2014年02月20日

コマーシャルⅡ・・・

2月19日付け朝日新聞夕刊の1面に横浜外人墓地の荒廃を何とか食い止めたいと、この墓地の中に眠る幕末日本に最初に移住したスイス人時計商「フランソワ・ペルゴ」を創業者に持つジラール・ペルゴ日本総代理店ソーウィンド ジャパン株式会社が多くの人がこの貴重な横浜外人墓地に関わって欲しいと言う内容でした・・・ここ横浜外人墓地には、私のライフワークとなりつつあるJames Favre-Brandt(ジェームス・ファブルブランド)の足跡調査の本人、ジェームスも日本人妻や息子娘達と共に眠っていますし、ジェームスは上記フランソワ・ペルゴの親友の一人で、43歳でペルゴが亡くなった時の葬儀委員長を買って出たそうです・・・万一興味を示された方がいらっしゃいましたら、記事の下にソーウインド社の連絡先を掲載しますから、連絡して見て下さい・・・


スキャニングの下手さで活字を読むには至りませんで申し訳けありませんが、公正を記する新聞ですから、会社の連絡先などはもちろん書いてありません・・・次に記しますジラール・ペルゴ社のHP(http://www.sowind-japan.jp/gp/g_perregaux/f_perregaux)をご覧になりますとフランソワ・ペルゴの事、ソーウィンド社の連絡先などが記してあります・・・ちなみに私はJames Favre-Brandtの足跡を調べるには、フランソワ・ペルゴの調査が欠かせないので、それがご縁でソーウインド社と知り合えただけで、一切の利害関係はありません・・・  


2014年02月03日

ガルトネル事件・・・

ファブル・ブラントやフランソワ・ペルゴそしてスネルのことを書いて来ましたが、もう一人、ドイツ系商社、クニッフラー(横浜においてはイリス)商会の函館駐在員ガルトネル(ドイツ語読みでゲルトナー)のことを外す訳には行きません・・・当時ドイツ(プロイセン)の駐日大使はフォン・ブラントですが、スネルはその通訳官でした。ブラントはドイツの国策としての殖民及び農地開墾を日本において推し進めるためガルトネルに函館の地にそれを展開させるように画策して函館平野北部の一区画を農場として、租借し開墾をしました。七飯(なない)村から中山村の約300万坪です・・・

ガルトネルは、この租借地にブナを植え、ドイツから果物を持ち込み、酪農も行ったそうです・・・

しかし、その租借契約は、戊辰戦争において、幕府軍艦を率いて五稜郭を占拠した榎本武揚と交わしたもの、後に明治政府とガルトネルとの軋轢から、この開墾も事件となる訳です・・・この事件は1870年ガルトネルに明治政府が62500ドルを賠償金として支払い、その後政府に回収されました・・・        七飯村ガルトネル農場事務所の写真です
北海道で起きたこの小さな(?)事件ですが、その後、北海道が酪農などが盛んになるきっかけとなった事件とも言われて居ります・・・そう言えば北海道と言えば酪農やハムソーセージのイメージが湧きますが・・・  


2013年12月31日

日本スイス国交150周年記念・・・

スイス、この何千キロも離れた小国から幕末動乱期の日本へ通商をするべく訪れた使節団がありました。エイメアンベールを団長とする、スイス修好使節団です。1863年(文久二年)の事です・・・当時の日本では「生麦事件」が起こったり、外国人が傷つけられたりと、外からの風に混乱をしていました。そんな中、スイスの使節団が日本に上陸をしたと言う事自体誠に驚くべき事であります。ましてやその使節団を迎え入れるべく動いたスイス人が既に日本(横浜)に居たと言う事実にも驚かされます。

それは、スイス使節団来日に先立つ1859年にスイス政府通商関税局に推されて日本に派遣されたルドルフ・リンダウと、彼と共におそらく一緒に来日したと思われるフランソワ・ペルゴーでした。ペルゴーは、現存するジラール・ペルゴー社の創始者でもあります・・・

1863年に来日したスイス修好通商使節団は以下のような人々で形成されていました。カスパー・ブレンワルド(公使館参事官兼書記官)、ヨハン・ブリンゴルフ(陸軍少佐、公使館付武官)、イワン・カイザー(砲兵将校兼技師)、ジェームス・ファブルブラント(時計業)、エドゥワール・バブィエ(商人)でした・・・


ところで、このスイス修好通商使節団のメンバー、ジェームス・ファブルブラントと長岡藩家老、河井継之助との交流が司馬遼太郎の「峠」にあります。ファブルブラントがスイスの永世中立を河井に説き、河井も実現こそならなかったものの、大きく心を動かして「武装中立」を唱えると言うものです・・・

この河井とファブルブラントとの交流はある程度事実だと思われますが、実際に武器を河井へ売ったのは、先に述べたフランソワ・ペルゴーと横浜でペルゴー・スネル商会を立ち上げた、プロシア人(オランダ人とも言われますが、私はプロシア人だと思います)エドワルド・スネルが主となったのだと考えられます・・・

画像は河井継之助記念館の河井像です・・・


さて、そのような訳で、来年は日本とスイスが国交を始めた記念の年になります・・・以前品川でお会いしたフィリップ・ニーゼル氏などがメッセージを述べている記念のホームページが立ち上がっています・・・

興味のある方は是非ともクリックして見て下さい・・・http://www.ch.emb-japan.go.jp/anniversary2014/index_j.html


皆さんどうぞ良いお年をお迎え下さい・・・  


2013年11月22日

横浜弁天社・・・

以前に「横浜今昔」と称するカテゴリーで幕末明治の古写真から、現在の場所を比較することを行いましたが、その時に集めた資料を調べて居て、ふと気が付いたことがありました。ファブル・ブランド達、スイス友好修好条約締結使節団が横浜へ足を踏み入れた際、一番最初に「弁天(ベンタン)の地にあったオランダ総領事フォン・ポルスブルック」の屋敷に迎え入れられました・・・この弁天とは、現桜木町駅近くに横浜村の鎮守社「弁天神社」の付近と思われます・・・
これが、幕末の頃の弁天神社(洲干神社)らしいのですが、当時は、今のマリンタワー辺りにあった「横浜村」から、桜木町方面へ鳥の嘴のように伸びる洲干島(と言うより天の橋立のような洲)の一番先っぽにあった風光明媚な神社だったのですが・・・横浜の発展に伴い現在は羽衣町に移転しました・・・


羽衣町辺りは、現横浜公園の地にあった「遊郭」が「慶応の大火(俗に豚屋火事)」で焼け落ちた後、一時的にここへ移ったそうですが、今では真金町辺りにほんの少し「遊郭」の痕跡らしいものはあるものの、すっかり様変わりしています・・・

弁天社はすっかりと寂れた神社になってしまっていますし洲干弁天だった痕跡は全くありませんが、鳥居にかかる「扁額」が当時のまま移されたと言う記録がありますが、そう言われると、そのように思えるから不思議ですね・・・  
タグ : 


2013年08月21日

フランソワ・ペルゴⅣ・・・

エドワルド・シュネルと言う人は幕末動乱の際、主に幕府軍に武器供与で活躍した、西のグラバー東のスネルと言われる「死の商人」として広く知られていますが、ほとんど彼については知られていませんから、謎の怪人とかプロシアの冒険家などと紹介されていますが、ペルゴ資料を読んでいますと、かなり出自もはっきりして来ます・・・

オランダのデンハーグ出身のエドワード・シュネルはペルゴとっても便利なガイドだったようです・・・オランダ語はもとより、フランス語、ドイツ語、日本語を話すことが出来たそうです・・・彼は1858年に来日して以来、ルドルフ・リンダウ(スイス政府通商関税局長=ジェームス達スイス修好使節団の露払い的役割りを果した?)に時計連合会の仕事に雇われていたようです。ペルゴと時計繋がりは充分あり、やがて、シュネル・ペルゴ商会と言う時計事業を設立しますが、当然当時不定時法の日本で時計が売れる訳はなく、ペルゴは炭酸飲料会社、シュネルは、武器商として分裂しました・・・

その後のシュネルの名前は、長岡戦争など奥羽列藩同盟の中に見受けられます・・・彼はヘンリーと言う兄と共に、大きく幕末動乱に身を投じる事になります・・・さて、ペルゴはその後どうなるのでしょうか?・・・画像は数少ないエドワード・シュネルです・・・  


2013年08月21日

フランソワ・ペルゴⅢ・・・

James Favre-Brandt(ジェームス)が1863年にスイス修好使節団(団長エメェ・アンベール)と共に横浜に来た際、色々と世話を焼いたのが、1860年に来日して横浜で活動していたフランソワ・ペルゴであると以前書きました・・・このペルゴを創始者の一人として、現在もスイス製高級時計を販売し続ける「ジラール・ペルゴ社」から、実に沢山の資料を頂き、James Favre-Brandtの生き方を探る上でかけがいの無いものになりつつあります・・・

中でもペルゴが生まれた1834年頃(ジェームスは1841年生まれですが)のスイスの時計産業の様子が興味を引きました・・・当時は今のような製造工場と言ったものは無く、時計のパーツを作る屋内の小さな工房が沢山あり、それらパーツを集めた仲介業者(エタブリッスールと言います)が自分の名を刻んで販売していたそうです・・・そんなエタブリッスールがペルゴやジェームスの生まれたル・ロックル地方には100件以上あったそうです・・・

ジェームスが自分の工場で製作した訳でもないのに、ファブル・ブラント商会の銘を堂々と刻んだのが読めて来ました・・・つまり、ジェームスはエタブリッスールだった訳ですね・・・

ペルゴは1860年12月に日本に到着・・・ここにかのエドワード・シュネル(スネル)と言う色々な意味で幕末日本に影響を与えたこの人が、ペルゴと関与してくる事になりますが、その話は、次にします・・・

画像は良く知られたペルゴ像です・・・ソードウィン社提供・・・  


2013年07月31日

フランソワ・ペルゴⅡ・・・

前回フランソワ・ペルゴの事を記事にしましたが、この記事はジラールペルゴ社日本総代理店ソーウインドジャパン社から縁会って提供された資料によるものが大です・・・さて、前回の記事で、フランソワ・ペルゴが時計取引に希望を持って来日したものの、当時不定時法の日本での商売はほとんど成り立たず、生活の為に他の商売に手を出さざるを得ませんでした・・・手を組んで商社を立ち上げたエドワード・シュネルは当時混乱を極めた幕末日本での銃などの兵器に活を見い出し、フランソワ・ペルゴは炭酸飲料会社でありました・・・ここに珍しいペルゴの炭酸飲料会社の宣伝広告があります・・・

1870年(明治3年)に設立されたこのペルゴの炭酸飲料会社は当時のパリやロンドンの一流会社のレシピを使って炭酸飲料を作る日本で唯一の会社となり、東京へも進出したそうです。

そしてまたこの会社では色々な種類のシロップやワイン、アブサンなども取引したそうです・・・

そこで、呑ん兵衛の私は異常反応・・・あの「アブサン」がスイスの特産酒とは、今まで知りませんでした・・・緑色の極めてアルコール度数の高いあの悪魔のようなお酒・・・若い頃、飲み屋でお猪口一杯で腰が抜けるよと言われて・・・挑戦したことがありましたが、腰が抜けたかどうかの記憶はないものの、小さなグラスにアブサンが注がれただけで、飲み屋中にアブサンの強烈な臭いが漂ったのを思い出しました・・・

前回の記事、友人?または助手の「半蔵」と言う人物が誰なのか、フランソワのお墓の横の「エリザ」と刻まれた小さな墓標が誰のものなのか、まだまだ分からない事だらけのフランソワ・ペルゴさんです・・・  


2013年07月28日

初めて日本に移住したスイス人・・・フランソワ・ペルゴ

幕末、尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる横浜に上陸したのが、スイス人フランソワ・ペルゴです・・・彼は国を開いて間もない1860年に時計12個を携えて来日しますが、当時の日本では、スイスとの通商は認められていなかったので、ペルゴはフランス人として滞在を許されました・・・

そして1864年には、エドワード・シュネルと共同で商社を設立しますが、ご存知の通りシュネルは、幕末の混乱に乗じて、銃の売買に血道を上げペルゴとは完全に袂を分かつ事となります・・・

当時の日本では不定時法が使われていましたので、西洋の定時法の時計が実用品として売れる訳はなく、ペルゴ自身も、生活の為に炭酸ガス入り清涼飲料・・・つまりサイダーの会社を設立します。シュネルが銃の取引に手を染めたのもそんな訳があるのでしょうね・・・

1873年にようやく日本に定時法が導入されて、ペルゴの商社もこれからと言う1877年にペルゴは僅か42歳でこの世を去り、横浜の外人墓地に葬られていますが、彼の遺言執行人として、James Favre-Brandtが友人としてなっているのも、フランソワ・ペルゴとジェームスが深い交誼を結んでいた事を知ることが出来ます・・・

画像は、日本人の友人?半蔵と撮られたフランソワ・ペルゴです・・・

そしてまたフランソワ・ペルゴの時計に対する思いは、150年経った今でも、ジラール・ペルゴ社として、高級機械時計を作り続けている事は驚くべき事ではないでしょうか・・・

ただ残念なのは、このペルゴの高級時計が我が腕に輝くステータスを私は持っていない事ですけれどね・・・face02  


2013年05月31日

兄チャールス(シャルル)のこと・・・

今日はJames の兄、Charles(チャールス)Favre-Brandtのことについて書きます・・・弟ジェームスの近代日本への業績ばかりに目が行きまして明治14年にスイスへ帰ったとされる兄チャールスはあまり脚光を浴びていません。しかしながら、最近お便りを頂いた「高圧ガス販売店の品格」とされる方から、チャールスが明治の後年までガス管やガス設備の普及に努めた事実を知らされました。

向かって右側、口髭の紳士がチャールスです・・・ただチャールスは先にお話ししたように明治14年にはスイスへ帰っていますので、その後また再来日したのか、一時的にスイスへ帰って、妻や子どもを置いて明治の末まで日本に居たのか、それは想像の域でありました。しかし・・・

右側の少し読みづらい羅列で申し訳けありませんが、これは1912年頃(大正2年頃)の横浜外国商社の紹介ですが、横浜175番地及び大阪10番地にC.&J.Favre-Brandt商会が存在した事が記録されています。C.はチャールスでJ.はジェームスです・・・

その頃にもチャールスとジェームス兄弟が共同経営していた事が分かります。そしてジェームスが横浜を拠点にしていた事とチャールスはヌーシャテル(スイス)に居りました。つまり、日本とスイスで輸出入の活動をしていたらしい事が分かります・・・そして、大阪支店はC. Favre-Brandt Jr(おそらくJames Albert Favre-Brandt)が任されているのも読み取れます。

チャールスが明治14年にスイスへ帰ったのも、想像ですが、ジェームスの店のスイス代理店のような役割りを果すためだったのではないでしょうか。

そうだと考えますと、チャールスが近代日本の文明開化に携わっていたという事が胸にスッと落ちて来る気がします・・・

因みにこのチャールスの息子、Albertの子孫が綿々とFavre-Brandt家を繋いで居ります・・・  


2013年05月22日

MATSUNO KUMA・・・

James Favre-Brandtの妻、「ひさ」は30歳で死去したと前回書きましたが、その後ジェームスは「ひさ」の姪とも妹とも言われる「くま」と明治17年に再婚しています。「くま」さんは、旧姓「Higo」・・・漢字は「肥後」とも「比護」とも想像は出来ますが分かりません・・・また、「ひさ」さん同様に写真も出自も全く謎です・・・

その娘、姉のソフィー妹のアデルですが、アデルが後に横浜を発掘したN.G.マンローの3番目の妻になった事は先にお話ししました。ここに写真は掲載しませんが、彼女等を見ていますと、「くま」さんの面影が少し分かるように思えます。「ひさ」さんと血縁が「くま」さんで「ひさ」さんの孫娘と「くま」さんの実の娘を見ますと、母親に似たとすると、何となく「ひさ」「くま」の写真が仮にあって、突然見せられたとしても、それ程違和感は抱かないのではないかと思いますが・・・

その「くま」さんも25歳で死去しており、その後はジェームスは再婚せず、この二人の娘の手を引いて散策する姿を作家長谷川伸が目にしていました。

ソフィーは戦後1955年まで生き、一方アデルは、モンローと離婚後、フランスに渡りましたが姉ソフィーに看取られてフランスで亡くなりました。アデルの骨はソフィーが日本に持ち帰り、今も姉妹は横浜外人墓地に静かに眠っています・・・  


2013年05月12日

SHISA MATSOUNO・・・

James Favre-Brandt(ジェームス)は、明治政府が成立し、文明開化時代へ入ると「美貌の日本夫人」とのみ称される「松野久(子)」と結婚しています。そして4男をもうけていますが、その松野久(子)なる夫人の写真は残っていないようです・・・

その松野久は今でも横浜外人墓地にジェームスと共に眠っております。碑銘によりますと、久(フランス語の読みでSHISA)は、僅か29歳か30歳でこの世を去った事が分かります。ジェームスの写真は今まで掲載したように残って居りますが、久の写真は、色々と探しましたが残って居りません・・・

わずかな手がかりはジェームスと久との次男フランソワの娘、貞子さんの写真ですが、フランソワとIsii(石井?)某と言う日本女性との娘ですから、あるいはIsii某さんに似ているのかも知れませんが・・・

それともうひとつの謎は、ジェームスと結婚したとは言え、久は旧姓のまま墓碑銘に記されているのは、何故なんでしょうか?そして、明治初年に「松野」と言う姓を許されていたとしましたら、久さんは、苗字帯刀を許された階層の人だったのでしょうか?・・・  


2013年03月25日

死の商人なのに・・・

James Favre-Brandtには「死の商人」を汚名を着せてしまいましたが、たとえ一丁の銃でも、その銃が人を死に追いやる手助けをした以上これは仕方がありません・・・しかし、彼が戊辰戦争後も横浜に居住して、大正12年まで生きる事が出来たのは、まず、銃の売買は、奥羽列藩同盟軍と新政府軍両方に行った事・・・これは良く解釈しますと、東西の軍事力を均衡にして、戦争を回避する意思があった事・・・スイスと言う国は永世中立国で有名ですが、かといって軍事的備えのない国ではなく、国民皆兵制がありかなりの軍事力を持つ国と聞いています・・・そしてかつ、スイス政府の意思ではなく、ジェームスの意思で武器を売買した事。武器商の他、本来の時計、しかも建物に設置する大時計を日本各地に展開しています・・・その数16~17軒と言われて居ります

画像は日本橋にあった「小島時計店」の大時計ですが、横浜開港記念会館の時計や、銀座の服部時計店の時計などが挙げられます・・・

その他、観音崎灯台や横浜灯台(今の弁天町辺りにありました)のフランス製大型レンズを設置し、我が国最初の水雷艇などの輸入に携わっています。また彼は、大山巌、西郷隆盛、維新後は桂太郎、伊藤博文、井上馨など多くの日本人の面倒を見て居ります。そんな功績に対してJames Favre-Brandtは死の商人の汚名よりも、日本の文明開化に大いなる貢献をしたと評価される訳でしょう・・・
  


2013年03月22日

ジェームスは本当に死の商人だったのか・・・

「死の商人」・・・言葉はあまり良いとは思えませんが、武器は誰が何と言おうと、敵の人命や備えを奪うものですから、本当にジェームスが武器を扱ったのかと言う裏づけがない限り「死の商人」呼ばわりは迷惑だろうと思います。司馬遼太郎の歴史小説「峠」では、長岡藩家老河井継之助がジェームスから、ガットリング砲などを購入したとありますが、あくまでも小説なので裏づけにはならないかも知れません。

ここにひとつの資料があります。石塚裕道氏(吉川弘文館)「明治維新と横浜居留地」の中に1807年明治新政府に「還納」(明治新政府による旧幕府軍からの回収または没収することを言います)された旧幕府・諸藩の洋式兵器の一覧表がありまして、そこには東の「死の商人」と言われたスネルなどとジェームスが、確かに大量の武器を取り扱っていたことが分かります・・・還納された中で奥羽列藩同盟軍の中で特に多いのは仙台藩で、小銃6260丁大砲84門・・・そしてジェームスは政府軍の西南雄藩にもかなりの数の武器を売っているんですね・・・例えば山口(長州藩?)には小銃24003丁大砲220門などがあります。

先の小説「峠」に登場する長岡藩には、E(エドワルド)・H(ヘンリー)・スネルがかなりの数の洋式武器を売っています・・・確かに河井継之助の伝記などには、スネルとの交流がはっきり記載されていますが、ジェームスとの交流は割合に少なかったようです・・・河井継之助記念館には、ファブル・ブラント商会の発行した領収証が残っていますけれど・・・・

画像はファブル・ブラント商会の銘入りヘンリーライフルです・・・アメリカのオークションで200万円位で取引されたそうですが、明治19年とうっすら読む事ができますのでおそらく、横浜のスイスライフルクラブで使われたものかも知れません・・・

結論として、ジェームスは中々の世渡り上手な死の商人、しかし死の商人の代表格にはならずに時計や精密機械を通して日本の近代化に貢献している事から紛争時と平和時の商売の仕方をわきまえた商人だったように思えます・・・  


2013年03月18日

何故死の商人に・・・

スイス人ジェームス(フランス語読みだとゼムス)・ファーブルブラント(以下ジェームスと記します)は、エメェ・アンベールを団長とするスイスと日本の修好通商使節団として1862年12月20日フランスマルセイユを出発し、翌1863年4月に来日しました。ジェームスは条約締結後も時計商人として日本に留まりますが、何時、何がきっかけで「死の商人」となったのでしょうか?

この画像は、修好通商使節団の一行がスイスのベルンで撮った写真の中の若きジェームスですが、この写真で注目されるのは、手に望遠鏡と時計の鎖をしっかり握り締めています。当時のこう言った写真に多いのは、武力で生きる積り満々の人は、刀とか武器を持って写り込んだりします。ジェームスもおそらく望遠鏡のような精密機械や時計を彼の地(日本)で広めようと言うアッピールだったと思います・・・


確かにジェームスは渡日後は横浜で時計商「ファブル・ブラント商会」を立ち上げて居りますが、当時の日本では、西洋式時間が制定されていなかったので、渡日直後に時計が普及したとは考えにくいのが現実ではないのでしょうか。ここに当時まだ国家として成立していなかったプロシア出身のスネル兄弟の存在が気になるところです。

突然ですが、やはりスイスの時計商人フランソワーズ・ペルゴと言う人が浮かび上がって来ます。ペルゴは、スイス、ヌーシャテル出身で1861年に来日し、エドワルド・スネルとスネル・ペルゴ商会を横浜に立ち上げますが、やがて「死の商人」として武器販売に血道を上げるスネルと純粋に時計を扱うペルゴとは対立し、商会は破綻します・・・

ジェームスが「死の商人」の一端として武器を取り扱った事を純粋でない、などと言う気はありませんが、日本が生まれ変わろうとするこの「幕末」と言う時期・・・ペルゴとジェームスのどちらが上手く生きたのかなどとは結論付けられるものではないでしょうね・・・

ジェームスの「ファブル・ブラント商会」はジェームスの死後はなくなりましたが、若くして死んだペルゴの時計は今も「ジラール・ペルゴ商会」として高級時計を作り続けています・・・
  


2013年03月17日

原点回帰・・・

このブログを立ち上げてから早、10年位に成ろうかと思います・・・hama1に辿り着く前にはexiteブログで数年300ページ位アップしましたので、10年は越えているんでしょうか?・・・良くもまぁ続けたものです。そのブログも単なる日常の発信から、美味しい酒を飲むための、美味しい晩酌の友を紹介するものに始まり、横浜の今昔夜話や韓国語、などなど、自分の趣味を発信することで趣味に奥行きを加味したいと言う願望もありました。中でも、1862年にスイスから日本にやって来て、幕末の日本に多大な影響を与えたJames Favre-Brandt(ジェームス・ファーブル・ブランド)の足跡を辿って見ることに夢中になった時期もありました。

先日私のそんな古い記事をご覧になったJames Favre-Brandtの末娘、アデルFavre-Brandtの嫁ぎ先、マンローと言う考古学者の研究者から、マンローの研究者は数名いるらしいのですが、その三番目の妻、アデルの写真は皆無だったらしく問い合わせを受けました・・・幸いアデルの写真を私は持っていましたので、協力をしましたが、その事よりも、ずっと昔に取り扱った私のブログに辿り着かれたと言う事実に本当に驚きました。私自身でさえ忘れて居たのですからね・・・

最近の私のブログを鑑みますと、一身上の変化に伴い、愚痴やら、文句やらつまらない話題が満載です・・・そろそろ、原点回帰をするべき時期かも知れないと言う気持ちにさせられましたっけ・・・                                                   画像はJames Favre-Brandt晩年の姿です