2008年07月05日
To横濱 100years ago・・・弁天通り
弁天という地名について・・・江戸時代の横浜は、今のマリンタワー辺りの横浜村から桜木町方面への鳥の嘴状の「砂洲・・・洲干島」でした。その先端には弁天社がありました。今は全く痕跡すらありませんが、正金銀行(現神奈川県立博物館)が、この弁天社の一の鳥居があったと記録に残っています。
明治中期の弁天通りの様子です。弁天社自体はこの頃、既に、遷宮されていますが、元弁天社への参道として賑わっていたようです。右側の高い建物は「河北時計店」ですが、今は、その痕跡すら分かりません。
このように「弁天」は現在、通りの名として残っています他、弁天橋などがあります。因みに弁天社は現在、伊勢佐木町の道を一本隔てた羽衣町のビル街に不釣合いな赤い鳥居の場所に移築されております。そして、弁天通りは今、飲食店や商社がチラホラする静かな通りになっております・・・
明治中期の弁天通りの様子です。弁天社自体はこの頃、既に、遷宮されていますが、元弁天社への参道として賑わっていたようです。右側の高い建物は「河北時計店」ですが、今は、その痕跡すら分かりません。
このように「弁天」は現在、通りの名として残っています他、弁天橋などがあります。因みに弁天社は現在、伊勢佐木町の道を一本隔てた羽衣町のビル街に不釣合いな赤い鳥居の場所に移築されております。そして、弁天通りは今、飲食店や商社がチラホラする静かな通りになっております・・・
Posted by shin344 at 10:24│Comments(0)
│横浜今昔物語