貿易の経験を積みました。そして、157番地に「バディエ商会」を設立し、生糸の輸出を営み、後ほど語りますが、「シーベル・へグナー社」「ファブル・ブラント商会」と並んで居留地有数の商館になりました。1872年に76番地に新築され、ノーウィッチ・ユニオン火災保険会社の代理店やデンマーク総領事を委託されました。また、フランスに大きな生糸市場を持つバディエ商会は馬具とスカーフで知られる老舗「エルメス社」との取引が1950年代まで続きました。横浜スカーフが世界的に知られる事に大いに貢献したと考えられます。

しかし、総合株式会社としての再構成をしなかったバディエ商会は、歴史の節々で次第に日本の企業に吸収されて行きます。関東大震災で商館が壊滅すると、バディエはスイスに帰って二度と横浜へ戻りませんでした。その後「バディエ商会」はフランス人絹専門家リオポール・オドワイエに引継がれましたが「日中戦争」「世界第一次二次大戦」という世界の出来事により、「バディエ商会」→「オドワイエ商会」が横浜から消えたのは1987年だと言われます。消えてしまったんですねーカモメ次は「シーベル・へグナー社」について・・・・  


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2007年01月27日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・2

(スイス使節団)
安政年間、列強5ヶ国との通商条約が締結されると、スイス連邦政府も本格的な条約締結と日本市場開拓のための特派使節団を結成しました。1862年に構成された使節団です(写真再掲)

①団長エイメ・アンベール(文学者・元参議院議員)②カスパー・ブレンワルド(公使館参事官)③ヨハン・プリンゴルフ(公使館付武官・陸軍少佐)④イワン・カイザー(技師・砲兵将校)⑤ジェイムス・ファーブル・ブラント(電気工学専門・時計業)⑥エドゥアール・バディエ(商人)

1863年に一行が来日した頃は、リチャードソン殺害事件や薩摩と英国の戦闘、長州藩の英米仏蘭艦砲撃など、攘夷騒動のまっただ中でした。従ってスイスとの条約締結も約10ヶ月の焦燥の待機が必要でした。しかし1864年2月6日にようやく日瑞修好通商条約の締結を見るに至りました。しかし、この使節団6人の内、ファブル・ブラント、イワン・カイザー、エドゥアール・バディエ、ブレンワルドの4人が横浜に残った事は、特筆に価すると思います。次回は主としてファブル・ブラントについてお話しします。  


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2007年01月26日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・1

河井継之助は、幕末の頃の長岡藩家老です。そしてファブル・ブラントは、横浜開港を機に来浜したスイス人の時計商人、長岡戦争は明治維新の戊辰戦争で会津藩と同様に、長岡藩が激しく官軍に抵抗し善戦した戦争です。この河井継之助とファブル・ブラント、長岡戦争の3点が密接に絡み合っています。そしてまた、明治維新の立役者、薩摩藩の大物達が加わって歴史は展開して行きます。その接点とも言うべき地が、我が愛する横浜であります。少しづつ紐解いて行くことが出来たら良いと思っています。因みに私の祖先、弓削貞太郎も長岡戦争で戦い戦死していますから、何か深い因縁のようなものも感じます。
上の画像は、日本へのスイス使節団を組んだ時、ドイツのベルンで撮影されたものです。ファブル・ブラントは向かって左から2人目で当時22歳の青年でした。




さて、次なる写真は、長岡藩家老、河井継之助です。後ほど詳しく述べますが、豪放磊落な気骨のある武士でした。今でも時々、時代ドラマで取り上げられる明治維新の寵児、英雄とも言う人ですが、反面、長岡戦争で多くの藩士を死に至らしめた反逆者という評価もあります。しかし、この点は官軍側の交渉姿勢に大いに問題があったと私は思いますが、詳しくは後程・・・  


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2007年01月21日

吉田新田物語・・・最終回

横浜に生まれ住んだ私にとって、「横浜に行く」と言うと現在の「横浜駅」周辺でした。昭和30年~40年代の横浜駅周辺は髙島屋あり、相鉄通りあり、映画館ありで目もくらむような都会でした。しかし、今の仕事に就いて、毎日、桜木町関内から吉田新田を縦断して堀割川沿岸の職場に通う内に本当に横浜らしい横浜が何処にあるのかに開眼したものです。ところで、この目もくらむ都会だった横浜駅周辺も、吉田新田埋め立て前の入海だったように、帷子川が流れ込む東海道保土ヶ谷宿近くまで入り込む入海でした。神奈川宿を出立した旅人は、保土ヶ谷宿まで、左手に広がる風光明媚な遠浅の海を見ながら歩いた事でしょう。この入海もやはり、吉田新田と同じような目的で次々と埋め立てられて、今の岡野町、平沼町、浅間町などを形成しました。

右の地図はおそらく戦前のものでしょうが、それぞれ新田の位置を示しておきました。藤江新田 2尾張屋新田 3岡野新田 4平沼新田です。それぞれの新田は、それぞれの事業者の思惑があって埋め立てられましたし、その後の変遷も色々あった事と思いますが、一応、吉田新田物語は終わりたいと思います。ありがとうございました船  


Posted by shin344 at 10:40Comments(4)歴史

2007年01月17日

吉田新田物語12・・・太田屋新田2

太田屋新田は横浜新田に隣り合わせた現弁天通りから関内駅付近までの横浜公園を含めた太田町、相生町、住吉町、真砂町、尾上町を称します。この新田は三州(三河)の、太田屋徳九郎さんが開発しましたが、横浜新田(現中華街)と比較してもかなり広い割にはその面積の80%が潮流の干満する沼地でした。そして僅か5戸の住民が葦を刈ったり、魚蝦を獲ったりの生活で、石高は横浜新田の150石に比べて、僅か38石と言われております。巨額な資金を投じて、埋め立てを行ったものの、土地からの上がりがなければ、採算は当然取れませんから、徳九郎さんは故郷三河から、源左衛門さんと言う親戚を呼んで、土地の差配や、三州瓦を焼いて江戸に売ったりと四苦八苦している内に、この辺が開港に伴う需要も高くなり、かなり発展して来ました。そして今の街並みの基礎が出来上がって来ました。この太田屋新田の街は、羽衣町付近に移設された弁天社や伊勢佐木町辺りにこれまた、現横浜公園の地から豚屋火事により移設された「遊郭」、そして、他方、外国人居留地の入り口を持つと言う位置関係から、遊郭の出入り商人や、外国人の商用を取り持つ職種の人達が多く住んでいたという事です。記録によりますと、この街には、料理屋、そばや、湯屋(銭湯)、などが多く、住民の職業も古道具商、荒物商、仲買商、煙草商、芸師匠、芋商、青物商、等々、様々な人達が多かったといいます。

ところで、馬車道というのがありますが、この道は当時、外国人が、伊勢佐木町辺りに移設された遊廓へ通う為には、居留地から大きく迂回を余儀なくされる為に馬車でストレートに通れる道を造るよう外国の圧力で出来たという逸話もありますが、どうも、太田屋新田後の都市計画を紐解いて行きますと、そのような単純な理由ではないように思えます。太田屋新田はこれで終わります。  


Posted by shin344 at 12:19Comments(0)歴史

2007年01月17日

吉田新田物語12・・・太田屋新田1

吉田新田の埋め立てが行われた時代は各地域で新田が多く開発されました。初代吉田勘兵衛さん自身も、吉田新田埋め立ての前に、東京千住で埋め立て事業を行った事は前述の通りです。現在の横浜を形造る埋め立てで忘れてはならないのが、太田屋新田です。ここに一枚の地図がありますが、これは、慶応2年(1866)の大火(豚屋火事とも言われ、豚肉料理店から出火)の消失地域を表した、ジャパン・ヘラルド紙の記事です。黒塗りになった場所が消失地域ですが、遊郭(現横浜公園)への堤の角の店から出火して遊郭はおろか、本町方面までの広範囲が消失しました。この火事が太田屋新田西部地区の埋め立てに拍車をかけた事は確かな事です。  


Posted by shin344 at 09:47Comments(2)歴史

2007年01月13日

吉田新田物語11・・・掘割川まとめ

吉田新田の産みの親とも言う吉田勘兵衛(8代目)さんと分家、吉田常次郎さんの最後の大仕事、堀割川掘削、中村弥八ガ谷戸の切り割りの経緯はこの辺で終りにします。

そもそも、この大工事の計画は次のようなものでした。①既存の中村川2830m(高砂町から吉浜町まで)を幅27mに掘り広げる②中村弥八ガ谷戸の山地を37m切り下げる③滝頭村海面へ540mの埠頭を築く④根岸の埠頭から弥八ガ谷戸を通り中村川合流点までの2622mに幅27mの新川(堀割川)を開削する⑤上記の工事残土で南一ツ目沼約23.1ha(7万坪)を埋め立てる⑥全ての工事は晴雨に係わらず18ヶ月で完成させる。というものでした。
しかし、工事計画は、予想外の難工事となり、重ねて豪雨や土砂運搬場所が離れていたこと、土地所有者との確執などが重なり、工事費用も莫大となり、遂に分家の吉田常次郎さんは破産をしてしまうに至りました。

さて、このようにして埋め立てられた「南一ツ目沼」ですが、必ずしも必要悪の邪魔な存在ではなかったようです。防潮堤が切られて潮が浸入したり、洪水の逃げ水、民家の下水、そして、人々が魚蝦を獲る場でもありました。ここの埋め立ての最中に洪水が起きて、伊勢佐木町近辺が床上浸水をして、社会問題になったこともあったようです。
また、この沼地は底なし沼とまで言われるごとく、大量の土砂が投入され、沼で犠牲になる工夫も多く居たようです。ともあれ、こうした難工事で予定工期18ヶ月をはるかにオーバーして3年後にやっと完成を見た訳ですが、またまた政府の横暴で、一ツ目沼の角地、今の吉浜町付近6千坪を勝手に囲い込み、横浜製鉄所の用地にしてしまいました。これには、吉田家の人々もがっかりしたでしょうね。
さて、この沼地埋め立てに投入された土砂の量は約71万㎥、東京ドームに換算すると【東京ドーム天井から床までの空間が東京ドームに換算してと良く言われますが、それが124万㎥】約半分ですが、工事にかかわった延べ人数は何と177万人におよびます。

こうして埋め立てられた「南一ツ目沼」ですが、今は一部が全国3大ドヤ(簡易宿泊所)街のひとつ、寿町、松影町となっていますが、その辺に至った経緯は横浜港港湾労働史に譲ることとします。しかし、堀割川掘削の土砂を一ツ目沼に投入した訳ですが、今ではそのドヤ街付近でホームレスをしている人が、堀割川沿岸の私の職場に流れて来る事実を考えますと、浅からぬ因縁を感じてしまいますイカリ  


Posted by shin344 at 14:39Comments(2)歴史

2007年01月10日

吉田新田物語11・・・掘割川4

堀割川varで、留まって居りますが、吉田新田埋め立ての締めくくりの場所、「南一ツ目沼」の埋め立てに、中村の丘切り割りと堀割川整備の土砂が使われたこととて、深い因縁を感じて、集中しております。さて、この中村の切通し(以後弥八が谷戸切り割りと言います)と、掘割川の開削の工法ですが、慶応元年(1865)に始まった横須賀製鉄所の工事関連資料によりますと、山地掘削は人力、河川海上などではフランス製浚渫(しゅんせつ)船・・・泥浚船・・などが使われ、外国人技師も雇われていますが、弥八が谷戸切り割りの始まった明治3年ではまだ、このような機械力は緒についたばかりでした。ほとんどは、人力による土砂掘削および牛馬車・土運船などによったものと思われます。日本には独自の農業・鉱山・河川や城郭築造技術がありましたから機械化技術に依存するまでもなく可能だったはずです。先に述べましたが、イギリス人技師が、「この工事我々に任せれば3年が3ヶ月でしてのけるのに・・・」と言ったとの逸話は、当時の外国の技術力(あくまでも日本国内に於けるという事で・・)と日本の技術力比較から考察して見ますと、多少の誇張はありそうに思えます。
画像は、弥八が谷戸の崖(根岸米軍住宅側)から磯子方面を望みます。遠くに見える突出した建物は磯子プリンスホテルですよビル  


Posted by shin344 at 18:20Comments(2)歴史