2007年02月18日

カバンから異臭が・・・

今朝のこと、昨日三渓園に持って行った肩掛けカバンを開けましたら、生石灰のような異臭がしましたよ。あっちゃー!!三渓園の帰りに中華街に寄って、ピータンを5個250円で購入したのを忘れていました。

ピータンは何時の頃食べ始めたのか記憶にはありませんが、確か両親は嫌いでしたので、昔、グルメの恩師と中華街を食べ歩いた時に食べてはまったのかなー。

今日はそのピータン2個分(大盤振る舞い)と、鶏肉のカシューナッツ炒めです。

明日から会議会議で、21日からは関西の方で二つの会議で2泊3日・・・ああ!面倒臭せーー!・・家で焼酎飲んでいるのが一番なんですけれど・・・って愚痴っても仕方がないですよねーーicon10  


Posted by shin344 at 18:58Comments(12)日記

2007年02月18日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・7

(河井継之助1)
この画像は再掲ですが、河井継之助の性格を良く表しているように思えます。我がままで、我が強く、反対意見はバッサリ切り捨てる、頭は良くても紙一重のところもあるような、とっつきの悪い感じがしますが、その通りかも知れません。河井継之助を語るについては、彼とことごとく、藩政についての言論を異にして、長岡戦争の頃は謹慎していた「小林虎三郎」について語りたいと思います。

小林虎三郎は長岡戦争が終結し、河井継之助も戦死した後の長岡で、一転して中心人物に据えられた人です。河井継之助が生涯の師を、岡山の陽明学者「山田方谷」としたのに対し小林は開明派の「佐久間象山」でした。この小林虎三郎の為政について、作家山本有三が「米百俵」と言う戯曲にしていますが、小泉前首相の好きな言葉でしたね「米百表」・・・

「米百俵」の話しは、長岡敗戦により、長岡の人々の困窮は筆舌に尽くしがたい事になりました。この時、これを救うべく、三根山藩が、「米百俵」を贈りました。その米を長岡の人々は配分するように槍刀をもって小林虎三郎に迫りますが、小林は「この米を配分してしまったら、わずか一日分のものにしかならない。それよりも、この米を換金して教育や人材育成に使うべきだ」と説得した話しです。山本有三をして小林虎三郎にこう語らせております。「あの時(長岡戦争時)先の見えた人物がおりさえしたら、同胞はお互いに血を流さないで済んだのだ。町は焼かれはしなかったのだ。そして武士も町人もこんなに飢えに苦しむことはなかったのだ・・・中略・・・国が興るのも滅びるのも、町が栄えるのも、衰えるのもことごとく人(教育・人材育成)にある」。

「先の見えた人物」とは、河井継之助に向けられていることは確かです。もちろん、結果論ですから、長岡戦争で勝っていたとしたら河井継之助に対する歴史的評価もまた違ってくるんでしょうね・・・  


Posted by shin344 at 11:57Comments(2)歴史