2013年03月18日

何故死の商人に・・・

スイス人ジェームス(フランス語読みだとゼムス)・ファーブルブラント(以下ジェームスと記します)は、エメェ・アンベールを団長とするスイスと日本の修好通商使節団として1862年12月20日フランスマルセイユを出発し、翌1863年4月に来日しました。ジェームスは条約締結後も時計商人として日本に留まりますが、何時、何がきっかけで「死の商人」となったのでしょうか?

この画像は、修好通商使節団の一行がスイスのベルンで撮った写真の中の若きジェームスですが、この写真で注目されるのは、手に望遠鏡と時計の鎖をしっかり握り締めています。当時のこう言った写真に多いのは、武力で生きる積り満々の人は、刀とか武器を持って写り込んだりします。ジェームスもおそらく望遠鏡のような精密機械や時計を彼の地(日本)で広めようと言うアッピールだったと思います・・・


確かにジェームスは渡日後は横浜で時計商「ファブル・ブラント商会」を立ち上げて居りますが、当時の日本では、西洋式時間が制定されていなかったので、渡日直後に時計が普及したとは考えにくいのが現実ではないのでしょうか。ここに当時まだ国家として成立していなかったプロシア出身のスネル兄弟の存在が気になるところです。

突然ですが、やはりスイスの時計商人フランソワーズ・ペルゴと言う人が浮かび上がって来ます。ペルゴは、スイス、ヌーシャテル出身で1861年に来日し、エドワルド・スネルとスネル・ペルゴ商会を横浜に立ち上げますが、やがて「死の商人」として武器販売に血道を上げるスネルと純粋に時計を扱うペルゴとは対立し、商会は破綻します・・・

ジェームスが「死の商人」の一端として武器を取り扱った事を純粋でない、などと言う気はありませんが、日本が生まれ変わろうとするこの「幕末」と言う時期・・・ペルゴとジェームスのどちらが上手く生きたのかなどとは結論付けられるものではないでしょうね・・・

ジェームスの「ファブル・ブラント商会」はジェームスの死後はなくなりましたが、若くして死んだペルゴの時計は今も「ジラール・ペルゴ商会」として高級時計を作り続けています・・・