2008年06月14日

To横濱 100years ago・・・開港記念会館Ⅰ

横浜は江戸時代には「横浜村」という村民人口120名程の一寒村でした。それが幕末の開港により、貿易などを生業にする外国人、そしてその外国人などと商いをする日本人が集まり爆発的に発展して来ました。そして、関東大震災の壊滅的な被害や、戦災を経て現在の横浜がさらに発展し姿形を変えながら存在します。大きく変貌したこの横浜ですが、良く観察していますと、町割りや、100年ほど前の横浜の雰囲気が沢山残っています。100年~150年昔の画像を開港資料館からお借りして、良く良く観察しますと、思い切り変わってしまった場所もありますし、ここから見る景色はこうだったのかなどと腑に落ちる場所もあります。私の大好きな横浜の変貌を、現代の写真と比較して、横浜の本当の魅力を少しづつ見たいと思います・・・To横濱 100years ago・・・開港記念会館Ⅰ


明治中期頃の本町通りです。左の建物は生糸検査場、右側の大きな建物は逓信局(現みなと郵便局)です。そして奥の方、塔のような建物が見えますが、これは、横浜町会所(建物は変わっていますが、現開港記念会館)です。
To横濱 100years ago・・・開港記念会館Ⅰそして、現代のほぼ同じ場所からの画像です。ちょっと見え難いのですが、奥の方に煉瓦造りの開港記念会館(旧町会所)が見えますか?左側の生糸検査所のあった辺りは、情報文化センター、右側の建物は「みなと郵便局」(旧逓信局)です。町会所などは明治時代では大きな建物で何処からでも見えたのでしょうけれど、現代の建物は、もう明治時代の建物の大きさを簡単に凌駕していることが分かります・・・これからの撮影もそういう事を念頭に置かないと、苦労するかも知れませんね・・・

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