2008年10月13日

真景横濱今昔・・・山手公園

慶應2年(1866年)に外国公使団との間で「横濱居留地改造及競馬場墓地等約書」(慶應約書)が締結されましたが、公園計画だけは具体化しませんでした。そこで、明治2年に外国居留民が改めて要求した結果、日本政府は妙香寺付近の6千坪を貸与しました。公園の造成は居留民が行い、明治3年(1870年)5月6日に日本初の洋式公園が開園しました・・・

それがここ、山手公園です。後に明治11年から外国居留民の女性で組織される「レディース・ローンテニス・アンド・クロッケークラブ」が管理するすることとなり、テニスコートやクラブハウスも作られたそうです。私の曾祖母が当時創設間もないフェリス学院に在籍して「女だてら」にテニスにうつつを抜かしたと言う伝説が我が家に残りますが、もしかしたら曾祖母もここで?・・・

   提供:長崎大学附属図書館

ここ山手公園では、この英国軍楽隊が、定期的に演奏会を開いていたそうです。ブラスバンド部で9年間を過ごした私としては、是非ともその演奏を耳に焼付けたかったですね・・・こう言う人物入りの古写真を見ますと、あの軍楽隊のメンバー達ひとりひとりが一体何処でどのように生涯を終えたのかなんて感傷的になるのも歳のせい?

   提供:長崎大学附属図書館


現代の山手公園です。ここに訪れるまで、山手公園が何処にあるのか知らずに居ました。しかし、前にアップした射撃場跡の大和商店街や麦田町、後日アップしたいビール発祥の天沼、そして、港の見える丘公園や外人墓地などとはそれ程遠くない、場所にありました。居留地に住む外国人にとっては気軽に来られる公園だったようです・・・


山手公園を象徴するようなこの待屋(テラス?・・正式には何とよぶのでしょうか?)ですが、むろん明治の頃から、何度か建替えられてはいるとは思いますけれど、往時の山手公園を彷彿とさせます。公園の木々は当時からのものもあると思いますが、随分成長するもんですね・・・  


Posted by shin344 at 15:26Comments(2)横浜今昔物語