2007年01月05日

吉田新田物語11・・・掘割川1

年が明けましても、「まだまだ続くよ、どこまでも」・・・吉田新田物語~~♪前回10で触れましたが、中村の切通しと掘割川ですが、調べていると、色々分かる事がありましたのでもう少し記載してみます。まず、この中村の丘を切り割って、滝頭村に以前から流れていた「八幡川」を整備して掘割川としたのは、前述したように、8代目吉田勘兵衛(吉田家では代々勘兵衛を襲名しました)さんでした。目的は2つありましたが、ひとーつ、その頃の輸送手段は水運が多かったのですが、物資を、当時、「ミシシッピー湾」と呼ばれた根岸の海へ運搬するのに遠く本牧の海を経由するよりもはるかに安全な最短のコースでした。
それと、ふたーつ、これも前述しましたが、吉田新田最後の埋立地「一ツ目沼」といわれる広大な沼地を埋め立てる為の土砂を得る為でした。この「一ツ目沼」は後の「埋め地7か町」(寿・松影・不老・扇・翁・蓬莱・万代の7町)になる訳ですが、この沼の事については後日、お話しします。次回は工事の経緯や規模、そして工法などを少しづつ紐解いて行きたいと思います。画像は、上、中村の丘を切り通した頃のまだ、地肌も荒々しい様子です。向こう側に見える切り割った山が、今の根岸米軍住宅側の崖(画像下)と一致すると思えます。下の画像の下部、ガードレールの向こう側は掘割川です。


今日の肴は、白身魚のあんかけと納豆です。もうすっかり、お節料理とはおさらばしていますよ。お節料理とは言いますが、我が家では特に作りませんから、職場での会食の残り(もちろん私の分だけですって・・)でお茶を濁しています。去年までは、「お屠蘇」なるものが登場していましたが、今年はそれもありません・・・てゆーか(若者風に)、我が家(3人)では誰もお屠蘇を必要としないのです。  


Posted by shin344 at 18:49Comments(7)歴史