2007年03月27日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・10

果たして、長岡藩家老 河井継之助とスイスの時計商人ファブル・ブラントが、横浜の外国人居留地145番地のファブル・ブラント商会で出会っていたという話しの真偽は謎・・・本人達だけが知っている?・・・ですが、ここに、スネル兄弟と言う、不思議な人物を登場させます。兄弟は弟をエドワルド・スネル、兄をヘンリー・スネルですがプロシア人ともオランダ人ともいわれ出身地不明です。兄弟は、戊辰戦争の時は奥羽列藩同盟に肩入れをして、兄のヘンリーに至っては、戦いに敗れた会津藩の人々をカリフォルニアに移住させ「若松コロニー」なる牧場を開墾させた事は、早乙女貢氏の小説「おけい」に詳しく説明されています。河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・10
前にお話ししましたが、河井継之助が横浜に来たのは1860年とされていますが、その頃、ファブル・ブラントはまだ横浜に来ていません。しかし、この時期スネル兄弟は確実に横浜へ来ていますから、河井が会った最初の外国人(「峠」の表現による)とは、もしかしましたら、スネルだったのかも知れません。ところが、この頃の長岡藩は、スネルに会ったにせよファブル・ブラントであれ、藩の財政上から、彼らから大量の武器を買い上げるのは全く無理でした。それが実現するのは、慶応3年(1868年)大政奉還で藩士全てを長岡に引き上げさせて、長岡藩江戸屋敷の財物を全て金銭に換え、かつ、藩政改革の末に長岡藩兵器購入資金73482両を捻出する、長岡藩家老及び軍事総督になった河井継之助の手腕を待つことになります。我ながら長々しい文章で恐縮して居りますface04

さて、その慶応3年(1868年)大政奉還前後、長岡藩では河井のこれからの世の中は混沌とするので生き残るためには「軍備」という「先見の明」のもと、大掛かりな洋式兵制改革を実施します。それは・・・icon10
全藩士を銃隊主体に8小隊(1小隊36名)、大隊が4大隊総数1152名の藩士による軍隊としました。
その、藩士の一人が私の祖先だった訳ですが、それはまず置いて・・・それに先立つ1867年にはファブル・ブラント商会で、歩兵操錬書、銃砲マニュアルとともに、上記画像の「ガットリング砲」2門を買い付けて居ります。このガットリング砲は日本に3門しかないと言う、アメリカ南北戦争時に開発された連発銃砲です。そして、同時に全藩士へ元込め式最新銃器を支給しています。この元込め式銃はヘンリー・スネルから購入したと言われています。
と、言う訳で、河井継之助の長岡中立国構想は着々と準備がされて行きます・・・横浜がもう少し前面に出ると良かったのですが、当時の横浜は、長崎と並ぶ外国文化のルツボの中、新しい日本を模索する幕末の志士達が多くを学ぶ地であったことは確かですね・・・やれやれ・・・icon11

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Posted by shin344 at 18:43│Comments(2)歴史
この記事へのコメント
それではScemoさんのご先祖も横浜。。。先祖代々横浜に住んでいらっしゃるわけなんですね。
日本が島国なだけにでもそんな以前から外国の物が日本に入ってきては流通が行われていたなんて とても不思議な気がします。
でもそれが 日本の世界への進化していく上で足がかりになったんでしょうね。話はそれますが、先日 大学の卒業式へ向かっているであるお嬢さんを見かけたんですが、袴すがたで、ブーツを履いて、“はいからさん”という言葉がぴったりでした。 きっとそういった 着物+洋装の文化も横浜や長崎がルーツなのかしらってふと思いました。笑
Posted by Ziggy at 2007年03月29日 09:59
☆Ziggyさん。このシリーズ大変に厄介ですみません。マニアックになり過ぎて、私自身が頭を混乱させながら書いていますよ。私の父方と母方の祖先が私にとって祖先になる訳ですが、母方は滋賀県で、父方の祖先の一人がこの河井継之助の元で長岡戦争を戦いましたよ。ですから、新潟県長岡市でした。この祖先は弓削定太郎という藩士で長岡戦争中312名の戦死者の一人になり、妻子は戦後東京へ出て来たようですよ。ですから、我が家が横浜に居を構えたのは私の両親が横浜の例の「こどもの国」前の旧陸軍病院が最初なんです。浜っ子の条件がもし「江戸っ子」のように親子3代東京に住んで初めて江戸っ子の資格があるとすれば、浜っ子失格でしたが、3年間住めば浜っ子だそうですからクリヤー!3時間横浜に居ただけでも浜っ子というせつもある位懐が広いので、Ziggyさんも浜っ子の資格あるかも・・・

女子学生の着物に袴姿は、明治の早い時期にそれまでは存在しなかった女子学生が制服として着物に袴を着用したらしいのですが(最初は横浜か東京の可能性は高いですね)ブーツは明治30年代に初めて着用されたらしいですよ。でも、やっぱり横浜や長崎は外国文明のルツボで、外国文明を学びたい人にとっては、夢の町だったんでしょうね・・・長くなってすみません。
Posted by scemo3440 at 2007年03月29日 10:50
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