2007年02月18日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・7

(河井継之助1)河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・7
この画像は再掲ですが、河井継之助の性格を良く表しているように思えます。我がままで、我が強く、反対意見はバッサリ切り捨てる、頭は良くても紙一重のところもあるような、とっつきの悪い感じがしますが、その通りかも知れません。河井継之助を語るについては、彼とことごとく、藩政についての言論を異にして、長岡戦争の頃は謹慎していた「小林虎三郎」について語りたいと思います。

小林虎三郎は長岡戦争が終結し、河井継之助も戦死した後の長岡で、一転して中心人物に据えられた人です。河井継之助が生涯の師を、岡山の陽明学者「山田方谷」としたのに対し小林は開明派の「佐久間象山」でした。この小林虎三郎の為政について、作家山本有三が「米百俵」と言う戯曲にしていますが、小泉前首相の好きな言葉でしたね「米百表」・・・

「米百俵」の話しは、長岡敗戦により、長岡の人々の困窮は筆舌に尽くしがたい事になりました。この時、これを救うべく、三根山藩が、「米百俵」を贈りました。その米を長岡の人々は配分するように槍刀をもって小林虎三郎に迫りますが、小林は「この米を配分してしまったら、わずか一日分のものにしかならない。それよりも、この米を換金して教育や人材育成に使うべきだ」と説得した話しです。山本有三をして小林虎三郎にこう語らせております。「あの時(長岡戦争時)先の見えた人物がおりさえしたら、同胞はお互いに血を流さないで済んだのだ。町は焼かれはしなかったのだ。そして武士も町人もこんなに飢えに苦しむことはなかったのだ・・・中略・・・国が興るのも滅びるのも、町が栄えるのも、衰えるのもことごとく人(教育・人材育成)にある」。

「先の見えた人物」とは、河井継之助に向けられていることは確かです。もちろん、結果論ですから、長岡戦争で勝っていたとしたら河井継之助に対する歴史的評価もまた違ってくるんでしょうね・・・

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Posted by shin344 at 11:57│Comments(2)歴史
この記事へのコメント
こんにちは♪

先が見えたからといって、その通りに動けないのが人間ですね。
河井継之助にも十分に先は見えていたはずです。
彼に人間として、そして武士としての価値観がある以上は
勝算がどんなに少なくとも
彼なりに全力を尽くして幕末を生きたのだと思うのですが。

さっさと抜け出して船で江戸に戻ってしまった将軍のように
冷徹に判断することが出来る人も偉人ですが、
継之助のように意地をとおす人も偉人だと思います。
Posted by バック at 2007年02月18日 16:42
☆バックさん。こんばんは!

その通りですよね。河井継之助にしても、小林虎三郎と全く正反対の考えで結果的には小林が正しくなった訳ですよね。先見の明がなくて政治は出来ないと思いますが、バックさんもそうだと思いますが、管理職に先見の明がなくては勤まりません。私は格好をつける気は毛頭ありませんが、私が責任を負えなくなった時には何時でも「腹を斬る」積りで仕事をしています。武士は責任をまっとう出来ない時に何時でも死ねる姿勢を持っている事に共感を覚えます。
Posted by scemo3440 at 2007年02月18日 19:30
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