2007年01月31日

シンナー中毒Ⅱ・・・

昨日に引き続き今日もペンキ塗りですが、もう、シンナー中毒はゴメンですし、手伝ってくれる職員さんをダルク(薬物依存症の自助グループ)に通所させる訳にも行きませんから、今日はホームセンターで活性炭入りのマスクを沢山求めて来ました。これを着けて、有機溶剤の中に居てもあまり強烈に臭いませんし、今日はどうやらクラクラもしませんでした。それでも、来年度までに、シンナー中毒になってしまう人が居たら本当に、切腹するだけでは済みませんねface07

今日の肴は、里芋とイカの炊き合わせとイワシのフライ、そして、フルーツです。

今日は、ここ横浜では、もう春ではないかと思われるほど、暖かくなりました。  


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2007年01月30日

シンナー中毒・・・

今、ペンキ塗りど素人の私と職員が、職人?の指導で部屋のペンキ塗りに挑戦しています。今日は、シンナーで溶かすタイプの塗料を塗りましたが、強烈な臭いには慣れたものの、頭がクラクラして、その内に痛くなって、しばらくは事務仕事も困難になりました。これが、癖になって、快感になったら、本当のシンナー中毒ですよね・・・って、笑ってはいられません。まだ、18室も残っているんですから・・・face07

今日の肴は、ビーフシチューで煮た、「煮込みハンバーグ」です。それと、苺です・・・今の苺は本当に甘くて美味しいです。2月に入ったら、職場で「苺狩り」のレクがありますから、それも大いに楽しみです

ところで、自家製タクアンを漬けるプロジェクトを私個人で発足させました。昨日は、母親が漬物を漬けていたホーローの容器を引っ張り出して来て、これも母親愛用の漬物石をベランダから拾って来、少しづつ準備をしています。10年位前に一度挑戦しましたら、結局腐らせてしまい失敗しました。今回はどうなることやら分かりませんが、ばっちりと上手く行ったら良いですねー。ウコンで黄色くなったパリパリのタクアン(もちろん無添加)が食べたいと思うが故の挑戦です・・・icon09  


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2007年01月29日

やっと完成!!

先日、贈って頂いた「テキーラ」ですが、息子と一緒に、ごく小さいグラスでメキシコ人のように、クイっとストレートで飲みたいと思って大切にしています・・・息子にそんな楽しみ方通じるかなーdrink_01
ところで、私の部屋には、「バーネット」と言うアメリカの画家が描いた絵がありますが、このテキーラとバーネットの絵がまるで、呼び合うようにピッタリと感じました。何とかこの絵にテキーラを撮り込めないかと、思いここ一週間以上、頑張ってみました。多分画像編集ソフトを使いこなす人ならば、わけはないのかも知れませんが、ホント苦労しましたよ。それでも、何とか思い通りに出来ました~~♪




「メガマック」なるものがあると知り、早速マックへ走りました。ビック→メガ、なんてワクワクするではありませんか?私はきっと、持ち運ぶのさえ重いような代物かと思いましたが、甘かったです。ビックマックを一回り大きくした程度でしたーー♪普段はほとんどマックを食べませんが、超安値のハンバーガーとか、こういう、イベント物はなんとなく楽しいですねface03  


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2007年01月27日

プリズンブレイク・・・

アメリカのドラマですが、何故か気になりますから、観てしまいました。Var12で完結するはずですでした。何とか脱獄に成功するんですが、出来ればこれで終わらせて欲しかったー・・と思うのは私だけでしょうかねー?プリズンブレイクシーズン2がまた始まるという事で、もう、全く「蛇の生殺し」状態です。もう、絶対にシーズン2など観ませんとも・・・キッパリ!face09  


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2007年01月27日

丼デビュー~~♪

先日、陶芸の名人Zさんに作って頂いた丼のうち、タイガーアイの方が本日デビューしましたicon12カツ丼を作りましたが、イメージ通りにピッタリとマッチしました。うう!旨い!・・・それにしても、この丼って、あらかじめ丼の中に入るものの為に作られたとしか思えない程のフィット感、きっとどんな食べ物を盛っても合うんだろうな。これからも色々な食べ物で楽しみたいと思います。Zさん、どうもありがとう・・・お吸い物もタイガーアイのカップで頂きましたよface02

ところで「」という和製漢字ですが、そのものズバリの面白くて、ユーモアに溢れた字ですね。井戸の中に器をドンブリと落としてしまった様子を表していますrice_01  


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2007年01月27日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・2

(スイス使節団)
安政年間、列強5ヶ国との通商条約が締結されると、スイス連邦政府も本格的な条約締結と日本市場開拓のための特派使節団を結成しました。1862年に構成された使節団です(写真再掲)

①団長エイメ・アンベール(文学者・元参議院議員)②カスパー・ブレンワルド(公使館参事官)③ヨハン・プリンゴルフ(公使館付武官・陸軍少佐)④イワン・カイザー(技師・砲兵将校)⑤ジェイムス・ファーブル・ブラント(電気工学専門・時計業)⑥エドゥアール・バディエ(商人)

1863年に一行が来日した頃は、リチャードソン殺害事件や薩摩と英国の戦闘、長州藩の英米仏蘭艦砲撃など、攘夷騒動のまっただ中でした。従ってスイスとの条約締結も約10ヶ月の焦燥の待機が必要でした。しかし1864年2月6日にようやく日瑞修好通商条約の締結を見るに至りました。しかし、この使節団6人の内、ファブル・ブラント、イワン・カイザー、エドゥアール・バディエ、ブレンワルドの4人が横浜に残った事は、特筆に価すると思います。次回は主としてファブル・ブラントについてお話しします。  


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2007年01月26日

納豆騒動・・・

テレビ番組で納豆の効能データが捏造されて、スーパーの納豆が売り切れ騒ぎとの事、ほとんど対岸の火事とばかりに気にもしてませんでした。むしろ、面白がっている部分もありましたが、私の業務に響いたのには本当に驚かされました。ある日の朝食メニューが納豆だったのですが、何と、卸の業者が納豆を確保できなかったとやらで、違うメニューに変わっていましたよ。
今日も、あるホテルの耐震強度偽装が話題になっていましたね。私は本音として、「餅は餅屋」と思いますから、素人がプロの仕事にあまり手出ししない方が良いと思っています。でも、そのプロが、素人を騙すような世の中とて、素人も、仕事内容を見る目とプロの人間性を見なくてはいけないんでしょうね。盲信は決して良くない事と、プロはプロらしい仕事をして欲しいですねーface01


今日の肴は、オデンに白菜の昆布漬けとオハギです。最近このスーパーのオハギが気に入っています。
  


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2007年01月26日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・1

河井継之助は、幕末の頃の長岡藩家老です。そしてファブル・ブラントは、横浜開港を機に来浜したスイス人の時計商人、長岡戦争は明治維新の戊辰戦争で会津藩と同様に、長岡藩が激しく官軍に抵抗し善戦した戦争です。この河井継之助とファブル・ブラント、長岡戦争の3点が密接に絡み合っています。そしてまた、明治維新の立役者、薩摩藩の大物達が加わって歴史は展開して行きます。その接点とも言うべき地が、我が愛する横浜であります。少しづつ紐解いて行くことが出来たら良いと思っています。因みに私の祖先、弓削貞太郎も長岡戦争で戦い戦死していますから、何か深い因縁のようなものも感じます。
上の画像は、日本へのスイス使節団を組んだ時、ドイツのベルンで撮影されたものです。ファブル・ブラントは向かって左から2人目で当時22歳の青年でした。




さて、次なる写真は、長岡藩家老、河井継之助です。後ほど詳しく述べますが、豪放磊落な気骨のある武士でした。今でも時々、時代ドラマで取り上げられる明治維新の寵児、英雄とも言う人ですが、反面、長岡戦争で多くの藩士を死に至らしめた反逆者という評価もあります。しかし、この点は官軍側の交渉姿勢に大いに問題があったと私は思いますが、詳しくは後程・・・  


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2007年01月25日

今日もまた・・・

今日もまた食事会です。今日の食事会は、この前の食事会にどうしても参加出来なかったHさんです。



しかもこのHさんは、今日をもって、一般社会生活に復帰しましたので、そのお祝いを兼ねた、Hさんにとっては、とても嬉しいはずの食事会です。場所は、職場近くの「九州一番」というトンコツラーメン店でしたが、本当に嬉しそうなHさんの笑顔を見て、援助者として、これに勝る喜びはありません。精神面で色々とありましたが、就労支援のJobコーチなどで仕事につながり、晴れて今日の自立となりました。これからも元気に生活して欲しいですねーface02



頂いたのは、チャーシュー麺です。ここでのラーメンは3年振りですが、やっぱり美味しいかった~♪このラーメン、見た目は重そうな感じですが、あっさりしていて、スープまで完全に飲み干してしまいました・・・これを完食と言うそうです・・・noodle_01  


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2007年01月24日

盛り沢山の行事で食った食った(クタクタ)

まずは、誕生月の利用者さんと中華街でプレゼントの食事会で食った食った~~♪


中華街の「廣○楼」というお店で、五目焼ソバのランチセットを頂きました。量もタップリで、横に付いたご飯は、利用者さんに上げてしまいましたよ。とても美味しく頂きました・・中華街


そして次の日は、お餅搗きです。職場には、臼と杵が常設してありますが、お餅搗きの時に、へりを叩かれたりして苦節○十年、すっかりヒビ割れてしまいましたので、周りを金具で固定しております。でも、やっぱり臼と杵で打ったお餅は最高、キナコ、アンコ、大根おろしで美味しく頂きました・・riceball_01



そして、やっと我が家に帰って来て、ゆっくりと晩酌をしています。メニューは「千枚漬け」「手羽のコンニャク、銀杏と玉子の煮物(自家製)」「シューマイ(冷凍)」です・・beer_01

いやはや、食った食った~~♪の3日間でした。美味しく食べられる内が華ですよねー・・・pig  


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2007年01月21日

ちゃんぽん・・・

今日のお昼は地元紙に紹介されていました「ちゃんぽん」を食べにでかけました。「ちゃんぽん」と言えば、即座に思い出すことがあります。学生の頃、九州へ演奏旅行に行ったついでに、他のメンバーと離れて、貧乏一人旅をしましたよ。歩きに歩いて、ローカル線に乗って、トランペットケースを枕にして野宿したり、お土産屋さんや、お寺の本堂に泊めて貰ったり、夜行列車で寝たりで本当に楽しい旅でした。そして、食べ物はほとんど「ちゃんぽん」でした。九州では、どんな山奥の小さな食堂のメニューにもあるんですよ。肉と野菜がほど良く摂れて、美味しくて安くていう事なしでした。

そんな、思いを胸に「ちゃんぽん」を頂きました・・・が!・・・見事に裏切られてしまいました。冷凍のちゃんぽんの方がはるかに美味しい!!・・・2度とここには食べに来ないという事が分かったという点だけは一つお利口になったと自分を励まして・・・


・・・で!・・・このまま引き下がっては「男がすたる?」と思い、口直しに、韓国料理屋へ飛び込みましたが、相当お腹が一杯でしたから、石焼ビビンバと言う訳にも行かず、「ちぢみ」を頂きました。いやーこちらは、ホッペタが落ちるほど美味しかったーface05
  


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2007年01月21日

吉田新田物語・・・最終回

横浜に生まれ住んだ私にとって、「横浜に行く」と言うと現在の「横浜駅」周辺でした。昭和30年~40年代の横浜駅周辺は髙島屋あり、相鉄通りあり、映画館ありで目もくらむような都会でした。しかし、今の仕事に就いて、毎日、桜木町関内から吉田新田を縦断して堀割川沿岸の職場に通う内に本当に横浜らしい横浜が何処にあるのかに開眼したものです。ところで、この目もくらむ都会だった横浜駅周辺も、吉田新田埋め立て前の入海だったように、帷子川が流れ込む東海道保土ヶ谷宿近くまで入り込む入海でした。神奈川宿を出立した旅人は、保土ヶ谷宿まで、左手に広がる風光明媚な遠浅の海を見ながら歩いた事でしょう。この入海もやはり、吉田新田と同じような目的で次々と埋め立てられて、今の岡野町、平沼町、浅間町などを形成しました。

右の地図はおそらく戦前のものでしょうが、それぞれ新田の位置を示しておきました。藤江新田 2尾張屋新田 3岡野新田 4平沼新田です。それぞれの新田は、それぞれの事業者の思惑があって埋め立てられましたし、その後の変遷も色々あった事と思いますが、一応、吉田新田物語は終わりたいと思います。ありがとうございました船  


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2007年01月20日

昼行灯(ひるあんどん)・・・

子どもの頃に教わりましたが、「昼行灯」というのは、周りが明るいのに点灯している行灯、つまり、ボーっとしていて、存在感の薄い人間の事です。でも、私は、昼行灯になりたいと何時も思っております。周りが明るい内から何も輝く事もないと思いますが、周りが暗くなった時にこそ、行灯が役に立つ訳ですからね・・・face02

ところで先日の「青織部」の丼であんかけラーメンを頂いて見ましたよ。本当にびっくりしてしまいました。これだけぴったりと合うとは思ってもいませんでした。私は、グリーン系と食べ物はもしかしたら合わないという、先入観でした。昔、ドイツ製の「グミ」と言うお菓子を頂きましたが、味は問題ないお菓子でしたが、緑の蛙・・・日本人の感覚とは違うなーと変な意味で文化の違いを実感したものです。  


Posted by shin344 at 20:49Comments(4)日記

2007年01月18日

武士の一分観ました・・・

キムタクが何で出てるんだ、何故キムタクじゃなけりゃーいけないの?色々と葛藤した結果、観なければ結論を出せないと遂に観てしまいました。感想を言いたいのですが、私の拙い映画評で一人でも観る気が削がれる方がいれば、それは申し訳けありませんから、問題のキムタクの演技についてだけ感想を述べさせて下さい。一言で言いますとストーリーの割にはキムタクは薄っぺらい・・・感情移入が出来ませんでした。ただ脇役が良い演技でしたので、救われた感があります。その辺にしておきますface13



今日の肴は、ホウレンソウと桜海老いりチーズオムレツ(ちょっと壊れましたが)とウインナーです。


今日は職場で、各部屋を禁煙にするための壁塗りを業者と打ち合わせ・・もっとも、業者と言っても、リフォームに精出して居る内に、どちらが本業か分からなくなった、同じ法人の職員ですけれどねicon10高い?給料貰ってなにやってんだか・・・face06  


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2007年01月17日

絶対忘れられない思い出・・・

今日は「阪神大震災」から12年目の日ですね。大震災が起きた朝、私は宿直明けで、早朝に天気予報を観るべくテレビを点けましたら、「関西方面で大きな地震があったもようです」とテロップが流れていました。

それから数週間後に、神戸のある施設を訪問して、震災時にどのような対応をしたのかを伺いに行った事があります。大阪辺りから、ブルーシートで屋根を覆っている光景が目に入り、未曾有の災害に身の引き締まる思いでした。神戸のある駅で降りて訪問する施設に向かう途中の事です。周囲の建物といい店舗というのは全て倒壊して至る所ブルーシートでしたが、前から来た「おばあさん」がいきなり私に話しかけて来ました。

以下その会話を・・・・
おばあさん:「わて、死んでもええやろか?・・・」。もちろん唐突でしたから私は「?」状態でしたが・・・
私     :「いや、死んではいけませんよ」とやっと言えましたが・・・おばあさんはさらに、
おばあさん:「わての息子、(地震で)みんな死んでしもうたし、生きててもなー」
私     :「いや、やっぱり生きて下さいよ・・・」


それだけで会話は終わりましたが、その後の施設での地震に対する奮闘振りの話しなどは、あまり頭に残って降りません。あの、おばあさんが話しかけて下さった事で全ての震災被害者の心にとてつもない、傷跡を残したのが少しでも理解できた事が、決して忘れられない思い出として心に残って居ります。大震災で被害を受けられた方に心からの、お悔やみを申し上げます。あの、おばあさん、その後どうしたのかなぁー・・・・  


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2007年01月17日

こいつぁ~春から 縁起が良いなぁ~♪

陶芸の名人にお願いしていたマイ丼がさっき届きました。心待ちにしていましたので、とっても嬉しいです。私は子供の頃、縄文式風土器を、自分で粘土を掘り出して作ったりの独り遊び以来、陶芸をしたい気持はずっと忘れていませんが、定期的に休める仕事でもありませんから、陶芸教室に通うとなると、中々これが、難しいんです。

そこで、私がとっても好きな作風の陶芸家の方にお願いをして作って頂いている訳です。晩酌のフリーカップも、その方の作品です。そして、これが、さっき届いた丼です。暖かく優しい釉薬(タイガーアイだそうです)の流れがなんとも言えない風情です。これで、丼物を頂く時の楽しみが倍増です。もうひとつ、美しい緑(青織部だそうです)の釉薬の丼は梱包はそのままにして、職場で楽しみたいと思って居ります。去年、窯の具合が悪いとかで、爆発してしまったり、色々と大変だったそうですが、本当にありがとうございます。年初めの嬉しい出来上がり、今年は良い事が沢山ありそうですface02


そして、私の呑ん兵衛ぶりをご存知の、この名人から、大好きなテキーラも同封されていましたよ。しかも、ビーフジャーキーのおつまみつきです。これもまた春から、縁起がいいですが、「呑み過ぎないように」ってメッセージも頂きました。アルコール40°ですが、猪口のような小さいグラスにストレートで呑みますから大丈夫ですよ。息子が帰ったら、二人でやれるようにチビチビいきますから・・・face02  


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2007年01月17日

吉田新田物語12・・・太田屋新田2

太田屋新田は横浜新田に隣り合わせた現弁天通りから関内駅付近までの横浜公園を含めた太田町、相生町、住吉町、真砂町、尾上町を称します。この新田は三州(三河)の、太田屋徳九郎さんが開発しましたが、横浜新田(現中華街)と比較してもかなり広い割にはその面積の80%が潮流の干満する沼地でした。そして僅か5戸の住民が葦を刈ったり、魚蝦を獲ったりの生活で、石高は横浜新田の150石に比べて、僅か38石と言われております。巨額な資金を投じて、埋め立てを行ったものの、土地からの上がりがなければ、採算は当然取れませんから、徳九郎さんは故郷三河から、源左衛門さんと言う親戚を呼んで、土地の差配や、三州瓦を焼いて江戸に売ったりと四苦八苦している内に、この辺が開港に伴う需要も高くなり、かなり発展して来ました。そして今の街並みの基礎が出来上がって来ました。この太田屋新田の街は、羽衣町付近に移設された弁天社や伊勢佐木町辺りにこれまた、現横浜公園の地から豚屋火事により移設された「遊郭」、そして、他方、外国人居留地の入り口を持つと言う位置関係から、遊郭の出入り商人や、外国人の商用を取り持つ職種の人達が多く住んでいたという事です。記録によりますと、この街には、料理屋、そばや、湯屋(銭湯)、などが多く、住民の職業も古道具商、荒物商、仲買商、煙草商、芸師匠、芋商、青物商、等々、様々な人達が多かったといいます。

ところで、馬車道というのがありますが、この道は当時、外国人が、伊勢佐木町辺りに移設された遊廓へ通う為には、居留地から大きく迂回を余儀なくされる為に馬車でストレートに通れる道を造るよう外国の圧力で出来たという逸話もありますが、どうも、太田屋新田後の都市計画を紐解いて行きますと、そのような単純な理由ではないように思えます。太田屋新田はこれで終わります。  


Posted by shin344 at 12:19Comments(0)歴史

2007年01月17日

吉田新田物語12・・・太田屋新田1

吉田新田の埋め立てが行われた時代は各地域で新田が多く開発されました。初代吉田勘兵衛さん自身も、吉田新田埋め立ての前に、東京千住で埋め立て事業を行った事は前述の通りです。現在の横浜を形造る埋め立てで忘れてはならないのが、太田屋新田です。ここに一枚の地図がありますが、これは、慶応2年(1866)の大火(豚屋火事とも言われ、豚肉料理店から出火)の消失地域を表した、ジャパン・ヘラルド紙の記事です。黒塗りになった場所が消失地域ですが、遊郭(現横浜公園)への堤の角の店から出火して遊郭はおろか、本町方面までの広範囲が消失しました。この火事が太田屋新田西部地区の埋め立てに拍車をかけた事は確かな事です。  


Posted by shin344 at 09:47Comments(2)歴史

2007年01月16日

「婦人」という言葉について・・・

本日、職場にN地区女性会の方たちが、観光バスを仕立てて、24名も、慰問に来て下さいました。私の職場を出た後は、三渓園で昼食ですって・・・良いなぁー!・・・という事ですが、気になりますのが、この女性会、数年前までは「婦人会」だったんですよ。

世の中には数々の差別用語はありますが、「婦人」が差別用語だとはどうしても思えませんが、私の感覚がおかしいのでしょうかねー。ある人にお聞きしたら、「婦人」に対応する男性の呼び名がないからという事でした。昔、公衆トイレなんかに「婦人」とか「殿方」とか書いてあった記憶がありますが、その「殿方」が偉そうだからなんでしょうか?ご存知の方、教えて下さいませんか?・・・私は「ご婦人」とか「婦人用」とかごく普通に使っていて違和感はありませんけれど・・・そうそう、ブルグミュラー作曲の有名なピアノ曲「貴婦人の乗馬」は「貴女性の乗馬」になっちゃうんですか・・・そんな題名では、貴婦人が落馬しそうな感がしますけれど・・・尚、「婦人」という言葉が本当に差別用語であって、不愉快な思いをされた方がいらっしゃいましたら、お詫び申し上げます・・・(と、立ち上がって角度90°のお辞儀してますicon10

今日の肴は玉子焼きとソラマメ(冷凍)です。宿直明けであまり胃袋の動きが良くないので・・・それなら食べるな?呑むな?いやとてもとても無理難題でありますface07  


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2007年01月14日

アメリカ人宣教師・・・

子供の頃、クリスチャンだった母の影響で、教会の日曜学校に通いました。そのN町教会に、B・ハドソンさんと言う米国人の女性宣教師がおりました。ものすごいパワフルな方で、日本で宣教活動をしようと決めた時に、一週間ほとんど寝ずに日本語を覚えてしまったと言う伝説が残りますし、米国で音楽博士の資格を取得されたとも聞いて居ります。

私はその頃、マリンバを習っていましたが、先生は神奈川県警の音楽隊員で、ピアノで伴奏などしてはくれませんでした。そこでハドソンさんにお願いして、確か「ハンガリア舞曲第6番」だった記憶がありますが伴奏をお願いしましたら、快諾を頂き、な、なんとあの難曲(今の私にもおそらく弾けないかと思います)を、し、しかも初見で、スラスラっと演奏してしまわれました。こんな人に私は初めて会い、つくづく、自分自身は、井の中の蛙と同じで、世間知らずなんだなーと、思いました。

小学校6年生の時の事です。その後、今の仕事に就くまでの30年間、音楽の畑で大した実りもないままですが、過ごせたのも、B・ハドソンさんの影響は大きかったとフト思うこの頃です。B・ハドソンさん、その後、NHK教育テレビで英語番組に出ていられましたが、その後、どうされたのかは、私の母が亡くなって以来、分かりません。還暦が近くなりますと、色々な思い出が、時々沸々と湧いて来る事があります・・・お迎えが近いのかなーface13

今日の肴ですが、「白和え」と「納豆の上に青菜とシラスのお浸しを乗せたもの」、そして「焼豚」3枚です。  


Posted by shin344 at 19:00Comments(7)日記