2009年01月19日

ファブル・ブラント4・・・

さてファブル・ブラントとは、どんな人なんでしょうか。彼はスイス人です。スイスと言う国はご存知永世中立国で、この横浜が開港された頃は建国されたばかりの若い国でした。永世中立と言う権利?は、国民皆兵と言う矛盾するようなシステムの上に建っていますから、長岡藩家老河井継之助が、戊辰戦争で得ようとした自国の「永世中立」に司馬遼太郎氏がファブル・ブラントととの親交を演出したことも、あながち不思議な発想ではないのです・・・

ファブル・ブラント4・・・ジェームス(ゼームス)・ファブル・ブラントは3男3女の末男として1841年(天保12年)にスイス、ロックルで生まれました。ニューシャテル工業専門学校で電気工学を学び、国民皆兵のスイス射撃隊(カルビエニ)の下士官をしていた22歳の時、スイス特派使節団の書記として1863年(文久3年)に渡日しています。

右の画像は、そのスイス特派使節団のメンバーのベルンでの記念写真です(左から二人目が若きファブル・ブラントです)。ファブル・ブラントは一年後に日・瑞(スイス)条約が締結された後も、特派使節団の職を辞して、横浜へ残ります。そして、主にスイスの特産品である時計や、武器を商う店(商館)を横浜に建てて精力的に仕事をしました。

当時、戊辰戦争の立役者「薩摩藩」の武器をほとんど一手に納めたことは良く知られています。薩摩の西郷隆盛や大山巌などとの親交も大いにありましたし、長岡藩家老河井継之助にも司馬遼太郎氏の小説「峠」では大いに影響を与えた人物として紹介されています・・・

長岡藩が薩摩藩を主流とする官軍と戦った「北越戊辰戦争」・・・長岡藩士として戦死した中に私の祖先が居ますが、ファブル・ブラントが介した武器同士で闘ったかも知れない不思議な因縁のようなものを感じます・・・

薩摩藩やその敵となる長岡藩の両方に武器を売ったことで、「商売上手」というあまりありがたくない評価もあるようですが、彼が英国やフランスのように国是として幕府や薩長を支援したこととは違い、またスイス政府の思惑くとは全く関係なく商売をしたようです・・・つまり、個人思想として、愛する日本の内戦を早く終らせたいと希求した結果なのかも知れません(少しきれい事に過ぎたかなicon10

長岡藩河井継之助に大量の武器を売ったことは、長岡藩側の記録にはあるんですが、ファブル・ブラント側の記録には全くと言って良いほど出て来ません。やはり河井継之助は結果的には明治新政府にとっては「賊軍」だからと容易に想像出来ます・・・

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