2009年01月11日

ボノ・エスタス・・・

日本語の読み書きが全く出来ない、日本語の会話だけは何とかと言う人が職場に入居しました・・・私はまた、字も書けないいわゆる「文盲」の人かなと思ったのですが、実は南米で生まれ育った人でした・・・

スペイン語圏で育ったその人とコミュニケーションを計りたくて、すれ違いざまに、「こんにちは!って、スペイン語で何て言うんですか?」と尋ねますと、「ボノ・エスタス!」と教えてくれました・・・

「ボノ・エスタス」・・・・と一日中唱えてやっと覚えましたが、何だかスペイン語の会話本を読むと「コモ・エスタス」または「ブェナス・タルデス」らしいのです。しかし、そんな事に捕らわれていると、折角の機会が無駄に終るといけませんから、彼の言う通り「ボノ・エスタス」で覚えます。

「ジョン万次郎」(中浜村の万次郎と言う漁師)がアメリカで覚えた英語は、発音そのまま、例えばハワイのホノルルは、「ホノロロ」、ニューヨークは「ヌウヨーカ」のように覚えた方が私にとっては身に付くのではないかと思いますから・・・ペルドン・コモ(スミマセンもう一度お願いします)を繰り返して、色々と聞いて見たいですね・・・

実はね、大好きなジプシーキングスの歌詞を原語で聞きたいし唄いたいなんて野心もあるんですよ・・・face03  


Posted by shin344 at 20:47Comments(0)日記

2009年01月11日

ファブル・ブラント2・・・

ファブル・ブラントの事を調べるきっかけは、私の先祖調べから始まりました。私の先祖は戊辰戦争の長岡戦で河井継之助と共に闘って戦死した長岡藩士だと、今年92歳の伯母から聞きました。そして、その河井継之助の半生を描いた小説司馬遼太郎氏の「峠」を読み、横浜の175番地に商館を構えていたスイス人ファブル・ブラントの存在を知りました。


ファブル・ブラントは河井継之助はじめ、戊辰戦争で敵対した、薩摩藩の西郷隆盛や大山巌などとも親交があり、幕末から明治にかけて日本の武器調達と、そして何と言っても時計商として、日本の文化発展に大いに寄与したものの、自身がほとんど、その事について語っていないので、記録もあまり残っていません。その理由については、その内分かるものと私には思えます・・・

右は、ジャパンディレクトリと言う、幕末明治時代の外国人居留民の居住記録ですが、大変に色々な事を物語って居ります。
175と言う数字が見えますか?これは横浜の外国人居留地175番地のことです。現在は横浜スタジアムの近く、NTTビルになっています。

C.&J.FAVRE-BRANDT  Established1863 Yokahama,175 Osaka10,と言う文字が読み取れます・・・C.はチャールス(シャルル)ファブル・ブラントでJ.がジェームス(ゼームス)ファブル・ブラントです。今回取り上げるファブル・ブラント、河井継之助と接点があると司馬遼太郎氏の「峠」にも描かれるのは、このジェームス(ゼームス)・ファブル・ブラントの事で、横浜の商館はしばらくこの、兄チャールス・ファブル・ブラントと共に経営されていた事が、この一文から読み取ることが出来ます。


向かって左側がジェームス(ゼームス)・ファブル・ブラント、右側はチャールス(シャルル)・ファブル・ブラントです。チャールス・ファブル・ブラントは幕末時代にアメリカに渡り時計貿易に従事しましたが、慶應3年(1867年)に来日してジェームスのパートナーとなりましたが、明治14年(1881年)スイスへ帰りました。真ん中の日本人は、分かりませんが、番頭さんの早川さんか、高山さんか、伊東さんでしょうか?

次は、このジャパンディレクトリから読み取れることの情報から「大阪支店」の事を少々・・・  


Posted by shin344 at 19:05Comments(0)横浜今昔物語