2007年01月10日

金平(きんぴら)・・・

「明日死ぬつもりで 生きなさい  永遠に生きるつもりで 学びなさい」マハトマ・ガンジーさんの言葉ですが、老境に入りつつある私にとって、励みになります。分かりましたガンジーさん、そんな積りで生きてますよ~~♪
今日は宿直明けで昼過ぎに帰って来ました。「おからコンニャク」の竜田揚げを作ろうとベランダの福島から送られた野菜の中から生姜をゴソゴソ探しましたが、残念「ショウガナイ!」・・・代わりに痩せこけたゴボウが数本と親指位のニンジン数個が出て来ましたので、よし、生姜は明日購入という事で、金平を作ってしまおうと、セッセと作りましたら、知らない間に、中華フライパン一つ分位になってしまいました。ああ!また、毎日食べて3日は持ってしまうなーface07その金平と牡蠣フライが今日の肴です。唐辛子をタップリ使いましたから、超ピリカラ金平ですぞface10  


Posted by shin344 at 19:07Comments(8)日記

2007年01月10日

吉田新田物語11・・・掘割川4

堀割川varで、留まって居りますが、吉田新田埋め立ての締めくくりの場所、「南一ツ目沼」の埋め立てに、中村の丘切り割りと堀割川整備の土砂が使われたこととて、深い因縁を感じて、集中しております。さて、この中村の切通し(以後弥八が谷戸切り割りと言います)と、掘割川の開削の工法ですが、慶応元年(1865)に始まった横須賀製鉄所の工事関連資料によりますと、山地掘削は人力、河川海上などではフランス製浚渫(しゅんせつ)船・・・泥浚船・・などが使われ、外国人技師も雇われていますが、弥八が谷戸切り割りの始まった明治3年ではまだ、このような機械力は緒についたばかりでした。ほとんどは、人力による土砂掘削および牛馬車・土運船などによったものと思われます。日本には独自の農業・鉱山・河川や城郭築造技術がありましたから機械化技術に依存するまでもなく可能だったはずです。先に述べましたが、イギリス人技師が、「この工事我々に任せれば3年が3ヶ月でしてのけるのに・・・」と言ったとの逸話は、当時の外国の技術力(あくまでも日本国内に於けるという事で・・)と日本の技術力比較から考察して見ますと、多少の誇張はありそうに思えます。
画像は、弥八が谷戸の崖(根岸米軍住宅側)から磯子方面を望みます。遠くに見える突出した建物は磯子プリンスホテルですよビル  


Posted by shin344 at 18:20Comments(2)歴史