2008年10月26日

真景横濱今昔・・・港崎遊廓

遊廓?と眉をひそめる向きもあるかも知れませんが、江戸時代の文化を語る上では欠かせない裏事情ではある訳です・・・一寒村だった横浜も、開港後の人口増加に伴い、遊廓も必要悪?として当然のごとく立ち上がったのです。今は横浜スタジアムのある横浜公園が実は岩亀楼をはじめとする遊廓で当時、「港崎」(こうざき・・または、みよざき)と呼ばれる、太田屋新田埋め立て前の、浮島状態(あるいは堀を廻らせた城のような)だったようです




これは慶應元年にクリぺと言うフランス人技師が描いた地図ですが、この真ん中の浮島のような部分が「港崎遊廓」です・・・

ところが、慶應2年(1866年)11月26日朝、この「港崎遊廓」への一本道の角に豚肉屋があり、そこから出火・・・たちまち「港崎遊廓」はじめ、黒く塗りつぶした市街を焼き尽くした、いわゆる「豚屋火事」が発生しました。





この「豚屋火事」で自らも居留地52番地で商館を類焼させたスイス人「ジェームス・ファブル・ブラント」の記述をひも解いてみたい。「ガンキローまたはヤンキローと呼ばれた茶屋は・・(中略)・・今のクリケットグラウンド(横浜公園)のほぼ真ん中に位置していた。・・・(中略)・・・最も宏壮な「シンガンキロー」の最上等の部屋で、領事を含む外人たちは、日本の山海珍味を饗されて、外人たちは、煙草を吸い、笑い(外人には珍しいことだが)20人ほどのゲイシャの囃子を聴きながら、踊る女達のゆがんだ表情を眺めていた。一方おびただしく着飾ったゲイシャは、卓子の傍で、「オバサン」(遣手婆)の指図のもとに、静かに立ち働いていたと言う。1866年朝9時頃、ガンキロー付近から発した火事は同地区を焼いた。壕に囲まれた島には橋がひとつしかなく、外人も日本人も大勢のゲイシャを渡し船で救い出そうとしたが、その努力にも拘わらず、彼女等は気の毒にも焼死してしまった・・・J・ファブル・ブラント著「横浜の風物と事情」より
・・・400人もの遊女が亡くなったそうです・・・

さて、この「港崎遊廓」のその後ですが、この「豚屋火事」をきっかけにして、しっかりと「関内」から排除されましたよ・・・前回アップした羽衣町辺りの一つ目沼近くへ移されて後は高島町へ行ったようです・・・遊廓は一種の社会の裏面史ですから、確たる資料もあまり残っていません。

この古写真ですが、一体何処なんでしょうか?・・・精査の結果、奥の方に、「岩亀楼内」と書かれた看板様のものがあるそうです。この写真をかなり拡大してみても分かりませんが、きっとあるんでしょうね。と、すると、これは、「港崎遊廓」から焼け出されて、移転させられた先、羽衣町かも・・・今は羽衣町に含まれてしまっていますが、羽衣町の伊勢佐木町寄りの一角(横浜弁天社のある辺り)は「姿見(すがたみ)町」や「吉原町」と呼ばれました。江戸の「吉原遊廓」や遊廓大門(おおもん)の入り口「姿見」に見立てた訳ですね・・・                                                      提供:長崎大学附属図書館


向かって左側木立は、大通り公園で、数十年前には吉田川と言う運河でした。右側が羽衣町です・・・従ってこの辺りの写真かと想像する訳です・・・しかし・・・


もう一箇所の候補地、吉田橋辺りから、旧姿見町、羽衣町を望みます・・・向かって左側車の沢山走る道路の左端は、昔の運河ですから、ここも怪しいのです・・・さて、どちらかなぁ?・・・遊廓と言う場所が場所だけに、記念碑なるもの等、全くないです(横浜公園にかろうじて、岩亀楼の石灯篭が残されている程度)から・・・  


Posted by shin344 at 17:36Comments(0)横浜今昔物語