2007年03月27日

コケコッコ~~

こんな唄、ご存知ですか?・・・♪こーこけこっこ 夜があけたー お空は真っ赤な 朝焼けだー みーんな元気にとび起きてーー あーさのあいさついたしましょう・・・みなさん おはようございますーー(繰り返し)icon01

私が子どもの頃、亡き父が寝ぼすけの私を起こすのに、何時もこの唄を調子はずれの声で歌っていましたよ。それでも起きないと、軍隊の起床ラッパ「おきろーおきろ みなおきろー おきないと 隊長さんに しかられるーー」を歌います。もっと良い音楽で起きたいものだと思ったのが、音楽に目覚めたきっかけかも・・・face04
今朝は宿直明けでしたが、朝の日の出る瞬間が美しいと一日が充実するように思えますので、楽しみにしています。今朝はこのようなお日様が出ましたよ。
明日の夜は、この前予約しておいた、伊勢佐木町の「海ぶね」という魚の美味しい居酒屋で送別会です。そこの釜揚げ玉子焼きは絶品ですが明日のコースには出るかなー。そうそう、この前、利用者さんの誕生日食事会でランチを頂いたお店です・・・辞める職員を楽しく送って差し上げられたら良いなぁー・・・私の職場って、陰の部分で結構ストレスを溜めている職員も多いと思いますが、こんな時に噴き出ないと良いですけれどねー。今日の肴は、オイルサーディンオンリーワンです・・・top_01・・・1(ワン)の積りicon10  


Posted by shin344 at 19:48Comments(6)日記

2007年03月27日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・10

果たして、長岡藩家老 河井継之助とスイスの時計商人ファブル・ブラントが、横浜の外国人居留地145番地のファブル・ブラント商会で出会っていたという話しの真偽は謎・・・本人達だけが知っている?・・・ですが、ここに、スネル兄弟と言う、不思議な人物を登場させます。兄弟は弟をエドワルド・スネル、兄をヘンリー・スネルですがプロシア人ともオランダ人ともいわれ出身地不明です。兄弟は、戊辰戦争の時は奥羽列藩同盟に肩入れをして、兄のヘンリーに至っては、戦いに敗れた会津藩の人々をカリフォルニアに移住させ「若松コロニー」なる牧場を開墾させた事は、早乙女貢氏の小説「おけい」に詳しく説明されています。
前にお話ししましたが、河井継之助が横浜に来たのは1860年とされていますが、その頃、ファブル・ブラントはまだ横浜に来ていません。しかし、この時期スネル兄弟は確実に横浜へ来ていますから、河井が会った最初の外国人(「峠」の表現による)とは、もしかしましたら、スネルだったのかも知れません。ところが、この頃の長岡藩は、スネルに会ったにせよファブル・ブラントであれ、藩の財政上から、彼らから大量の武器を買い上げるのは全く無理でした。それが実現するのは、慶応3年(1868年)大政奉還で藩士全てを長岡に引き上げさせて、長岡藩江戸屋敷の財物を全て金銭に換え、かつ、藩政改革の末に長岡藩兵器購入資金73482両を捻出する、長岡藩家老及び軍事総督になった河井継之助の手腕を待つことになります。我ながら長々しい文章で恐縮して居りますface04

さて、その慶応3年(1868年)大政奉還前後、長岡藩では河井のこれからの世の中は混沌とするので生き残るためには「軍備」という「先見の明」のもと、大掛かりな洋式兵制改革を実施します。それは・・・icon10
全藩士を銃隊主体に8小隊(1小隊36名)、大隊が4大隊総数1152名の藩士による軍隊としました。
その、藩士の一人が私の祖先だった訳ですが、それはまず置いて・・・それに先立つ1867年にはファブル・ブラント商会で、歩兵操錬書、銃砲マニュアルとともに、上記画像の「ガットリング砲」2門を買い付けて居ります。このガットリング砲は日本に3門しかないと言う、アメリカ南北戦争時に開発された連発銃砲です。そして、同時に全藩士へ元込め式最新銃器を支給しています。この元込め式銃はヘンリー・スネルから購入したと言われています。
と、言う訳で、河井継之助の長岡中立国構想は着々と準備がされて行きます・・・横浜がもう少し前面に出ると良かったのですが、当時の横浜は、長崎と並ぶ外国文化のルツボの中、新しい日本を模索する幕末の志士達が多くを学ぶ地であったことは確かですね・・・やれやれ・・・icon11  


Posted by shin344 at 18:43Comments(2)歴史