2008年10月29日
判決・・・
先日傍聴した裁判の判決を、また傍聴に行きました・・・
判決は・・・「懲役5月(げつ)に処する」・・・と一言、そして「主文」と続きます。判決から主文読み上げまでたったの5分・・・主文では、犯罪の内容と情状酌量される事柄が読み上げられます。被告の母親が涙ながらに証言した事などは随分酌量されていたようでした。でも、裁判の時にはホロホロと泣きじゃくっていた母親が、法廷を出た途端に、何食わぬ顔で歩いていたのが印象的で、この被告は犯罪を重ねていましたから、これは大分裁判慣れした人だなぁと変に感心したものです。
法廷内はむろん撮影禁止でしたから、スケッチしてみました。でも、私は記者ではありませんから、人物は止めました。それでも、私の仕事上、このような法廷で裁かれて、矯正と言う償いをした後の更生を手伝って約20年・・・初めて法廷の実際の裁判に触れて、法廷ってこんなに簡単に傍聴出来るのかって本当に意外な気がしました。私が裁判員に選ばれでもしたら一体どうするんだろうと思いますけれど、せいぜい傍聴して法廷の雰囲気に慣れておくのも一手かなーと、つくづく感じました・・・
判決は・・・「懲役5月(げつ)に処する」・・・と一言、そして「主文」と続きます。判決から主文読み上げまでたったの5分・・・主文では、犯罪の内容と情状酌量される事柄が読み上げられます。被告の母親が涙ながらに証言した事などは随分酌量されていたようでした。でも、裁判の時にはホロホロと泣きじゃくっていた母親が、法廷を出た途端に、何食わぬ顔で歩いていたのが印象的で、この被告は犯罪を重ねていましたから、これは大分裁判慣れした人だなぁと変に感心したものです。
法廷内はむろん撮影禁止でしたから、スケッチしてみました。でも、私は記者ではありませんから、人物は止めました。それでも、私の仕事上、このような法廷で裁かれて、矯正と言う償いをした後の更生を手伝って約20年・・・初めて法廷の実際の裁判に触れて、法廷ってこんなに簡単に傍聴出来るのかって本当に意外な気がしました。私が裁判員に選ばれでもしたら一体どうするんだろうと思いますけれど、せいぜい傍聴して法廷の雰囲気に慣れておくのも一手かなーと、つくづく感じました・・・
2008年10月26日
真景横濱今昔・・・港崎遊廓
遊廓?と眉をひそめる向きもあるかも知れませんが、江戸時代の文化を語る上では欠かせない裏事情ではある訳です・・・一寒村だった横浜も、開港後の人口増加に伴い、遊廓も必要悪?として当然のごとく立ち上がったのです。今は横浜スタジアムのある横浜公園が実は岩亀楼をはじめとする遊廓で当時、「港崎」(こうざき・・または、みよざき)と呼ばれる、太田屋新田埋め立て前の、浮島状態(あるいは堀を廻らせた城のような)だったようです。
これは慶應元年にクリぺと言うフランス人技師が描いた地図ですが、この真ん中の浮島のような部分が「港崎遊廓」です・・・
ところが、慶應2年(1866年)11月26日朝、この「港崎遊廓」への一本道の角に豚肉屋があり、そこから出火・・・たちまち「港崎遊廓」はじめ、黒く塗りつぶした市街を焼き尽くした、いわゆる「豚屋火事」が発生しました。
この「豚屋火事」で自らも居留地52番地で商館を類焼させたスイス人「ジェームス・ファブル・ブラント」の記述をひも解いてみたい。「ガンキローまたはヤンキローと呼ばれた茶屋は・・(中略)・・今のクリケットグラウンド(横浜公園)のほぼ真ん中に位置していた。・・・(中略)・・・最も宏壮な「シンガンキロー」の最上等の部屋で、領事を含む外人たちは、日本の山海珍味を饗されて、外人たちは、煙草を吸い、笑い(外人には珍しいことだが)20人ほどのゲイシャの囃子を聴きながら、踊る女達のゆがんだ表情を眺めていた。一方おびただしく着飾ったゲイシャは、卓子の傍で、「オバサン」(遣手婆)の指図のもとに、静かに立ち働いていたと言う。1866年朝9時頃、ガンキロー付近から発した火事は同地区を焼いた。壕に囲まれた島には橋がひとつしかなく、外人も日本人も大勢のゲイシャを渡し船で救い出そうとしたが、その努力にも拘わらず、彼女等は気の毒にも焼死してしまった・・・J・ファブル・ブラント著「横浜の風物と事情」より・・・400人もの遊女が亡くなったそうです・・・
さて、この「港崎遊廓」のその後ですが、この「豚屋火事」をきっかけにして、しっかりと「関内」から排除されましたよ・・・前回アップした羽衣町辺りの一つ目沼近くへ移されて後は高島町へ行ったようです・・・遊廓は一種の社会の裏面史ですから、確たる資料もあまり残っていません。
この古写真ですが、一体何処なんでしょうか?・・・精査の結果、奥の方に、「岩亀楼内」と書かれた看板様のものがあるそうです。この写真をかなり拡大してみても分かりませんが、きっとあるんでしょうね。と、すると、これは、「港崎遊廓」から焼け出されて、移転させられた先、羽衣町かも・・・今は羽衣町に含まれてしまっていますが、羽衣町の伊勢佐木町寄りの一角(横浜弁天社のある辺り)は「姿見(すがたみ)町」や「吉原町」と呼ばれました。江戸の「吉原遊廓」や遊廓大門(おおもん)の入り口「姿見」に見立てた訳ですね・・・ 提供:長崎大学附属図書館
向かって左側木立は、大通り公園で、数十年前には吉田川と言う運河でした。右側が羽衣町です・・・従ってこの辺りの写真かと想像する訳です・・・しかし・・・
もう一箇所の候補地、吉田橋辺りから、旧姿見町、羽衣町を望みます・・・向かって左側車の沢山走る道路の左端は、昔の運河ですから、ここも怪しいのです・・・さて、どちらかなぁ?・・・遊廓と言う場所が場所だけに、記念碑なるもの等、全くないです(横浜公園にかろうじて、岩亀楼の石灯篭が残されている程度)から・・・
これは慶應元年にクリぺと言うフランス人技師が描いた地図ですが、この真ん中の浮島のような部分が「港崎遊廓」です・・・
ところが、慶應2年(1866年)11月26日朝、この「港崎遊廓」への一本道の角に豚肉屋があり、そこから出火・・・たちまち「港崎遊廓」はじめ、黒く塗りつぶした市街を焼き尽くした、いわゆる「豚屋火事」が発生しました。
この「豚屋火事」で自らも居留地52番地で商館を類焼させたスイス人「ジェームス・ファブル・ブラント」の記述をひも解いてみたい。「ガンキローまたはヤンキローと呼ばれた茶屋は・・(中略)・・今のクリケットグラウンド(横浜公園)のほぼ真ん中に位置していた。・・・(中略)・・・最も宏壮な「シンガンキロー」の最上等の部屋で、領事を含む外人たちは、日本の山海珍味を饗されて、外人たちは、煙草を吸い、笑い(外人には珍しいことだが)20人ほどのゲイシャの囃子を聴きながら、踊る女達のゆがんだ表情を眺めていた。一方おびただしく着飾ったゲイシャは、卓子の傍で、「オバサン」(遣手婆)の指図のもとに、静かに立ち働いていたと言う。1866年朝9時頃、ガンキロー付近から発した火事は同地区を焼いた。壕に囲まれた島には橋がひとつしかなく、外人も日本人も大勢のゲイシャを渡し船で救い出そうとしたが、その努力にも拘わらず、彼女等は気の毒にも焼死してしまった・・・J・ファブル・ブラント著「横浜の風物と事情」より・・・400人もの遊女が亡くなったそうです・・・
さて、この「港崎遊廓」のその後ですが、この「豚屋火事」をきっかけにして、しっかりと「関内」から排除されましたよ・・・前回アップした羽衣町辺りの一つ目沼近くへ移されて後は高島町へ行ったようです・・・遊廓は一種の社会の裏面史ですから、確たる資料もあまり残っていません。
この古写真ですが、一体何処なんでしょうか?・・・精査の結果、奥の方に、「岩亀楼内」と書かれた看板様のものがあるそうです。この写真をかなり拡大してみても分かりませんが、きっとあるんでしょうね。と、すると、これは、「港崎遊廓」から焼け出されて、移転させられた先、羽衣町かも・・・今は羽衣町に含まれてしまっていますが、羽衣町の伊勢佐木町寄りの一角(横浜弁天社のある辺り)は「姿見(すがたみ)町」や「吉原町」と呼ばれました。江戸の「吉原遊廓」や遊廓大門(おおもん)の入り口「姿見」に見立てた訳ですね・・・ 提供:長崎大学附属図書館
向かって左側木立は、大通り公園で、数十年前には吉田川と言う運河でした。右側が羽衣町です・・・従ってこの辺りの写真かと想像する訳です・・・しかし・・・
もう一箇所の候補地、吉田橋辺りから、旧姿見町、羽衣町を望みます・・・向かって左側車の沢山走る道路の左端は、昔の運河ですから、ここも怪しいのです・・・さて、どちらかなぁ?・・・遊廓と言う場所が場所だけに、記念碑なるもの等、全くないです(横浜公園にかろうじて、岩亀楼の石灯篭が残されている程度)から・・・
2008年10月23日
真景横濱今昔・・・横濱弁天社物語
開港の頃一寒村だった横浜村は、今のマリンタワー辺りに散在した約90戸の半農半漁でした。そしてこの横浜村から野毛方面に象の鼻のように伸びた砂州だったとは、今の横浜を知る人の誰が想像出来るでしょうか?その砂州(州干島、または宗干島、州乾島)の先端には横浜村の鎮守「弁天社」がありました。
こんな風になっていたのです・・・焼きなましでスミマセン。一度アップしてもまた、堂々巡りで、再度アップしてしまう事は良くあります
福音社「ある都市のれきし」より(赤字加筆scemo)
これは、以前もアップしましたが、古地図を基にして私が州干弁天社付近を再現してみたものです。赤い大鳥居のところには今は神奈川県立博物館(旧正金銀行)が建っていますと、言うと大体の地理関係はお分かりかと思います・・・
これは幕末の頃の弁天社です・・・開港の後、この弁天社付近に官舎や、試験灯台を建てる為に社は、今の羽衣町に移動させられました。
提供:長崎大学附属図書館
羽衣町に移された弁天社です・・・境内には特に元州干弁天であったと言う記録は残っていません。寂しいものです。近々アップしたいと思いますが、現在、横浜スタジアムのある横浜公園にあった遊廓街が、慶應2年の豚屋火事の後に、関内から関外へ厄介払いされたのもこの羽衣町辺りだったそうですよ・・・
こんな風になっていたのです・・・焼きなましでスミマセン。一度アップしてもまた、堂々巡りで、再度アップしてしまう事は良くあります
福音社「ある都市のれきし」より(赤字加筆scemo)
これは、以前もアップしましたが、古地図を基にして私が州干弁天社付近を再現してみたものです。赤い大鳥居のところには今は神奈川県立博物館(旧正金銀行)が建っていますと、言うと大体の地理関係はお分かりかと思います・・・
これは幕末の頃の弁天社です・・・開港の後、この弁天社付近に官舎や、試験灯台を建てる為に社は、今の羽衣町に移動させられました。
提供:長崎大学附属図書館
羽衣町に移された弁天社です・・・境内には特に元州干弁天であったと言う記録は残っていません。寂しいものです。近々アップしたいと思いますが、現在、横浜スタジアムのある横浜公園にあった遊廓街が、慶應2年の豚屋火事の後に、関内から関外へ厄介払いされたのもこの羽衣町辺りだったそうですよ・・・
2008年10月22日
真景横濱今昔・・・フランス山
文久2年(1862年)に起きた生麦事件にきっかけにして、フランス政府は、翌文久3年(1863年)よりフランス海兵隊を山手186番地に駐屯させました。現在のフランス山といわれる約3000坪に日本側負担による3棟の建物が造られました・・・
このフランス山に駐屯したフランス軍の数は、最初は20名だったのですが、後に300名の大所帯となったそうです。この頃のフランス山からは、開港直後の港や外国人居留地の様子が良くうかがう事ができます。自国民や居留民を攘夷の嵐から救うには、誠に当を得た場所だったようです・・・
提供:長崎大学附属図書館
現在のフランス山には、当時水を汲み上げる為の風車や当時の建物の残骸が残っていて、往時を忍ぶ事ができます。今の港の見える丘公園も、フランス山の一部なんですね。今では、高層ビルの頭がかろうじて見える景色に変化していますが、これも都市の成長なのでしょう・・・
このフランス山に駐屯したフランス軍の数は、最初は20名だったのですが、後に300名の大所帯となったそうです。この頃のフランス山からは、開港直後の港や外国人居留地の様子が良くうかがう事ができます。自国民や居留民を攘夷の嵐から救うには、誠に当を得た場所だったようです・・・
提供:長崎大学附属図書館
現在のフランス山には、当時水を汲み上げる為の風車や当時の建物の残骸が残っていて、往時を忍ぶ事ができます。今の港の見える丘公園も、フランス山の一部なんですね。今では、高層ビルの頭がかろうじて見える景色に変化していますが、これも都市の成長なのでしょう・・・
2008年10月21日
BOSSA 51・・・よろしく!
真ん中の女性がボーカルのSawako Kojima、向かって右が、Takahashi Piere(ギター)、そして左側パーカッションのZenya Togashiです・・・
BOSSA 51は、こちらからどうぞ・・・
私の伯母の孫に当たるZenya TogashiとSawako Kojimaが伯母の卆寿祝いに駆けつけて来て、初めて耳にしました。耳当たりの良い、ボサノバらしい気だるさ、ボーカルのハスキートーンが印象的でした・・・
2008年10月21日
化石石版のはずでしたけれど・・・
40年も昔の事、あるデパートで、アンモナイトの化石がびっしり入った石板で出来たテーブルが目に入って、欲しい、是非とも手に入れたいと思いましたが、当時は全く手に入れる経済力や思い切りはありませんでした。たった、というか、そんなにというのかは分かりませんが、当時の価格は20万円でした・・・
そんな思いの少しでも満足させたいと思い、職場近くの石屋さんで化石が沢山入ったのをお願いと言いまして注文しましたが、残念ながらこのようなものでした。確かに貝殻の化石らしきものは少々認められるのですが、40年前に出会ったあの、アンモナイトびっしりの石板には似ても似つかないものでしたけれど、頑張って化石の多い目の石板を用意して下さった事に感謝して頂きましたよ・・・
その重い石板を片手に持って、今日は、誕生日の食事会・・・利用者さん達と向かいましたが、目指すラーメン屋さん「麺恋屋、東橋店」はどういう訳か、影も形もありませんでしたので、仕方がなく、その近く、「上海軒」なる、ラーメン屋さんでしたけれど、美味しい?不味い?それはどうとも言えませんでした。少なくとも、次も行こうとは思えなかったです・・・石板が重くて腕がかなり痛くなりました・・・
そんな思いの少しでも満足させたいと思い、職場近くの石屋さんで化石が沢山入ったのをお願いと言いまして注文しましたが、残念ながらこのようなものでした。確かに貝殻の化石らしきものは少々認められるのですが、40年前に出会ったあの、アンモナイトびっしりの石板には似ても似つかないものでしたけれど、頑張って化石の多い目の石板を用意して下さった事に感謝して頂きましたよ・・・
その重い石板を片手に持って、今日は、誕生日の食事会・・・利用者さん達と向かいましたが、目指すラーメン屋さん「麺恋屋、東橋店」はどういう訳か、影も形もありませんでしたので、仕方がなく、その近く、「上海軒」なる、ラーメン屋さんでしたけれど、美味しい?不味い?それはどうとも言えませんでした。少なくとも、次も行こうとは思えなかったです・・・石板が重くて腕がかなり痛くなりました・・・
2008年10月18日
真景横濱今昔・・・野毛
野毛と聞きますと、私はまず「飲み屋街」を連想します・・・ジャズが好きな人は「ダウンビート」や「千草」を思い出し、賑やかな事の好きな人は「にぎわい座」や「野毛大道芸」、調べ物が好きな人は、「横浜市中央図書館」や「県立図書館」、コンサートが好きな人は「県立音楽堂」、能が好きな人は「能楽堂」、競馬が好きな人は「場外馬券売り場」と、野毛は色々な人々を集める何とも不思議な街です・・・
大正時代末期の野毛の様子です。この角に見える演芸場のようなものは何なんでしょうか・・・今も昔も野毛は人が密かな楽しみを満喫できる場所だったのかも知れません・・・開港当初は役人の役宅などがあったようですけれど・・・
提供:長崎大学附属図書館
当時の写真の地形などから、おそらくここが古写真の撮られた場所と思いました・・・この緩やかな坂の途中には仏具屋さんが沢山あり、途中には横浜市中央図書館、登り切ったところには、野毛山動物園や野毛山公園があります・・・
若い頃、飲みに行く時の合い言葉、「野毛へ行くぞ!」・・・
大正時代末期の野毛の様子です。この角に見える演芸場のようなものは何なんでしょうか・・・今も昔も野毛は人が密かな楽しみを満喫できる場所だったのかも知れません・・・開港当初は役人の役宅などがあったようですけれど・・・
提供:長崎大学附属図書館
当時の写真の地形などから、おそらくここが古写真の撮られた場所と思いました・・・この緩やかな坂の途中には仏具屋さんが沢山あり、途中には横浜市中央図書館、登り切ったところには、野毛山動物園や野毛山公園があります・・・
若い頃、飲みに行く時の合い言葉、「野毛へ行くぞ!」・・・
2008年10月17日
禅寺丸柿・・・
俺がバラガキだった頃 おやじは甘ガキ、おふくろは渋ガキだった~~・・・何の事?
私が子どもの頃、柿と言うと、この禅寺丸柿でした・・・今の季節何処の農家にも、この柿の木が2~3本植わっていて、それをこっそりと盗み(時効とは言えゴメンなさい)に行くのです。私の家には柿の木がなかったからです。
禅寺丸柿・・・これは、近くに「柿生(かきお)」と言う地名があり、そこに、王禅寺(おうぜんじ)と言う場所があります。その王禅寺に禅寺丸柿の原木があり、それがこの辺り一帯に広まりました・・・何処まで広がったかは調べていませんが、少なくとも私の子どもの頃、50年程昔は全て禅師丸柿でした・・・
しかし今は全く手に入りません・・・農家が農協の直販所に卸したものを手に入れるしかありません。私にとって「柿」と言えばこの禅寺丸柿なんです。やっと、直販所に最後の一袋、4個120円でしたけれど、手に入れました・・・ラッキー!!
大きさを見て頂くために洋梨と並べて見ました・・・五口(くち)位で食べられる小さくて甘い柿でした・・・
私が子どもの頃、柿と言うと、この禅寺丸柿でした・・・今の季節何処の農家にも、この柿の木が2~3本植わっていて、それをこっそりと盗み(時効とは言えゴメンなさい)に行くのです。私の家には柿の木がなかったからです。
禅寺丸柿・・・これは、近くに「柿生(かきお)」と言う地名があり、そこに、王禅寺(おうぜんじ)と言う場所があります。その王禅寺に禅寺丸柿の原木があり、それがこの辺り一帯に広まりました・・・何処まで広がったかは調べていませんが、少なくとも私の子どもの頃、50年程昔は全て禅師丸柿でした・・・
しかし今は全く手に入りません・・・農家が農協の直販所に卸したものを手に入れるしかありません。私にとって「柿」と言えばこの禅寺丸柿なんです。やっと、直販所に最後の一袋、4個120円でしたけれど、手に入れました・・・ラッキー!!
大きさを見て頂くために洋梨と並べて見ました・・・五口(くち)位で食べられる小さくて甘い柿でした・・・
2008年10月16日
裁判傍聴・・・
裁判員制度が間近に迫り、私たちも何時裁判員として選ばれるか分かりませんので、今日は実際の裁判を傍聴しに行きました・・・決して裁判劇ではなく、本当の被告が居て腰縄で連行されて、本当の裁判官と弁護士と検察の人がいます・・・被告の老母が涙ながらに証言し、被告が証言台に立ち、と・・・もう、どんな架空のドラマなどより、心を打たれました。万一、裁判員に選ばれて、裁く側に立った時、果たして本当にまともで的確な判断が下せるのか、全く分からなくなりました・・・
ただし、裁判の傍聴は一般の人でも全く自由にして良いそうです・・・今まで裁判所の前は、警備員がいかめしい格好で番をしているので、決して入ってはいけない場所として、通り過ぎていましたが、そうではないそうです・・・ひとつ世界が広がった気がしました・・・今日の判決は後日ですから、是非ともその日に、傍聴したいと思います・・・
特別に、裁判員に選ばれた時に備えてという事で、法廷を案内して下さいました・・・この写真も、法廷内ではダメ、傍聴席からならOKという許可を頂いて撮らせてもらいましたよ・・・裁判長席に座っている人も、その周りに居る人も私の職場の人です・・・
私の仕事のひとつとして、このような法廷で裁かれて服役した人の更生を見守る事ですから、そういう意味で、ものすごいカルチャーショックでした・・
ただし、裁判の傍聴は一般の人でも全く自由にして良いそうです・・・今まで裁判所の前は、警備員がいかめしい格好で番をしているので、決して入ってはいけない場所として、通り過ぎていましたが、そうではないそうです・・・ひとつ世界が広がった気がしました・・・今日の判決は後日ですから、是非ともその日に、傍聴したいと思います・・・
特別に、裁判員に選ばれた時に備えてという事で、法廷を案内して下さいました・・・この写真も、法廷内ではダメ、傍聴席からならOKという許可を頂いて撮らせてもらいましたよ・・・裁判長席に座っている人も、その周りに居る人も私の職場の人です・・・
私の仕事のひとつとして、このような法廷で裁かれて服役した人の更生を見守る事ですから、そういう意味で、ものすごいカルチャーショックでした・・
2008年10月15日
久し振りの晩酌・・・
休日の前夜しか晩酌をしなくなってから早8ヶ月、それまでは、晩酌をしない夜は宿直の晩だけでしたが、私なりに生活習慣を変えて見ました・・・そしてその晩酌も、仮住まいのキャンプ生活のような状態でしたけれど、ようやく、元のヤサに戻り、落着いて来ましたので、久し振りに手をかけて・・・とは言え、中々煮炊きまではねぇ・・・
金木犀が香っています・・・ある子どもが言ってました。この臭いって、トイレ(芳香剤)の臭いだから嫌い!って・・・それは、この素敵な香りをトイレの芳香剤にしてしまったバカな大人の犯罪です。
私はこの香りがすると、私の好きな秋が、また今年も来たなぁーと、思わずこの季節の色々な長い年月の想い出がよみがえって来ます・・・
・・・息子が生まれた頃、この香りがしていたなぁー・・・
・・・遠い昔、大好きな彼女の元を訪ねた時にも、香っていたなー・・・
そうだ!晩酌の友のことでした・・・火を使わない料理、アボカドとお刺身のワサビ醤油和えです・・・醤油は生醤油を使うとしょっぱ過ぎるので、私は蕎麦汁(そばつゆ)を使います。お刺身は切り落しのようなもので充分ですよ・・・
たまにしかしない晩酌、毎晩していた時よりも、1回1回を新鮮で充実した気持で迎えたいと思います・・・
金木犀が香っています・・・ある子どもが言ってました。この臭いって、トイレ(芳香剤)の臭いだから嫌い!って・・・それは、この素敵な香りをトイレの芳香剤にしてしまったバカな大人の犯罪です。
私はこの香りがすると、私の好きな秋が、また今年も来たなぁーと、思わずこの季節の色々な長い年月の想い出がよみがえって来ます・・・
・・・息子が生まれた頃、この香りがしていたなぁー・・・
・・・遠い昔、大好きな彼女の元を訪ねた時にも、香っていたなー・・・
そうだ!晩酌の友のことでした・・・火を使わない料理、アボカドとお刺身のワサビ醤油和えです・・・醤油は生醤油を使うとしょっぱ過ぎるので、私は蕎麦汁(そばつゆ)を使います。お刺身は切り落しのようなもので充分ですよ・・・
たまにしかしない晩酌、毎晩していた時よりも、1回1回を新鮮で充実した気持で迎えたいと思います・・・
2008年10月14日
真景横濱今昔・・・ビールバンザイ!
ビール・・・旨いですね・・・横浜で初めてビールが作られたのはここ「天沼(あまぬま)」と言う場所です。明治2年(1869年)、アメリカ人ウイリアム・コープランドが、天沼の良質な湧き水を利用してドイツ式ビールを製造したそうです。工場名はスプリング・ブルワリーと言います。
ここは明治時代の天沼・・・外国人の遊歩道という事です。ノンビリとしていて、雲雀や牛の声などが聞こえて来そうですね。
提供:長崎大学附属図書館
現在スプリング・ブルワリー(ジャパン・ブルワリー)跡地は、「麒麟公園」という小さな一角と、北方小学校が建っています。麒麟公園とは、このビールが麒麟ビールの前身だからだそうで、外人墓地に眠るウイリアム・コープランドに対して、命日には麒麟ビールの社員がお参りをするそうです・・・
麒麟公園内プレートです
この下に見える白い建物が北方小学校でこの小学校に隣接した場所に麒麟公園があります。ビール工場があったと言う形跡は麒麟公園にわずかに残るだけです・・・
はてさて、一番上の明治時代の天沼を彷彿とする場所は何処なんでしょうか?分かりませんが、横浜インターナショナルスクールや外国人住宅が多いせいか、今でも多くの外国人が遊歩しています・・・
と、いう事でビールでジンギスカンを・・・実はこれ、サッポロビール園でジンギスカンを頂いた時のものです。サッポロと麒麟・・・競り合っていますが、競争が高品質を呼ぶことは確かでしょうから、「天沼ビア酒」(当時はそうよばれたようです)に乾杯!!・・・
ここは明治時代の天沼・・・外国人の遊歩道という事です。ノンビリとしていて、雲雀や牛の声などが聞こえて来そうですね。
提供:長崎大学附属図書館
現在スプリング・ブルワリー(ジャパン・ブルワリー)跡地は、「麒麟公園」という小さな一角と、北方小学校が建っています。麒麟公園とは、このビールが麒麟ビールの前身だからだそうで、外人墓地に眠るウイリアム・コープランドに対して、命日には麒麟ビールの社員がお参りをするそうです・・・
麒麟公園内プレートです
この下に見える白い建物が北方小学校でこの小学校に隣接した場所に麒麟公園があります。ビール工場があったと言う形跡は麒麟公園にわずかに残るだけです・・・
はてさて、一番上の明治時代の天沼を彷彿とする場所は何処なんでしょうか?分かりませんが、横浜インターナショナルスクールや外国人住宅が多いせいか、今でも多くの外国人が遊歩しています・・・
と、いう事でビールでジンギスカンを・・・実はこれ、サッポロビール園でジンギスカンを頂いた時のものです。サッポロと麒麟・・・競り合っていますが、競争が高品質を呼ぶことは確かでしょうから、「天沼ビア酒」(当時はそうよばれたようです)に乾杯!!・・・
2008年10月13日
真景横濱今昔・・・山手公園
慶應2年(1866年)に外国公使団との間で「横濱居留地改造及競馬場墓地等約書」(慶應約書)が締結されましたが、公園計画だけは具体化しませんでした。そこで、明治2年に外国居留民が改めて要求した結果、日本政府は妙香寺付近の6千坪を貸与しました。公園の造成は居留民が行い、明治3年(1870年)5月6日に日本初の洋式公園が開園しました・・・
それがここ、山手公園です。後に明治11年から外国居留民の女性で組織される「レディース・ローンテニス・アンド・クロッケークラブ」が管理するすることとなり、テニスコートやクラブハウスも作られたそうです。私の曾祖母が当時創設間もないフェリス学院に在籍して「女だてら」にテニスにうつつを抜かしたと言う伝説が我が家に残りますが、もしかしたら曾祖母もここで?・・・
提供:長崎大学附属図書館
ここ山手公園では、この英国軍楽隊が、定期的に演奏会を開いていたそうです。ブラスバンド部で9年間を過ごした私としては、是非ともその演奏を耳に焼付けたかったですね・・・こう言う人物入りの古写真を見ますと、あの軍楽隊のメンバー達ひとりひとりが一体何処でどのように生涯を終えたのかなんて感傷的になるのも歳のせい?
提供:長崎大学附属図書館
現代の山手公園です。ここに訪れるまで、山手公園が何処にあるのか知らずに居ました。しかし、前にアップした射撃場跡の大和商店街や麦田町、後日アップしたいビール発祥の天沼、そして、港の見える丘公園や外人墓地などとはそれ程遠くない、場所にありました。居留地に住む外国人にとっては気軽に来られる公園だったようです・・・
山手公園を象徴するようなこの待屋(テラス?・・正式には何とよぶのでしょうか?)ですが、むろん明治の頃から、何度か建替えられてはいるとは思いますけれど、往時の山手公園を彷彿とさせます。公園の木々は当時からのものもあると思いますが、随分成長するもんですね・・・
それがここ、山手公園です。後に明治11年から外国居留民の女性で組織される「レディース・ローンテニス・アンド・クロッケークラブ」が管理するすることとなり、テニスコートやクラブハウスも作られたそうです。私の曾祖母が当時創設間もないフェリス学院に在籍して「女だてら」にテニスにうつつを抜かしたと言う伝説が我が家に残りますが、もしかしたら曾祖母もここで?・・・
提供:長崎大学附属図書館
ここ山手公園では、この英国軍楽隊が、定期的に演奏会を開いていたそうです。ブラスバンド部で9年間を過ごした私としては、是非ともその演奏を耳に焼付けたかったですね・・・こう言う人物入りの古写真を見ますと、あの軍楽隊のメンバー達ひとりひとりが一体何処でどのように生涯を終えたのかなんて感傷的になるのも歳のせい?
提供:長崎大学附属図書館
現代の山手公園です。ここに訪れるまで、山手公園が何処にあるのか知らずに居ました。しかし、前にアップした射撃場跡の大和商店街や麦田町、後日アップしたいビール発祥の天沼、そして、港の見える丘公園や外人墓地などとはそれ程遠くない、場所にありました。居留地に住む外国人にとっては気軽に来られる公園だったようです・・・
山手公園を象徴するようなこの待屋(テラス?・・正式には何とよぶのでしょうか?)ですが、むろん明治の頃から、何度か建替えられてはいるとは思いますけれど、往時の山手公園を彷彿とさせます。公園の木々は当時からのものもあると思いますが、随分成長するもんですね・・・
2008年10月11日
真景横濱今昔・・・YOKOHAMA ICE WORKS
横浜開港当時の氷は、アメリカ産の「ボストン氷」が喜望峰回りで何と半年もかけて運ばれていたそうです。お値段もビール箱大の氷がこれまた何と「金3両也」だったそうですよ。幕末の頃は分かりませんが、1両で庶民一家が一年位暮らせたそうですから、氷が、いかにバカ高い贅沢品だったかが分かります。そこで手をこまねいている日本人ではありません。中川嘉兵衛と言う人が函館五稜郭の天然氷を商品化して、この氷を元にして、町田房吉と言う人が馬車道(常盤町5丁目)で日本で初めてのアイスクリーム作って売り出しました。
オランダ人ストルネブリンクの経営する機械製氷工場です。谷戸橋際山手184番地にありました。この製氷工場は明治12年(1879年)にアメリカ人アルバート・ウオートルスが起こした「ジャパン・アイス・カンパニー」で、エーテル式で日に3tの機械を据え付けました。その後明治14年に経営権がオランダ人に渡り、「ヨコハマ・アイス・ワークス」になりました。
提供:長崎大学附属図書館
現代の同じ場所です。真ん中の谷戸坂は往時のままですが、製氷工場は、元町の喧騒に完全に飲み込まれて、跡形もありません。それでもここにこんな建物がかつてあったと思うだけで、この殺風景な風景も違って見えます。向かって左側の谷戸坂が分ける丘は「フランス山」と今でも称されています・・・
オランダ人ストルネブリンクの経営する機械製氷工場です。谷戸橋際山手184番地にありました。この製氷工場は明治12年(1879年)にアメリカ人アルバート・ウオートルスが起こした「ジャパン・アイス・カンパニー」で、エーテル式で日に3tの機械を据え付けました。その後明治14年に経営権がオランダ人に渡り、「ヨコハマ・アイス・ワークス」になりました。
提供:長崎大学附属図書館
現代の同じ場所です。真ん中の谷戸坂は往時のままですが、製氷工場は、元町の喧騒に完全に飲み込まれて、跡形もありません。それでもここにこんな建物がかつてあったと思うだけで、この殺風景な風景も違って見えます。向かって左側の谷戸坂が分ける丘は「フランス山」と今でも称されています・・・
2008年10月10日
貝塚の貝について・・・
先日の「縄文文化円熟」のレクチャーで面白いことを聞きました。貝塚に捨てられていた貝殻は古代の人たちが、何十年、何百年もかけて食べた貝殻を捨てた場所ですよね。それは教科書にも載っているような常識なんですが、不思議な事に縄文時代当時、海だった所からかなり離れた場所に貝塚が存在していたことが確認されているそうです・・・
何故なのかと言いますと、古代の人々は、貝を味付けに使ったのだそうです。貝から抽出される滋味と塩味で、ドングリやトチノミ(それら自体はあまり美味しくないのですが・・・)などが、美味しく煮えたらしいです。
うーん!それは分かる分かる!・・・だってアサリを鍋に入れて一煮立ちさせただけで、最高の旨い「アサリの酒蒸し」が出来上がるんですから・・・縄文人バンザイ!!今晩の肴は「アサリの酒蒸し」に決まり・・・かな?
貝塚の断面です
何故なのかと言いますと、古代の人々は、貝を味付けに使ったのだそうです。貝から抽出される滋味と塩味で、ドングリやトチノミ(それら自体はあまり美味しくないのですが・・・)などが、美味しく煮えたらしいです。
うーん!それは分かる分かる!・・・だってアサリを鍋に入れて一煮立ちさせただけで、最高の旨い「アサリの酒蒸し」が出来上がるんですから・・・縄文人バンザイ!!今晩の肴は「アサリの酒蒸し」に決まり・・・かな?
貝塚の断面です
2008年10月08日
真景横濱今昔・・・大江橋
♪汽笛一声新橋を~で始まる鉄道唱歌の終着駅は「横浜」ですが、この横浜駅(明治5年・・1872年)、実は今の横浜駅ではなくて、大正4年(1915年)まで、ここ桜木町駅でした。ごく最近(記憶では十数年前)まで、この古写真のようなたたずまいが見られたものですが、今では駅舎も近代化して、元東横線の駅舎とほぼ同じ位置でしかも高架になりました・・・
大江橋から、その旧横浜駅(現桜木町駅)を望みます。この桜木町駅、数度の建替えや建増しなどがあったようですが、その様式は最近まで変わりなかったように思います・・・
提供:長崎大学附属図書館
上の古写真とほぼ同じ大江橋からの光景です。目の前には大きなビルが建っていますが、確かにこのビルの後ろには、桜木町駅があります。大江橋の上には、明治時代には終着駅だったこの横浜駅から磯子、大船方面に伸延したJRの鉄橋が架かっています。下を流れる川は、今も昔も同じ、大岡川です・・・
大江橋から、その旧横浜駅(現桜木町駅)を望みます。この桜木町駅、数度の建替えや建増しなどがあったようですが、その様式は最近まで変わりなかったように思います・・・
提供:長崎大学附属図書館
上の古写真とほぼ同じ大江橋からの光景です。目の前には大きなビルが建っていますが、確かにこのビルの後ろには、桜木町駅があります。大江橋の上には、明治時代には終着駅だったこの横浜駅から磯子、大船方面に伸延したJRの鉄橋が架かっています。下を流れる川は、今も昔も同じ、大岡川です・・・
2008年10月07日
縄文文化円熟展・・・縄文式土器について
横浜市歴史博物館で開催されている、「縄文文化円熟・華蔵台(けしょうだい)遺跡と後、晩期社会」展を観に行って、レクチャーも受けて来ました。縄文の文化については詳しい積りでしたけれど、何の何の私の知識など、専門の学芸員に比べたらヒヨョコみたいなもの、大いに納得して帰って来ました。
例えば、土器ですが、このポスターの画像に代表されるように、まるで専門の土器造りの職人がいた(実際にいたらしいのです)ような、洗練された機能美の土器たちが生まれています。それに比べて、縄文中期の土器は下の火炎土器に代表されるような、荒々しい生命力に満ち溢れているように思えます・・・
これは、教科書にも出てきますが、有名な縄文中期の別名「火炎土器」と称される土器です。これは中期の極端な一例ですが、押しなべて、中期の縄文式土器には抽象的な文様が、まるで判じ物のように時には美しく、時には荒々しく描かれています・・・
「縄文文化円熟」と言うタイトルでしたけれど、洗練と円熟は同義的なのか私には分かりませんが、縄文中期の荒々しく、生命力に溢れている美しさ(人により美しいとは感じないのかも知れませんが・・・)の方が私にとっては「円熟」なのではないだろうか、いえ、そんな「へそ曲がり」的に考えなくても、縄文後・晩期の土器の生活を楽しむ意味での機能美を具えた土器たちより、中期の縄文式土器の方が、素晴らしく素敵に思えるのです・・・
例えば、土器ですが、このポスターの画像に代表されるように、まるで専門の土器造りの職人がいた(実際にいたらしいのです)ような、洗練された機能美の土器たちが生まれています。それに比べて、縄文中期の土器は下の火炎土器に代表されるような、荒々しい生命力に満ち溢れているように思えます・・・
これは、教科書にも出てきますが、有名な縄文中期の別名「火炎土器」と称される土器です。これは中期の極端な一例ですが、押しなべて、中期の縄文式土器には抽象的な文様が、まるで判じ物のように時には美しく、時には荒々しく描かれています・・・
「縄文文化円熟」と言うタイトルでしたけれど、洗練と円熟は同義的なのか私には分かりませんが、縄文中期の荒々しく、生命力に溢れている美しさ(人により美しいとは感じないのかも知れませんが・・・)の方が私にとっては「円熟」なのではないだろうか、いえ、そんな「へそ曲がり」的に考えなくても、縄文後・晩期の土器の生活を楽しむ意味での機能美を具えた土器たちより、中期の縄文式土器の方が、素晴らしく素敵に思えるのです・・・
2008年10月05日
真景横濱今昔・・・青木橋
横浜、関内、桜木町から少し外れた「横浜」です。つまり現在横浜駅とよばれる周辺ですが、実は私、子どもの頃から横浜に住んでいながら、同じ横浜市でも北部の農村地帯でしたから、当時は横浜の中心部と言えば、この横浜駅周辺だと思っていました・・・もっとも、ここには東海道も通っていますから、本来この辺りが中心(ヘソ)になるべきだったのでしょうが、当時の幕府としては、元々気乗りのしない開国に東海道と言う、重要路線の要所、旧神奈川宿を明け渡す気もありませんでした。それで、この地より離れた「横浜村」の地に長崎の出島的意味を含めて外国人居留地を設けましたが、ご存知の通りの発展で、横浜と言えば、関内、桜木町、そして今は「みなとみらい地区」も含めた地域に代表される事になりました。
この写真は、権現山城跡(現幸ヶ谷公園)から写されています。正面の橋は、東海道の青木橋です・・・現在の横浜駅西口周辺は、まだまだ内海になっています。鉄道の軌道が手前から青木橋をくぐり、前方へ延びていますが、これは開通したばかりの新橋~横浜(現桜木町)の鉄道です・・・
提供:長崎大学附属図書館
現代の権現城跡(幸ヶ谷公園)から撮影しましたが、残念ながら、山頂からの眺望は全くできませんでした。木々が生い茂って居た事と青木橋方面に建物がある事からでしたので、少し上の写真より低い位置ですが、公園へ登る途中の階段から撮影しました。正面の駅舎は京浜急行「神奈川駅」で、その場所に現代の青木橋が架かっています。当時の内海は今や高層ビル群ですけれど、何となく当時の雰囲気は感じられるように思います・・・
この写真は、権現山城跡(現幸ヶ谷公園)から写されています。正面の橋は、東海道の青木橋です・・・現在の横浜駅西口周辺は、まだまだ内海になっています。鉄道の軌道が手前から青木橋をくぐり、前方へ延びていますが、これは開通したばかりの新橋~横浜(現桜木町)の鉄道です・・・
提供:長崎大学附属図書館
現代の権現城跡(幸ヶ谷公園)から撮影しましたが、残念ながら、山頂からの眺望は全くできませんでした。木々が生い茂って居た事と青木橋方面に建物がある事からでしたので、少し上の写真より低い位置ですが、公園へ登る途中の階段から撮影しました。正面の駅舎は京浜急行「神奈川駅」で、その場所に現代の青木橋が架かっています。当時の内海は今や高層ビル群ですけれど、何となく当時の雰囲気は感じられるように思います・・・
2008年10月01日
真景横濱今昔・・・射撃場
以前、「ファブル・ブラントと河井継之助と長岡戦争」と言う記事を投稿しましたが、長岡戦争の項は、実際に私の父祖の地「長岡」に足を運んでからと思っています。ところで、そのスイス人ファブル・ブラントが会長の「スイス・ライフル・クラブ」と言う組織が明治時代にありました。ファブル・ブラントのことは、今詳しく再調査中ですので後程、詳しいレポートをしたいと思いますが、当時この射撃場では、大会が盛んに開かれていたと言います。
これは、明治4年(1871年)に開催された「スイスライフル射撃会」の様子です。スイスは国民皆兵の国で射撃が盛んだったそうです。国民皆兵で永世中立国の思想が、長岡藩家老「河井継之助」に与えた影響は大きかったと言えましょう・・・
的の辺りが現在の山手駅付近になります・・・
提供:長崎大学附属図書館
:現在は、むろん射撃場は無く、射撃場に選ばれた真っ直ぐな地形がそのまま大和町商店街の通りになっています。上の古写真撮影場所は、住宅が密集していて、眺望が望めませんでしたので、少し射撃場所より下がりましたら、この辺を一望できる格好の駐車場がありました・・・・
この通り、真っ直ぐな大和町商店街・・・かつて射撃場だったことが納得の直線でした・・・
これは、明治4年(1871年)に開催された「スイスライフル射撃会」の様子です。スイスは国民皆兵の国で射撃が盛んだったそうです。国民皆兵で永世中立国の思想が、長岡藩家老「河井継之助」に与えた影響は大きかったと言えましょう・・・
的の辺りが現在の山手駅付近になります・・・
提供:長崎大学附属図書館
:現在は、むろん射撃場は無く、射撃場に選ばれた真っ直ぐな地形がそのまま大和町商店街の通りになっています。上の古写真撮影場所は、住宅が密集していて、眺望が望めませんでしたので、少し射撃場所より下がりましたら、この辺を一望できる格好の駐車場がありました・・・・
この通り、真っ直ぐな大和町商店街・・・かつて射撃場だったことが納得の直線でした・・・