2006年12月05日

団塊の世代の罪・・・・

たしなみを忘れた人達、電車内の化粧、傍若無人の高校生、自分の命と他人の命軽視の老若男女、タバコやゴミのポイ捨て当たり前、いじめに加わる教師、美しさも厳しさもない、権利や保護を求めるだけで、義務を果たさない連中・・・もう日本人は滅茶苦茶、壊れ放題壊れてます。これらの人間を育てたのは他ならぬ私たち団塊の世代の人間です。私たちの世代は、戦争で全くその価値感を180度変化させて、営々と築いた日本の文化を全て否定する人間と、その程度の変化には動じる事無く、過ごした人間のどちらかに育てられましたが、前者に育てられた私たちが生んだ子供達には、節操も恥じらいも、厳(うつく)しさも、生命の尊厳も教える事が出来ませんでした。また、その子供達を育て教導する教師が自らを労働者として位置づけて、表面的な自由と権利と、文化の放棄をしたのです。これは、子供にして見れば堪ったものではありません。今、いじめや、暴力、陰湿な犯罪、享楽主義が席巻していますが、これをこれから、どうして行こうかと真剣に議論がなされていますが、私は、一からやり直すしかない、社会の主導を握る人間が、一度完全にぶっ壊れて、もう一度、日本が、世界が積み上げて来た知恵と向き合うしかないように思えます。

と、偉そうにほざきましたが、今日の肴は牡蠣フライ、枝豆、そして一番のご馳走は、野沢菜漬です。
今日の話題との関連性は?     全然 ありません!!  


Posted by shin344 at 18:57Comments(4)日記

2006年12月05日

吉田新田物語6・・・古老が語る

(西戸部の一古老の談)今の横浜市の先祖たる横浜村は、その前から既に一個の村として存在していたが、その位置は何処らかと言ふと、今の本町一丁目を中心としてその四方に数十戸の人家があった。    それがその後引払いになって、今の元町の方へ移って「元村」と称したのです。増徳院は当時から今の位置にありましたが、谷戸橋や前田橋の架かっている川はその頃は無かったもので、仲(中)村川は吉浜町の処から折れて、大岡川と一つになって野毛浦に注いで居たのです。その仲村川の曲がり角の横浜村側の方に太田屋新田と言ふのがありました。

【ここからは古老ではなく、私のコメントですが、横浜村民の「引払い」という処に興味を覚えます。かつて、横浜村民は、内浦からの魚蝦漁と浜田という畑からの作物と内浦を村民の力で埋め立て横浜新田として、きっと愛着の深い土地であった筈、それが、開港という荒波の中、外国人居留民を押し込める出島的な幕府の政策により、元村に押し込められ、また、本牧の奥地に追いやられた村民の無念さは、今の横浜から、伺い知る事はできません。かろうじて、元村(町)と称することに、運河の対岸、外国人居留区の発展を、複雑な思いで眺めていたであろう村人の気持が伝わります】  


Posted by shin344 at 18:28Comments(2)