2008年07月30日

真景横濱今昔・・・元町

1854年(安政6年)6月2日列強国の圧力に屈するようにして、横浜が開港されました。当初は、開港の地は「神奈川」つまり現在の横浜(旧神奈川宿)辺りでしたが、ここは、東海道の要所でもありますから、江戸幕府は、この静かな砂州の白砂青松の地、神奈川宿から離れた旧横浜村(現マリンタワーの周辺辺り)を開港の地としました。
福音館「ある都市のれきし」より。scemo加筆。                 開港時の横浜俯瞰図

横浜村は横浜市歌にもあるとおり、「昔おもえば とまや(粗末な家のこと)の煙 ちらり ほらりと 見ゆる ところ」、約80軒があったそうですが、想像すら出来ませんね。

そのような半農半漁の横浜村民にとっては降って湧いたような横浜開港です。折から攘夷(外国人排斥)の機運の中、かつての横浜村の地は、外国人居留地となって、横浜村民は、俄かに掘られた文字通り「堀川」の対岸元町の地に移住させられてしまいました。

村の農地を増やすために、横浜新田まで開拓した村民に、村への愛着が無かったとは言えません・・・多分、泣く泣く移住させられて行ったものと思われます。


今でこそ、若者や女性を引き付ける「元町」となったのですが、自分達の村が外国人たちに奪われ?た上、次から次に瀟洒な洋館が建ち、発展して行く姿を垣間見て、きっと、プライドを燃え立たせ、今の元町を造り上げるエネルギーにした事でしょう・・・


居留地109番地付近から望んだ元町「増徳院」です・・・ただし、明治中期の姿ですけれど・・・







    提供:長崎大学附属図書館


当時と同じ109番地付近から増徳院を望みましたが、かすかに増徳院薬師堂が見えるだけです。増徳院本堂(上の図の大屋根)は既に無く、元町通りになっています。


これが明治時代の増徳院薬師堂です・・・







    提供:長崎大学附属図書館


そして、現在の薬師堂です。屋根に当時の面影を感じますが、震災や戦災で大分面変わりしたのかも知れません・・・元町・・・「本村(もとむら)」→「本町(もとまち)」→「元町」、町名の変遷にも横浜村民としてのプライドを感じますが、そんな発展する元町の様子をきっとこの増徳院薬師堂は目撃して来たのかも知れません・・・ちょっとロマンチックに纏め過ぎましたかねー・・・icon10  


Posted by shin344 at 09:13Comments(2)横浜今昔物語

2008年07月26日

真景横濱今昔・・・本町通り

以前にもアップした事がありますが、現横浜開港記念館を取り上げてみました。この古写真左側にに写っている塔状の建物は「横濱町会所」です・・・明治7年(1874年)に建てられ、横浜市政が施行された明治22年まで横浜の町政を執っていました。明治23年に貿易商組合会館となりました。

この町会所は当時「時計台」の愛称で親しまれたらしいです。この町会所は後に貿易商会館となりましたが、大正12年の関東大震災で、かなりの被害は受けましたがかろうじて残りました・・・





      提供:長崎大学附属図書館



そして現在は、曲折を経て、横浜開港記念会館として色々な催しや、音楽会などが開かれています・・・重厚でレトロなホールがとても素敵・・・40年前、この舞台でハンガリアン舞曲6番をマリンバ独奏したのが昨日のことの様に思い出します・・・


その同じ町会所から、本町の日本人町を望みます・・・この町会所の前にはまだ話しがあるんですよ。明治時代に活躍した美術家、美術史家、美術評論家の「岡倉天心」の父勘右衛門が支配人をしていた「石川屋」(越前藩の生糸売付店)があった場所であり、岡倉天心の生まれた地としての記念碑もあります・・・


    提供:長崎大学附属図書館

上の写真でこの町会所からの現桜木町方面への本町通りは、日本人商人の町でした。逆に反対側は、外国人居留地・・・ところが今では、当然の事ながら、どちらも同じ高層ビルの街並みになりました。

もちろん、昔のままの姿で残って欲しいとは思いますが、これが町、都市が成長するという事なんでしょうね。何という事のない街並みを、昔日の姿と連想させて眺めるのも中々楽しいですよ・・・  


Posted by shin344 at 17:51Comments(0)横浜今昔物語

2008年07月24日

海水浴・・・北条海岸

利用者さんを連れて、房総半島の先、千葉県北条海岸で海水浴しました・・・私は付き添いと陸上当番なので海には入りませんでしたが、それだけでも、日に焼けて、あちこちピリピリヒリヒリしています。まして、海の中で思い切り遊んだ人は、ちょいと触れただけでも、ヒーヒーと痛がっていました・・・それが過ぎると、あちこち皮だらけになるんだなぁ・・・







この海岸線からずっと沖の方で、固まって遊んでいるのは全員、我が利用者さん達、楽しそうだなぁー・・・反面、白けて、浜辺でじっとしている、我がままオヤジ共も、遊んでいた人と同じ位いましたけれどね。




お昼は、それぞれ引率する職員の班により、色々な場所での食事となりましたが、私の班は「COCO’s」(COCO一番・・・カレーチェーン店のファミレス?)での食事・・・私はエビフライハンバーグとやらのメニューでした・・・普通に美味しかったです・・・cup  


Posted by shin344 at 21:12Comments(0)日記

2008年07月22日

真景横濱今昔・・・元町百段

元町堀川にかかる「前田橋」から、まっすぐに山手浅間(せんげん)山にぶつかると、そこから「元町百段」と言う急坂が存在しました。この元町百段、関東大震災で崩壊して以来、なくなりましたが、今でも百段を登り切ったところに「百段公園」があり、相変らず横浜を一望できる眺望を誇っています・・・



手前が前田橋でその奥に百段階段が見えます・・・・




















                                         提供:長崎大学附属図書館



別な角度から見ますともっとはっきりしますね・・・







横濱名所絵葉書より




現代の前田橋からは、ご覧のように、高速道路や、当時の2~3倍以上も高くなった建物のお陰で全く、想像すら出来ませんね・・・






それでも諦め切れない、私は、元町百段が架かっていたと思われる場所に、いたずら書きまでしてしまいました・・・ここは丁度、元町の有名レストラン「霧笛楼」の裏手に当たります・・・


そして、ここが百段を登り切ったところにある「元町百段公園」です。百段が存在していた頃は茶店があり、眺望を楽しむ沢山の人たちも居たそうです。その後、個人のお宅になった事もあるようですが、今はこうして公園となって居ります。




この百段公園の地から明治時代に写された映像です。









提供:長崎大学附属図書館



大体同じアングルから横浜港方面です・・・眺望は確かに良いのですが、崖に近いと危険なせいでしょうか、このように雑草が眺望の邪魔をしています。そして、もはや「元町百段」は名前ばかりの記念となっていますから、公園の整備もあまりなされていないように思えましたし、アクセスもけっこう大変でした・・・



正直言いまして、元町百段は関東大震災以降、無くなったとは以前から聞いていましたので、今ではもう痕跡すら無いだろうと思っていました・・・確かに何もないのですが、実に驚いた発見は「百段公園」が存在したことでした。もう少し整備されていたら良かったと贅沢な事を言ってますが、元町百段も段々と皆の記憶から忘れ去られて行く運命なんでしょうね・・・










  


Posted by shin344 at 09:33Comments(0)横浜今昔物語

2008年07月21日

L’ATELIER COULEURS36のお菓子

今日、私たちの娘になる予定の女性を息子が連れて来ました。そこでデザートとして、ずっと気になっていたものの、何か大義名分が無い限り、購入する勇気が湧かなかった「ラトリエクルール36」のお菓子を買って来ました・・・カラフルな上、とっても美味しかったです・・・

右から

紅芋モンブラン

クラシックショコラ

ピスタチオナッツのムース

栗モンブラン

パンプキンのモンブラン  


Posted by shin344 at 14:59Comments(3)日記

2008年07月21日

真景横濱今昔・・・横浜税関

横浜税関の建物は、昭和9年に建てられ、イスラムのモスク風の塔が横浜三塔のひとつ「クイーン」と称されます。しかしそれ以前の横浜税関の建物は、実はこんなところにあったんです・・・・

明治18年(1885年)に建てられた横浜税関は大正12年の関東大震災で倒壊するまで、日本大通りのアイトップであり続けました。つまりこの写真の税関に至る通りは「日本大通り」となります。






                                      提供:長崎大学附属図書館




現在の税関は、ここから向かって左側へ100m位の場所に屹立しております。旧税関跡には、古い建物(何の目的だったかなぁ)がありましたが、何かに建て替えられるのか工事用の仕切りがありました。この日本大通り右側が旧英国領事館(開港資料会館)、左側が神奈川県庁舎となります・・・横浜開港の際、アメリカの使節団を迎えた応接所は、この旧税関の地にあったと想像されます。  


Posted by shin344 at 09:47Comments(0)

2008年07月20日

真景横濱今昔・・・本牧十二天

本牧十二天とは、本牧海岸に突き出した景勝地でした。白砂青松のこのかつての景勝地も今では埋め立てにより、その痕跡すら残っていないのが現状です。



元治元年(1864年)山手と本牧をめぐる外国人遊歩道路が作られ、この本牧十二天にも支道が設けられました。


本牧十二天社は、本牧本郷村(現・本郷町)の鎮守であり、この海に突き出た丘の上に鎮座していました・・・


本牧十二天への沿道には、このような茶店が設けられていました。こんな風光明媚な景勝地、本牧十二天も周囲の海が埋め立てられてしまいまして、景勝地の意味を全く失ってしまいました。







                                    3画像とも、提供:長崎大学附属図書館


そして、現代の同じ場所を見つけました。何の変哲もない丘・・・ここが本牧十二天であったことを知らなければ、ただ何気なく通り過ぎてしまうんでしょうね・・・事実私がそうでした。何度もここを通ったのに・・・icon10


本牧十二天を含む本牧海岸の様子ですが、ここに写っている場所には現在、下水処理場があって、関係者以外は入れません。下水処理場の前は、アメリカ軍に接収されていた事もあるそうです・・・







                                        提供:長崎大学附属図書館


前方の丘が本牧十二天社のあったところです。上の画像にギリギリまで近づこうとして、本牧公園の野球場まで浸入しましたが、ここまででした・・・



暑い中の炎天下、頭がくらくらとして、すわ「熱中症」と思いましたが、確かに別の意味で熱中症かもね・・・icon01icon11  


Posted by shin344 at 16:13Comments(2)横浜今昔物語

2008年07月19日

真景横濱今昔・・・磯子菖蒲園

横浜の郊外、磯子に大勢の人が、人力車などで訪れたと言う「磯子菖蒲園」があると聞きました。それで、磯子区役所で会議があったのを幸いにして、磯子郷土史の図書を漁っていましたらこんな一文がありました『間坂(まさか)交番坂を登って、旧道にぶつかるところから、プリンスホテル(今はもうない磯子プリンスホテルの事です)に向かって五軒目位のところから、右側一帯の山の上まで約60アール(五・六反)を有し、唐沢(横浜市中区唐沢)の植木商会が米国輸出用に栽培し、名所となり人力車などで見物人が訪れた』・・・それがここ磯子菖蒲園です。




一体何処にこんな菖蒲園があったのだろうかと、上の一文通りの道のりを辿って見ましたが、今や全くその痕跡すら見い出すことが出来ませんでした・・・・


わずかに、地形から察しますと、この辺りかなぁーと思われます・・・上の画像で菖蒲を鑑賞している人たち、自分達が居なくなった100年後はこのようになっているなんて、夢想だにしなかったのでしょうね。そんなものでしょうか?人間って・・・・  


Posted by shin344 at 23:14Comments(2)横浜今昔物語

2008年07月18日

真景横濱今昔・・・不動坂Ⅱ

横浜に生まれて横浜で人生の大半を過ごした私にとりましても、横浜は本当に魅力的です。何がそんなに魅力的なのか、最近までは漠然としか分かりませんでした。一部の洋風建築とか、中華街とかそんな横浜を特徴付けるものはありますが、他はほとんど、東京・大阪・神戸などと変わらない都市であることも確かです。

でも、何かが違うんだなぁ・・・街中(まちなか)を歩いていても、他の都市では得られない「何かの安らぎ」を感じてしまうのは、私だけなんでしょうか?そんな何かを追求して見たくて、横浜の歴史を学び、To横濱 100years ago・・・と題して100年から150年前の横浜風景と現代の横浜を比較して見ると、ほんの少し、横浜の魅力何たるかが分かって来た様に思います。

ところで、今までは横浜古写真を「横浜開港資料館」から、使用許可を頂いて掲載していましたが、諸事情により、次の更新からは<「長崎大学附属図書館」所蔵の幕末・明治日本古写真データベース>から画像をお借りする許可を頂きました。ここでも、下の「長崎大学附属図書館蔵」のところでもクリックしてみて下さい。素敵な古写真に出会えますよ。「横浜開港資料館」様今まで本当にありがとうございました。

さて、そんな訳で、タイトルも新たに「真景横濱今昔」と変えましてもうマイペースで横浜の魅力に迫って参りたいと思います。そんな折、私のブログを読んで下さっている方から、「韓国語は?」って尋ねられてしまいました・・・face07
そちらの方も、マイペースで、またアップしたいと思いますが、この「横濱今昔」と同じで、「韓国語」も期待して待ち焦がれていらっしゃるなんて方は皆無だと思いますので、まぁ、義務感使命感なしのお気楽ブログという事で・・・icon10

さて、本題に入ります・・・

根岸駅近くから旭台や根岸競馬場跡(現根岸森林公園)に至る何の変哲もない不動坂ですが、幕末から明治にかけて、この坂から望む根岸湾(今はすっかり埋め立てられてしまっていますが)は当時ミシシッピー湾にも匹敵する位の景勝地で横浜の在留外国人たちのかっこうの遊歩道でした。


そして、もちろん日本人たちも好んで遊山したようですよ。人力車の親子なんでしょうか。車夫は大変でしょうが、本当にほのぼのとした光景ですね。この親子は何処から来て何処へ行ったのでしょう。明治 中期頃の写真と思われます。




  2点とも長崎大学附属図書館蔵


そして、現在の「不動坂」です。横浜は坂が多いと名古屋出身の人が嘆いていましたが、横浜人にとっては何ら不思議なことでもありませんし、この「不動坂」も今は地名として残るだけで、ミシシッピー湾も見えませんし、ごく普通の坂のひとつです。でも、100余年前には人力車が喘ぎながら登ったなんて知りますと、何となく、さすが不動坂!なんて思ってしまいます・・・face02  


Posted by shin344 at 18:39Comments(1)横浜今昔物語

2008年07月15日

ポニョ・・・

暑くなって来ますと、ここ堀割川には無数の「水クラゲ」が現れます。沢山の水クラゲが群れているのは、実に暑苦しいのですが・・・



こんな風にたった一匹で、しかも一生懸命に泳いでいる姿には、何となく感動してしまいます。奴らも生きているんだと・・・可愛いポニョが隠れているような・・・face05  


Posted by shin344 at 19:57Comments(2)日記

2008年07月12日

只今減量中・・・

ダイエット4ヶ月目になります・・・ダイエットとは言いますものの、毎日晩酌を欠かさなかったのを、休日の前夜だけにした事と、一日の摂取総カロリーを落とす事、そして、こまめに体を動かす事位なんです。それでもここ4ヶ月で約4㎏は落ちています・・・しかしお付き合いの酒席なんかがあると、何だか一進一退のような気もしますので沢山のカロリーを摂取したと思ったら次の日の食事で調整したり、けっこう楽しみながらやっています・・・



夕べもそんな酒の席がありまして、飲む時はダイエットの事などすっかり忘れた振りをしてガバガバと飲んで食べてしまう意志薄弱なジジイなんです・・・ハイicon11・・・夕べは予算の割には沢山のご馳走が出て、最後の水炊きに至っては、手を付けている人が少ない位、残った食材は使い回しするのかな?


そして今日ですが、昨夜の飲み会で鶏の唐揚げがとても美味しかったので、今日も食べたくなって、作りました。ただし、ダイエット中の身分ですから、鶏の代わりに「デーツ(オカラコンニャク)」を使いました。

デーツでググりましたら、私の懐かしいブログが出て来てしまいました・icon11  


Posted by shin344 at 18:49Comments(0)日記

2008年07月12日

根岸競馬場跡・・・

横浜根岸の地に競馬場があった?横浜が開港され、外国人居留者が増加した結果、彼らの楽しみであった競馬も開催されるようになりました。現在の「根岸森林公園」の地が馬場でした。



ここが明治中期の観覧席です。こじんまりとした素敵な競馬場だったんですね。この観覧席はその後、関東大震災(大正12年)で壊滅してしまったそうです。


残念ながら上の画像からのアングルですと、丁度米軍の施設があって、撮影不能です。それでも、米軍施設フェンスギリギリまで詰め寄って、少しでも近づいて見ました。


現在のこの観覧席(一等)は、震災後の昭和5年(1930年)にJ・H・モーガンの設計により再建されました。その眺望の良さから、戦時中は海軍に接収されたり、戦後は米軍に接収、歴史の辛酸を舐めたのでしょうね。それでも、毅然とした立ち姿はとても魅力的です。


残念ながら内部を見ることは出来ませんが、是非見たいという事ならば、観覧席裏手の設計者を記念した「モー(ル)ガン公園」には、当時の設計図や内部の様子などが掲示されています。  


Posted by shin344 at 10:42Comments(0)横浜今昔物語

2008年07月06日

あざみ野 「権八」・・・

朝晩通過する「あざみ野」駅に前からかなり気になっていた「権八」という蕎麦屋に行って来ました。年寄り夫婦がひっそりと入るのを何度か目撃しましたので、もしかしたら、格式が高くって頑固一徹の蕎麦職人がやっていて、小うるさい薀蓄でもたれられるような、お店かなぁーと恐る恐るだったんですが・・・・
中は、大きな厨房に若者の店員がキビキビと働いていて、とても外から感じた印象とは全く違っていてむしろ嬉しかったですね・・・日本蕎麦屋さんは何かこう敷居が高いように感じるお店が多いのですが、ここは、元気の良い「ラーメン屋」のような気楽に足を運べそうな・・・で、肝腎のお味は、私は天麩羅にはあまり興味がないので、シンプルな盛り蕎麦(せいろむし)だけで充分、私にとりましては、とても家庭的な良い味でした。「布屋太兵衛」のお店は確実に格式を感じましたが、それとはまた違った意味で美味しかったですね。でも、ちょっと高いかなー・・・
  


Posted by shin344 at 17:22Comments(2)日記

2008年07月05日

To横濱 100years ago・・・弁天通り

弁天という地名について・・・江戸時代の横浜は、今のマリンタワー辺りの横浜村から桜木町方面への鳥の嘴状の「砂洲・・・洲干島」でした。その先端には弁天社がありました。今は全く痕跡すらありませんが、正金銀行(現神奈川県立博物館)が、この弁天社の一の鳥居があったと記録に残っています。


明治中期の弁天通りの様子です。弁天社自体はこの頃、既に、遷宮されていますが、元弁天社への参道として賑わっていたようです。右側の高い建物は「河北時計店」ですが、今は、その痕跡すら分かりません。


このように「弁天」は現在、通りの名として残っています他、弁天橋などがあります。因みに弁天社は現在、伊勢佐木町の道を一本隔てた羽衣町のビル街に不釣合いな赤い鳥居の場所に移築されております。そして、弁天通りは今、飲食店や商社がチラホラする静かな通りになっております・・・  


Posted by shin344 at 10:24Comments(0)横浜今昔物語

2008年07月05日

血・・・

兄弟が居ないし、親戚とも付き合いの少ない、私にとって、同じ血の流れを持った人とのときめきはほとんどありませんでした。ところが先日、伯母の卆寿祝いパーティーで一緒になった青年(従姉の息子)と職業が同じという縁で飲む機会がありました。

背が高くて体格の良い彼が、幼い子ども達にどう接しているのか、想像しただけで笑みが出てしまいます。

そんな身長と体格は我が家系では普通、私の息子もしっかりとデカイ!・・・もっとも私は縮む一方ですが・・・icon10

そして豪快に飲むこと、ビール大ジョッキで10杯以上グイグイっと・・・私もそういうの大好きで私の飲み方のペースと自負していましたから、負けじと同じ位、グイグイっと行きました・・・beer_01

そして、思考形態など、やっぱり私の祖父母の考えと似ていて、私の祖父母に彼は会った事がないはずなのに、本当に不思議なものです。

これが血の流れというもので、既にこの世の人ではない祖先たちは、私たちの血の中で生きているんだなぁってつくづく感銘しました。  


Posted by shin344 at 09:55Comments(2)日記

2008年07月01日

玉楠物語



安政元年(1854年)日米和親条約が締結される際にペリー提督たち使節団が上陸した時の様子を描いた絵です。この絵の右端に描かれている大きな「玉楠」のお話しです。この使節団が上陸した地点は、現在の大桟橋付近と想像されますがこの玉楠樹は当時駒形水神の森といわれ、丁度現在の横浜開港資料館横の和親条約締結記念碑辺りにありました。慶応2年の「豚屋火事」でも消失を逃れ、大正12年の関東大震災では真っ黒に焼けたそうです。しかし、根元から横生えが年を経て再び立派な玉楠として繁茂しました。その後昭和15年英国領事館(現開港資料館)に移植されて、現在も中庭に大樹として存在して、訪れる人々を出迎えてくれます。アメリカの使節団が列を成して向かった先は、横浜の応接所は現在の県庁と横浜開港資料館の間・・・日本大通りの地・・・にありました。それでは、当時大群衆どよめき、玉楠の樹が見つめるこのペリー率いるアメリカ使節団が上陸した場所を望んで見ます・・・


正面が大桟橋入り口です。もちろんペリーたちが上陸した当時大桟橋は存在しませんが、後に「イギリス波止場」や「象の鼻」と称されるこの地はやはり上陸し易い場所だったようです。そして使節団の隊列は正面左に見えるレストラン「スカンジナビア」付近を、右折して、応接所に向かったのでしょう・・・この写真を撮影した石畳の和親条約締結の公園(隣りが開港資料館)が駒形の森であった事は容易に想像出来ます・・・その頃の様子が、見えて来るようです・・・船

  


Posted by shin344 at 20:39Comments(0)横浜今昔物語