2009年01月31日
ファブル・ブラント7・・・
【外人墓地の事・・エピソード3】ファブル・ブラントの「横浜の風物と事情」から、しばらく引用しています・・・
実際に開港された頃の横浜を語るのに、それを見聞きして来た人の話し程、うなずける文献は少ないのではないかと思うからです・・・
自らも外人墓地9区に、妻松野久子と共に葬られた「外人墓地」・・・今は観光化して、多くの人がカメラを片手に訪れていますけれど、当時の感覚と現在とはちょっと違うように思えました・・・
堀川の向側の閑静と言うよりむしろ陰気な谷間に外国人墓地があった(中略)・・・そこに故国の近親と遠く離れて眠っている多くの人々は年齢20歳から26歳までの若者であることが、刻まれた墓銘によってうかがえる。しかし、この中に一人、老人が加わっている。
横浜市内で暗殺されたデッカー大将である(中略)
この他にも不慮の死を遂げた人々の墓を見出す事ができる。
白昼横浜の大通りで殺されたロシア人の墓がある(中略)
ここにまた、英国商人の邸宅の前で真夜中に刺殺されたフランス領事の下僕(中略)
横浜市街で斬られたヴイス大尉(中略)
江戸の英国公使館を警備中に討たれた二人の水兵(中略)
レノックス・リチャードソン(生麦事件で殺された)の墓も見られる・・・(中略)
また、横浜郊外(井土ヶ谷)で殺されてその加害者も分からぬフランス軍人カミュ中尉・・・(中略)
鎌倉で斬られたボールドウィン少佐とバード中尉の質素な墓もある・・・(中略)
我々外人が、拳銃を持たないで外出してはならぬと命令されていたことは敢えて驚くには当たらない。外人たちは食卓へ臨む時さえ、武器を手放さなかったし、枕元に装填したピストルを忍ばす用心を払わないでは、寝に就こうとしない時代があった事を、私は思い出す」・・・
平和な日本及び横浜の市街では、当時かなり殺伐としたものだった事がこの一文で分かるような気がします・・・
実際に開港された頃の横浜を語るのに、それを見聞きして来た人の話し程、うなずける文献は少ないのではないかと思うからです・・・
自らも外人墓地9区に、妻松野久子と共に葬られた「外人墓地」・・・今は観光化して、多くの人がカメラを片手に訪れていますけれど、当時の感覚と現在とはちょっと違うように思えました・・・
堀川の向側の閑静と言うよりむしろ陰気な谷間に外国人墓地があった(中略)・・・そこに故国の近親と遠く離れて眠っている多くの人々は年齢20歳から26歳までの若者であることが、刻まれた墓銘によってうかがえる。しかし、この中に一人、老人が加わっている。
横浜市内で暗殺されたデッカー大将である(中略)
この他にも不慮の死を遂げた人々の墓を見出す事ができる。
白昼横浜の大通りで殺されたロシア人の墓がある(中略)
ここにまた、英国商人の邸宅の前で真夜中に刺殺されたフランス領事の下僕(中略)
横浜市街で斬られたヴイス大尉(中略)
江戸の英国公使館を警備中に討たれた二人の水兵(中略)
レノックス・リチャードソン(生麦事件で殺された)の墓も見られる・・・(中略)
また、横浜郊外(井土ヶ谷)で殺されてその加害者も分からぬフランス軍人カミュ中尉・・・(中略)
鎌倉で斬られたボールドウィン少佐とバード中尉の質素な墓もある・・・(中略)
我々外人が、拳銃を持たないで外出してはならぬと命令されていたことは敢えて驚くには当たらない。外人たちは食卓へ臨む時さえ、武器を手放さなかったし、枕元に装填したピストルを忍ばす用心を払わないでは、寝に就こうとしない時代があった事を、私は思い出す」・・・
平和な日本及び横浜の市街では、当時かなり殺伐としたものだった事がこの一文で分かるような気がします・・・
2009年01月31日
ちいさいおうち・・・
昨日の新聞で「絵本の記憶」というコラムに、72歳のノンフィクション作家のこの絵本に対する思いが載っていました。氏の息子さんが2歳に近づいた頃、この絵本を買ったそうですが、氏自身の本を開く心の原点となっていると言う内容でした・・・
実は私自身が幼い頃、どのような親の思いがあって私に与えられたのかは分かりませんが、この「ちいさいおうち」を繰り返し読み、今でも絵の一コマ一コマがはっきりと浮び挙がって来ます。
アメリカの田舎に建つ「ちいさいおうち」四季それぞれの自然に囲まれ、このおうちで育った子ども達の声が聞こえ、「ちいさいおうち」にとって、幸せな毎日でしたけれど、山の向こうから大都会への開発が進んで、やがて「ちいさいおうち」は、住む人もなく大都会のビルとビルの間に忘れ去られてしまうのです・・・大都会というものを知らなかった私にとっては、その「ちいさいおうち」の運命よりも、アメリカの大都会ってこういうものなんだ、と目を覚まされた思いもありました・・・今でも自然の向こうに高層ビル群が見えるような光景を目にすると、しっかりとこの「ちいさいおうち」の一場面がよみがえります・・・
やがて「ちいさいおうち」は、このおうちで育った子孫が見つけ、自然の中に運ばれて再び幸せに暮らすと言う回帰の物語です・・・大袈裟に言いますと、ノンフィクション作家にとって心の原点とするならば、私にとっては、心の原風景なんです・・・
実は私自身が幼い頃、どのような親の思いがあって私に与えられたのかは分かりませんが、この「ちいさいおうち」を繰り返し読み、今でも絵の一コマ一コマがはっきりと浮び挙がって来ます。
アメリカの田舎に建つ「ちいさいおうち」四季それぞれの自然に囲まれ、このおうちで育った子ども達の声が聞こえ、「ちいさいおうち」にとって、幸せな毎日でしたけれど、山の向こうから大都会への開発が進んで、やがて「ちいさいおうち」は、住む人もなく大都会のビルとビルの間に忘れ去られてしまうのです・・・大都会というものを知らなかった私にとっては、その「ちいさいおうち」の運命よりも、アメリカの大都会ってこういうものなんだ、と目を覚まされた思いもありました・・・今でも自然の向こうに高層ビル群が見えるような光景を目にすると、しっかりとこの「ちいさいおうち」の一場面がよみがえります・・・
やがて「ちいさいおうち」は、このおうちで育った子孫が見つけ、自然の中に運ばれて再び幸せに暮らすと言う回帰の物語です・・・大袈裟に言いますと、ノンフィクション作家にとって心の原点とするならば、私にとっては、心の原風景なんです・・・
2009年01月30日
ファブル・ブラント6・・・
(ファブル・ブラント著「横浜の風物と事情」より・・・エピソード2)・・・
「競馬は春秋二回開催されて、レースは全居留地を沸かすお祭り行事となった。
居留民の中にトム・トーマス氏(イギリス人貿易商・・・外国人商業会議所会頭・根岸競馬場を運営管理する日本レースクラブ理事・・・関東大震災で死亡)と言う競馬ファンがおった。(中略)当時、競馬には日本産と支那(中国)産の馬を使用していた。トーマス氏は支那馬にまたがり、在留民中最も高齢のエド・シャネル氏(このお方には大いに注目・・・エドワード・シュネル・・・幕末期スネル兄弟として悪名?をはせた弟の方だと確信しています)は日本馬に乗って「廻りコース」の競技を行ったが、試合はトーマス氏の見事な快勝に終った。支那馬は日本馬より優れているとの折り紙が付けられた」・・・
支那馬と日本馬とが優劣を付けられた記録です。因みに「サラブレッド」などの馬種はまだ、日本には移入されていなかったのでしょうね・・・
上の画像は、現在「根岸森林公園」として、憩いの場所ですが、その昔には根岸競馬場でした。ほお被りをした日本人が興味深そうに競馬の様子を眺めています。
上記で出て来ました、「エド・シュネル(エドワード・スネル)」は武器商人の兄弟として、ファブル・ブラントとはかなりリンクしますから、その内、また取り上げる積りです・・・よろしく・・・
「競馬は春秋二回開催されて、レースは全居留地を沸かすお祭り行事となった。
居留民の中にトム・トーマス氏(イギリス人貿易商・・・外国人商業会議所会頭・根岸競馬場を運営管理する日本レースクラブ理事・・・関東大震災で死亡)と言う競馬ファンがおった。(中略)当時、競馬には日本産と支那(中国)産の馬を使用していた。トーマス氏は支那馬にまたがり、在留民中最も高齢のエド・シャネル氏(このお方には大いに注目・・・エドワード・シュネル・・・幕末期スネル兄弟として悪名?をはせた弟の方だと確信しています)は日本馬に乗って「廻りコース」の競技を行ったが、試合はトーマス氏の見事な快勝に終った。支那馬は日本馬より優れているとの折り紙が付けられた」・・・
支那馬と日本馬とが優劣を付けられた記録です。因みに「サラブレッド」などの馬種はまだ、日本には移入されていなかったのでしょうね・・・
上の画像は、現在「根岸森林公園」として、憩いの場所ですが、その昔には根岸競馬場でした。ほお被りをした日本人が興味深そうに競馬の様子を眺めています。
上記で出て来ました、「エド・シュネル(エドワード・スネル)」は武器商人の兄弟として、ファブル・ブラントとはかなりリンクしますから、その内、また取り上げる積りです・・・よろしく・・・
2009年01月27日
ファブル・ブラント5・・・
ファブル・ブラントの数少ない著書のひとつ「横浜の風物と事情」には、開港直後の横浜の様子が描かれて居て大変に面白いものです。少し参照してみます。
「1863年4月、私が到着した頃の横浜には、日本の発展史の上に、重要な役割りをもつ外人の居留によって、生計を営んでいる約3000人の日本人が住んでいた。
(エピソード1・・・ファブル・ブラントが来日した頃の横浜)
「昔、この小さな町は、森の繁る山手地帯に囲まれていた。そこには人家がなく、松や他の樹木が繁茂して、狭い小道を通ると、足元から雉、山しぎ、野鳩(日本のトキ属の白い鳥)、雀の群れが飛び立った。(中略)また鶴も時折、田圃を訪れたが、日本人の狩猟は厳禁されていたので、鳥の群れはあまり人を怖れなかった。
外人は日本の法律の適用を受けることなしに、横浜の町外れまで出かけて狩猟を楽しんだ。しかし、二刀をたばさむ紳士(攘夷武士)の威嚇を警戒して、郊外へは足を踏み入れなかった。彼らは外人の大部分を日本国外に放逐すべき敵とみなしていた。だから我々は、横浜の北端を富岡、保土ヶ谷辺りに止めて、最も冒険好きの者でも、遠くへ行く限界は金沢辺りまでであった。」
狩猟民族の外人が、当時の狩猟の対象が沢山居た横浜の豊かな自然を語っていますが、反面「攘夷」の嵐の中、外人と見れば、刀を抜く「攘夷武士や浪人」の危険な存在を示しています・・・
「1863年4月、私が到着した頃の横浜には、日本の発展史の上に、重要な役割りをもつ外人の居留によって、生計を営んでいる約3000人の日本人が住んでいた。
(エピソード1・・・ファブル・ブラントが来日した頃の横浜)
「昔、この小さな町は、森の繁る山手地帯に囲まれていた。そこには人家がなく、松や他の樹木が繁茂して、狭い小道を通ると、足元から雉、山しぎ、野鳩(日本のトキ属の白い鳥)、雀の群れが飛び立った。(中略)また鶴も時折、田圃を訪れたが、日本人の狩猟は厳禁されていたので、鳥の群れはあまり人を怖れなかった。
外人は日本の法律の適用を受けることなしに、横浜の町外れまで出かけて狩猟を楽しんだ。しかし、二刀をたばさむ紳士(攘夷武士)の威嚇を警戒して、郊外へは足を踏み入れなかった。彼らは外人の大部分を日本国外に放逐すべき敵とみなしていた。だから我々は、横浜の北端を富岡、保土ヶ谷辺りに止めて、最も冒険好きの者でも、遠くへ行く限界は金沢辺りまでであった。」
狩猟民族の外人が、当時の狩猟の対象が沢山居た横浜の豊かな自然を語っていますが、反面「攘夷」の嵐の中、外人と見れば、刀を抜く「攘夷武士や浪人」の危険な存在を示しています・・・
2009年01月25日
誕生月食事会・・・・
誕生月の食事会に便乗させて貰いました・・・上大岡のビュッフェレストランで、私はじめ皆さん、しっかりと食べていましたけれど、大して食べていないようで、思っている以上に食べたのか、それとも食べているようでそれ程でもないのか、楽しく食べていると余り分からなくなりますね・・・制限時間90分、さっさと終って、残り時間はしゃべっているだけのハイテンションのお方以外は、皆さんマイペースで、美味しく楽しんでいたようです・・・私の取皿を紹介しますね・・・
一皿(二皿なので1回目)目、右のお皿は、スパゲティカルボナーラ、ハンバーグ、揚げ春巻、左はチラシ寿司、魚南蛮揚げ、マカロニサラダです・・・ちょっとミスマッチはチラシ寿司でしたが、最初に目に付いたので・・・
2回目・・・手前のコロッケのように見えるものコロッケかと思いきや、メンチカツでした。そしてスパゲティナポリタン、枝豆ともう一本頂きたかった揚げ春巻と、今度はピラフです・・・
飲み物はウーロン茶です・・・
3回目、生まれて初めてのホワイトカレーライスですが、利用者さんがこれを盛って来たのを見て、「ええ!ご飯にクリームシチュー?」とびっくりしてましたら、これってカレーなんですって。早速試して見ましたが、Oh!完璧カレーではないですか・・・そして、自分で手作り出来るラーメンです。
さて、これからはデザートタイムです・・・普段余り甘いものは頂きませんが、ものすごい勢いで、甘いものを食べている人を見て、「別腹」の言葉を思い出しました別腹に入って、さらに・・・
ソフトクリームです・・・もちろん自分でひねり出すんですよ・・・
これだけの食べ物が一体何処へ入ったのかと思いますが、帰りの車内ではさすがにお腹が苦しくて・・・これはもう夕食はいらないなー・・・
皆さん楽しんだようで良かったですが、私が一番喜んだのかも知れませんね・・・
一皿(二皿なので1回目)目、右のお皿は、スパゲティカルボナーラ、ハンバーグ、揚げ春巻、左はチラシ寿司、魚南蛮揚げ、マカロニサラダです・・・ちょっとミスマッチはチラシ寿司でしたが、最初に目に付いたので・・・
2回目・・・手前のコロッケのように見えるものコロッケかと思いきや、メンチカツでした。そしてスパゲティナポリタン、枝豆ともう一本頂きたかった揚げ春巻と、今度はピラフです・・・
飲み物はウーロン茶です・・・
3回目、生まれて初めてのホワイトカレーライスですが、利用者さんがこれを盛って来たのを見て、「ええ!ご飯にクリームシチュー?」とびっくりしてましたら、これってカレーなんですって。早速試して見ましたが、Oh!完璧カレーではないですか・・・そして、自分で手作り出来るラーメンです。
さて、これからはデザートタイムです・・・普段余り甘いものは頂きませんが、ものすごい勢いで、甘いものを食べている人を見て、「別腹」の言葉を思い出しました別腹に入って、さらに・・・
ソフトクリームです・・・もちろん自分でひねり出すんですよ・・・
これだけの食べ物が一体何処へ入ったのかと思いますが、帰りの車内ではさすがにお腹が苦しくて・・・これはもう夕食はいらないなー・・・
皆さん楽しんだようで良かったですが、私が一番喜んだのかも知れませんね・・・
2009年01月25日
思わぬ絶景ポイント発見!・・・
少し早く出勤して、横浜市南区蒔田方面から、何時も見上げながら通う丘に登って見ました・・・21年間通って初めての絶景ポイントでした。普段でしたら絶対に登らないような急坂に挑戦して見ようという気になったのも、ここ一年の訓練の賜物か・・・
遠くに富士山と丹沢山系の大山(おおやま)がしっかりと見えています。良く横浜古写真や横浜錦絵に、こんな富士山が描かれていますが、あながちデフォルメではなかったようです・・・
そして丘の反対側からは、キラキラと光る磯子の海と、何時も立ち上る煙しか見えない火力発電所がしっかりと望めました・・・来年の初日の出はここで決まりかな・・・
遠くに富士山と丹沢山系の大山(おおやま)がしっかりと見えています。良く横浜古写真や横浜錦絵に、こんな富士山が描かれていますが、あながちデフォルメではなかったようです・・・
そして丘の反対側からは、キラキラと光る磯子の海と、何時も立ち上る煙しか見えない火力発電所がしっかりと望めました・・・来年の初日の出はここで決まりかな・・・
2009年01月22日
2009年01月22日
ファブル・ブラント5・・・
1863年(文久3年)4月に江戸へ来日したスイス特派使節団は、遅々とした(幕府が重い腰を上げようとしなかった)修好条約締結で一年間日本に居ましたが1864年2月6日にようやく締結に至りました。任務を終えたアンベール公使はじめ2名は早々に故国スイスへ帰りましたが、横浜にはファブル・ブラントはじめ、ブレンワルド(現在まで続いているシーベル・へグナー社の創始者)、バビエと共に日本へ残りました。
そして、1864年に外国人居留地52番地に商館を設立して、武器・諸機械・時計・宝飾品等の貿易を開始したのでした。
しかしこの52番地(現在の日本大通り近くか・・・)は1866年の「豚屋火事」により消失してしまったので、1867年に1923年の関東大震災まで存在し続け、「峠」で河井継之助との出会いを演出したファブル・ブラント商会を新築しました。これがその社屋の様子です。
ジャパン・ディレクトリより参照
その後、日本はいわゆる文明開化の時代を迎えて、ファブル・ブラント商会は、大阪川口10番地に商館を新設しました。日本の文明開化に対するファブル・ブラントの貢献はまたこの次に・・・って誰に予告しているの?・・・確かに
ジャパン・ディレクトリより参照
そして、1864年に外国人居留地52番地に商館を設立して、武器・諸機械・時計・宝飾品等の貿易を開始したのでした。
しかしこの52番地(現在の日本大通り近くか・・・)は1866年の「豚屋火事」により消失してしまったので、1867年に1923年の関東大震災まで存在し続け、「峠」で河井継之助との出会いを演出したファブル・ブラント商会を新築しました。これがその社屋の様子です。
ジャパン・ディレクトリより参照
その後、日本はいわゆる文明開化の時代を迎えて、ファブル・ブラント商会は、大阪川口10番地に商館を新設しました。日本の文明開化に対するファブル・ブラントの貢献はまたこの次に・・・って誰に予告しているの?・・・確かに
ジャパン・ディレクトリより参照
2009年01月20日
セザンヌ主義展in横浜美術館・・・
行って来ました・・・いやー楽しかったですねー。観たいとずっと思いつつも、先の予定で、プログラムとして観に行く機会があるからと、待っていましたが、芸術に対して、これはきっとさもしい根性なんでしょう・・・
でも、さもしくともこれだけの芸術を楽しめるのに、何のてらいもありましょうか?
障害者手帳を使って一緒に行ったお方たちは、ほとんど、「何のこっちゃ」と言う感じのようでしたけれど、芸術は只(ただ)で観聞きしては絶対にダメです・・・えっ?そういう私も只(ただ)?確かに!・・・付き添いと言う事でしたので、皆さんを誘導する仕事の日当を払っているという事でお許しを・・・
なんと空しい話題になってしまいましたが、セザンヌが描いたあの光の線がどれだけの画家に多大な影響を与えたのかが本当に良く分かりましたよ・・・キュービズムとの関わりなど予想だにしていませんでしたけれど、あったんですねー・・・ピカソとセザンヌの共通点て想像が私には全く出来ませんでした・・・
でも、さもしくともこれだけの芸術を楽しめるのに、何のてらいもありましょうか?
障害者手帳を使って一緒に行ったお方たちは、ほとんど、「何のこっちゃ」と言う感じのようでしたけれど、芸術は只(ただ)で観聞きしては絶対にダメです・・・えっ?そういう私も只(ただ)?確かに!・・・付き添いと言う事でしたので、皆さんを誘導する仕事の日当を払っているという事でお許しを・・・
なんと空しい話題になってしまいましたが、セザンヌが描いたあの光の線がどれだけの画家に多大な影響を与えたのかが本当に良く分かりましたよ・・・キュービズムとの関わりなど予想だにしていませんでしたけれど、あったんですねー・・・ピカソとセザンヌの共通点て想像が私には全く出来ませんでした・・・
2009年01月20日
宝生寺にて・・・
今朝出勤途中で寄った宝生寺には、きれいな白梅が咲いていました・・・懸命に撮ったのですが、どれも残念ながらピンボケでありました・・・
宝生寺山門に至る石段の上に、ひっそりと落ちていた山茶花の花です・・・
もう何もいう事ありませんでした・・・
そして、小さな仏さまと水仙の花・・・宝暦年間の刻印がありましたよ・・・
またまた、何もいう事ありません・・・
宝生寺山門に至る石段の上に、ひっそりと落ちていた山茶花の花です・・・
もう何もいう事ありませんでした・・・
そして、小さな仏さまと水仙の花・・・宝暦年間の刻印がありましたよ・・・
またまた、何もいう事ありません・・・
2009年01月19日
ファブル・ブラント4・・・
さてファブル・ブラントとは、どんな人なんでしょうか。彼はスイス人です。スイスと言う国はご存知永世中立国で、この横浜が開港された頃は建国されたばかりの若い国でした。永世中立と言う権利?は、国民皆兵と言う矛盾するようなシステムの上に建っていますから、長岡藩家老河井継之助が、戊辰戦争で得ようとした自国の「永世中立」に司馬遼太郎氏がファブル・ブラントととの親交を演出したことも、あながち不思議な発想ではないのです・・・
ジェームス(ゼームス)・ファブル・ブラントは3男3女の末男として1841年(天保12年)にスイス、ロックルで生まれました。ニューシャテル工業専門学校で電気工学を学び、国民皆兵のスイス射撃隊(カルビエニ)の下士官をしていた22歳の時、スイス特派使節団の書記として1863年(文久3年)に渡日しています。
右の画像は、そのスイス特派使節団のメンバーのベルンでの記念写真です(左から二人目が若きファブル・ブラントです)。ファブル・ブラントは一年後に日・瑞(スイス)条約が締結された後も、特派使節団の職を辞して、横浜へ残ります。そして、主にスイスの特産品である時計や、武器を商う店(商館)を横浜に建てて精力的に仕事をしました。
当時、戊辰戦争の立役者「薩摩藩」の武器をほとんど一手に納めたことは良く知られています。薩摩の西郷隆盛や大山巌などとの親交も大いにありましたし、長岡藩家老河井継之助にも司馬遼太郎氏の小説「峠」では大いに影響を与えた人物として紹介されています・・・
長岡藩が薩摩藩を主流とする官軍と戦った「北越戊辰戦争」・・・長岡藩士として戦死した中に私の祖先が居ますが、ファブル・ブラントが介した武器同士で闘ったかも知れない不思議な因縁のようなものを感じます・・・
薩摩藩やその敵となる長岡藩の両方に武器を売ったことで、「商売上手」というあまりありがたくない評価もあるようですが、彼が英国やフランスのように国是として幕府や薩長を支援したこととは違い、またスイス政府の思惑くとは全く関係なく商売をしたようです・・・つまり、個人思想として、愛する日本の内戦を早く終らせたいと希求した結果なのかも知れません(少しきれい事に過ぎたかな)
長岡藩河井継之助に大量の武器を売ったことは、長岡藩側の記録にはあるんですが、ファブル・ブラント側の記録には全くと言って良いほど出て来ません。やはり河井継之助は結果的には明治新政府にとっては「賊軍」だからと容易に想像出来ます・・・
ジェームス(ゼームス)・ファブル・ブラントは3男3女の末男として1841年(天保12年)にスイス、ロックルで生まれました。ニューシャテル工業専門学校で電気工学を学び、国民皆兵のスイス射撃隊(カルビエニ)の下士官をしていた22歳の時、スイス特派使節団の書記として1863年(文久3年)に渡日しています。
右の画像は、そのスイス特派使節団のメンバーのベルンでの記念写真です(左から二人目が若きファブル・ブラントです)。ファブル・ブラントは一年後に日・瑞(スイス)条約が締結された後も、特派使節団の職を辞して、横浜へ残ります。そして、主にスイスの特産品である時計や、武器を商う店(商館)を横浜に建てて精力的に仕事をしました。
当時、戊辰戦争の立役者「薩摩藩」の武器をほとんど一手に納めたことは良く知られています。薩摩の西郷隆盛や大山巌などとの親交も大いにありましたし、長岡藩家老河井継之助にも司馬遼太郎氏の小説「峠」では大いに影響を与えた人物として紹介されています・・・
長岡藩が薩摩藩を主流とする官軍と戦った「北越戊辰戦争」・・・長岡藩士として戦死した中に私の祖先が居ますが、ファブル・ブラントが介した武器同士で闘ったかも知れない不思議な因縁のようなものを感じます・・・
薩摩藩やその敵となる長岡藩の両方に武器を売ったことで、「商売上手」というあまりありがたくない評価もあるようですが、彼が英国やフランスのように国是として幕府や薩長を支援したこととは違い、またスイス政府の思惑くとは全く関係なく商売をしたようです・・・つまり、個人思想として、愛する日本の内戦を早く終らせたいと希求した結果なのかも知れません(少しきれい事に過ぎたかな)
長岡藩河井継之助に大量の武器を売ったことは、長岡藩側の記録にはあるんですが、ファブル・ブラント側の記録には全くと言って良いほど出て来ません。やはり河井継之助は結果的には明治新政府にとっては「賊軍」だからと容易に想像出来ます・・・
2009年01月18日
真景横濱今昔・・・太田陣屋
これは、日の出町にあった陸軍省の施設です。開港場警備の為に設けられた太田陣屋でした。加賀藩が最初設けたので「加賀様陣屋」などとも呼ばれました・・・太田と言うのはこの辺が太田村だったからです・・・この太田と言う地名は「南太田」にかろうじて地名を残しています。
正確な場所は、京浜急行「日の出町駅」から宮川町へかけて存在したらしいのですが、今では痕跡すらありません。右は京浜急行「日の出町駅」から宮川町を望んだところですが、どのように建物があったのかは全く想像するしか手段がありませんでした・・・
これは日の出町駅正面から見たところですから、緑十字の看板右側のビルが宮川町・・・太田陣屋の正面入り口があったのかも知れないなどと、こうなりますと全くの想像ですけれど、100余年前には確実にあったのでしょうね・・・
これほど、痕跡すらない遺跡も珍しいです・・・
2009年01月17日
ファブル・ブラント3・・・
昨年夏、私が2年程前に「河井継之助とファブル・ブラント」を取り上げましたところ、驚くべきことにファブル・ブラントの子孫の方からお便りを頂きました。ファブル・ブラントから5代目に当たります。もちろんその方の個人情報は差し控えますが、本当にびっくりしましたよ。何よりも驚いたのは、普通、5代も前の祖先の事に関心を持たれる人ってそれ程居ないのではないかと思います。横浜開港資料館で、色々と祖先の事を調べられているそうですが、私の祖先とも関わりのある河井継之助と、司馬遼太郎氏の小説「峠」で親交のあったとされるファブル・ブラント・・・ほとんど、日本の文化に対する寄与に対して口を開かなかったファブル・ブラントの何かが分かるのではないかと思い、再び私も調べ始めました。
ファブル・ブラントは幕末に後に官軍の主流となる薩摩藩及び敵対する河井継之助の長岡藩に大量の武器を売っております。この事が、彼の口を閉じさせたのかどうかは、今後調査しようと思っていますけれど・・・
これはアメリカのオークションに出品されたファブル・ブラント商会から売り出されたヘンリーライフルです。
ヘンリーライフルは、アメリカ南北戦争中に開発されたライフル銃ですが、そう言えば昔、「ライフルマン」と言う西部劇で観たような記憶があるなー・・・
ファブル・ブラント商会の品物であると言う証拠はこれ・・・銃の胴に「FAVRE-BRANDT」とはっきりと刻印されています。
北越戊辰戦争で使われた、これも南北戦争の負の産物「ガットリング砲」3門もファブル・ブラントが扱って居て、少なくとも2門が河井継之助に売られましたが、北越戊辰戦争後、そのガットリング砲がどうなったのかは記録には残っていませんけれど、そんな事も発掘したい事実です・・・これはガットリング砲の展示ですが、河井継之助が購入したのはこれよりももっと前に開発されたものと思われます・・・
ここまで、書きますと、ファブル・ブラントは、幕末の有名な武器商人(死の商人)スネル兄弟と比較対照されてしまうかも知れませんが、スネル兄弟は武器を介して、幕府とそれに対する反体制に貢献しただけです(むろん色々な意味で違う意味での貢献もありましたけれど)。しかしファブル・ブラントはその後の日本に、得意の時計分野は言うに及ばず、気象測候や各種機械など様々な分野で貢献しました。それをちょっと、調べて見ようかなと、開港150周年の今年に思い描く訳であります・・・
ファブル・ブラントは幕末に後に官軍の主流となる薩摩藩及び敵対する河井継之助の長岡藩に大量の武器を売っております。この事が、彼の口を閉じさせたのかどうかは、今後調査しようと思っていますけれど・・・
これはアメリカのオークションに出品されたファブル・ブラント商会から売り出されたヘンリーライフルです。
ヘンリーライフルは、アメリカ南北戦争中に開発されたライフル銃ですが、そう言えば昔、「ライフルマン」と言う西部劇で観たような記憶があるなー・・・
ファブル・ブラント商会の品物であると言う証拠はこれ・・・銃の胴に「FAVRE-BRANDT」とはっきりと刻印されています。
北越戊辰戦争で使われた、これも南北戦争の負の産物「ガットリング砲」3門もファブル・ブラントが扱って居て、少なくとも2門が河井継之助に売られましたが、北越戊辰戦争後、そのガットリング砲がどうなったのかは記録には残っていませんけれど、そんな事も発掘したい事実です・・・これはガットリング砲の展示ですが、河井継之助が購入したのはこれよりももっと前に開発されたものと思われます・・・
ここまで、書きますと、ファブル・ブラントは、幕末の有名な武器商人(死の商人)スネル兄弟と比較対照されてしまうかも知れませんが、スネル兄弟は武器を介して、幕府とそれに対する反体制に貢献しただけです(むろん色々な意味で違う意味での貢献もありましたけれど)。しかしファブル・ブラントはその後の日本に、得意の時計分野は言うに及ばず、気象測候や各種機械など様々な分野で貢献しました。それをちょっと、調べて見ようかなと、開港150周年の今年に思い描く訳であります・・・
2009年01月13日
思い出ふたつ・・・
伊勢佐木町をテクテクしながら、リンガーハットでチャンポンを頂きました。伊勢佐木町のリンガーハットとチャンポンて、私にとってふたつの思い出が錯綜します・・・
(チャンポンの思い出)
20歳代に九州を無銭旅行に近い超貧乏旅行をしたことがあります。九州のどんな片田舎の食堂にも例外なくこの「チャンポン」がありました。安くて野菜と肉がたっぷりのこのチャンポンを3食食べて、お寺の本堂や、お土産屋さんに泊めて貰ったりしました。チャンポンを食べる度にその事を思い出します・・・
(「I」さんの思い出)
そして、リンガーハットがあるのは、ハマ楽器と言い、私が20歳代の頃勤めて居た楽器店なんですよ・・・薬屋「トモズ」の入っている所は楽譜とレコード売り場、そしてリンガーハットのある場所が、ピアノ、エレクトーン売り場でした。そこに「I」さんと言うピアノプレイヤーが素晴らしいデモ演奏をしていまして私は何時も彼の才能の素晴らしさにうっとりとして、私にもあんな才能が欲しいなどと思っていましたが、その「I」さんは何処でどの様な人生を送ったのか、重篤なアルコール依存症になって私の今の職場で断酒をしました・・・ハマ楽器の思い出をお互いに良くしたものです・・・その「I」さんは今でも自立して頑張って生活しているはずです・・・
(チャンポンの思い出)
20歳代に九州を無銭旅行に近い超貧乏旅行をしたことがあります。九州のどんな片田舎の食堂にも例外なくこの「チャンポン」がありました。安くて野菜と肉がたっぷりのこのチャンポンを3食食べて、お寺の本堂や、お土産屋さんに泊めて貰ったりしました。チャンポンを食べる度にその事を思い出します・・・
(「I」さんの思い出)
そして、リンガーハットがあるのは、ハマ楽器と言い、私が20歳代の頃勤めて居た楽器店なんですよ・・・薬屋「トモズ」の入っている所は楽譜とレコード売り場、そしてリンガーハットのある場所が、ピアノ、エレクトーン売り場でした。そこに「I」さんと言うピアノプレイヤーが素晴らしいデモ演奏をしていまして私は何時も彼の才能の素晴らしさにうっとりとして、私にもあんな才能が欲しいなどと思っていましたが、その「I」さんは何処でどの様な人生を送ったのか、重篤なアルコール依存症になって私の今の職場で断酒をしました・・・ハマ楽器の思い出をお互いに良くしたものです・・・その「I」さんは今でも自立して頑張って生活しているはずです・・・
2009年01月13日
今日のテクテク・・・
「万歩計」カテゴリーで毎日の歩数を記録しているDanbeさんの真似をして「今日のテクテク」を記録して見ました・・・
16485歩です・・・今日はお正月の代休を貰っていますから、一日テクテク歩き続けていました。まず自宅から、センター北のヤマダ(新しく開店したんですよ)までテクテク・・・
そして今度は地下鉄に乗り桜木町まで行き、横浜市中央図書館までテクテク・・・しかし、運悪く月二回の休業日・・・悔し紛れに図書館のドアをガーン!と、もちろんそんな事しませんけれど、かなりガッカリ・・・
ここまで来たついでに、野毛近辺をテクテクして、伊勢佐木町をテクテク・・・オーデオユニオンでブラームスのCDゲット!したり、リンガーハットでチャンポンを食べたりで、歩いたキロ数はたった5km・・・しかし、このキロ数はあてになりません。私は歩幅が大きいので、多分時間的に観ても5Km以上は歩いているはずです・・・なんて変な言い訳してます・・・
16485歩です・・・今日はお正月の代休を貰っていますから、一日テクテク歩き続けていました。まず自宅から、センター北のヤマダ(新しく開店したんですよ)までテクテク・・・
そして今度は地下鉄に乗り桜木町まで行き、横浜市中央図書館までテクテク・・・しかし、運悪く月二回の休業日・・・悔し紛れに図書館のドアをガーン!と、もちろんそんな事しませんけれど、かなりガッカリ・・・
ここまで来たついでに、野毛近辺をテクテクして、伊勢佐木町をテクテク・・・オーデオユニオンでブラームスのCDゲット!したり、リンガーハットでチャンポンを食べたりで、歩いたキロ数はたった5km・・・しかし、このキロ数はあてになりません。私は歩幅が大きいので、多分時間的に観ても5Km以上は歩いているはずです・・・なんて変な言い訳してます・・・
2009年01月12日
根岸の坂の途中に・・・
こんな、湧き水を集めたものを発見!
根岸の白滝不動から程近い根岸駅への近道の長いうねった階段・・・
その途中に、滝之上辺りからの湧き水を集めたこんなものがありました。滝之上辺りに今のように住宅が建ち並ぶ前はきっと、通行人の咽喉を潤したかも知れませんが、今では「飲み水ではありません」と寂しい文字がありましたよ・・・
でも、きっと飲んでも大丈夫なんでしょうが、保健衛生上どうのと言う問題なんでしょうね・・・
子どもの頃はこんな湧き水はご馳走でしたけれど・・・
根岸の白滝不動から程近い根岸駅への近道の長いうねった階段・・・
その途中に、滝之上辺りからの湧き水を集めたこんなものがありました。滝之上辺りに今のように住宅が建ち並ぶ前はきっと、通行人の咽喉を潤したかも知れませんが、今では「飲み水ではありません」と寂しい文字がありましたよ・・・
でも、きっと飲んでも大丈夫なんでしょうが、保健衛生上どうのと言う問題なんでしょうね・・・
子どもの頃はこんな湧き水はご馳走でしたけれど・・・
2009年01月11日
ボノ・エスタス・・・
日本語の読み書きが全く出来ない、日本語の会話だけは何とかと言う人が職場に入居しました・・・私はまた、字も書けないいわゆる「文盲」の人かなと思ったのですが、実は南米で生まれ育った人でした・・・
スペイン語圏で育ったその人とコミュニケーションを計りたくて、すれ違いざまに、「こんにちは!って、スペイン語で何て言うんですか?」と尋ねますと、「ボノ・エスタス!」と教えてくれました・・・
「ボノ・エスタス」・・・・と一日中唱えてやっと覚えましたが、何だかスペイン語の会話本を読むと「コモ・エスタス」または「ブェナス・タルデス」らしいのです。しかし、そんな事に捕らわれていると、折角の機会が無駄に終るといけませんから、彼の言う通り「ボノ・エスタス」で覚えます。
「ジョン万次郎」(中浜村の万次郎と言う漁師)がアメリカで覚えた英語は、発音そのまま、例えばハワイのホノルルは、「ホノロロ」、ニューヨークは「ヌウヨーカ」のように覚えた方が私にとっては身に付くのではないかと思いますから・・・ペルドン・コモ(スミマセンもう一度お願いします)を繰り返して、色々と聞いて見たいですね・・・
実はね、大好きなジプシーキングスの歌詞を原語で聞きたいし唄いたいなんて野心もあるんですよ・・・
スペイン語圏で育ったその人とコミュニケーションを計りたくて、すれ違いざまに、「こんにちは!って、スペイン語で何て言うんですか?」と尋ねますと、「ボノ・エスタス!」と教えてくれました・・・
「ボノ・エスタス」・・・・と一日中唱えてやっと覚えましたが、何だかスペイン語の会話本を読むと「コモ・エスタス」または「ブェナス・タルデス」らしいのです。しかし、そんな事に捕らわれていると、折角の機会が無駄に終るといけませんから、彼の言う通り「ボノ・エスタス」で覚えます。
「ジョン万次郎」(中浜村の万次郎と言う漁師)がアメリカで覚えた英語は、発音そのまま、例えばハワイのホノルルは、「ホノロロ」、ニューヨークは「ヌウヨーカ」のように覚えた方が私にとっては身に付くのではないかと思いますから・・・ペルドン・コモ(スミマセンもう一度お願いします)を繰り返して、色々と聞いて見たいですね・・・
実はね、大好きなジプシーキングスの歌詞を原語で聞きたいし唄いたいなんて野心もあるんですよ・・・
2009年01月11日
ファブル・ブラント2・・・
ファブル・ブラントの事を調べるきっかけは、私の先祖調べから始まりました。私の先祖は戊辰戦争の長岡戦で河井継之助と共に闘って戦死した長岡藩士だと、今年92歳の伯母から聞きました。そして、その河井継之助の半生を描いた小説司馬遼太郎氏の「峠」を読み、横浜の175番地に商館を構えていたスイス人ファブル・ブラントの存在を知りました。
ファブル・ブラントは河井継之助はじめ、戊辰戦争で敵対した、薩摩藩の西郷隆盛や大山巌などとも親交があり、幕末から明治にかけて日本の武器調達と、そして何と言っても時計商として、日本の文化発展に大いに寄与したものの、自身がほとんど、その事について語っていないので、記録もあまり残っていません。その理由については、その内分かるものと私には思えます・・・
右は、ジャパンディレクトリと言う、幕末明治時代の外国人居留民の居住記録ですが、大変に色々な事を物語って居ります。
175と言う数字が見えますか?これは横浜の外国人居留地175番地のことです。現在は横浜スタジアムの近く、NTTビルになっています。
C.&J.FAVRE-BRANDT Established1863 Yokahama,175 Osaka10,と言う文字が読み取れます・・・C.はチャールス(シャルル)ファブル・ブラントでJ.がジェームス(ゼームス)ファブル・ブラントです。今回取り上げるファブル・ブラント、河井継之助と接点があると司馬遼太郎氏の「峠」にも描かれるのは、このジェームス(ゼームス)・ファブル・ブラントの事で、横浜の商館はしばらくこの、兄チャールス・ファブル・ブラントと共に経営されていた事が、この一文から読み取ることが出来ます。
向かって左側がジェームス(ゼームス)・ファブル・ブラント、右側はチャールス(シャルル)・ファブル・ブラントです。チャールス・ファブル・ブラントは幕末時代にアメリカに渡り時計貿易に従事しましたが、慶應3年(1867年)に来日してジェームスのパートナーとなりましたが、明治14年(1881年)スイスへ帰りました。真ん中の日本人は、分かりませんが、番頭さんの早川さんか、高山さんか、伊東さんでしょうか?
次は、このジャパンディレクトリから読み取れることの情報から「大阪支店」の事を少々・・・
ファブル・ブラントは河井継之助はじめ、戊辰戦争で敵対した、薩摩藩の西郷隆盛や大山巌などとも親交があり、幕末から明治にかけて日本の武器調達と、そして何と言っても時計商として、日本の文化発展に大いに寄与したものの、自身がほとんど、その事について語っていないので、記録もあまり残っていません。その理由については、その内分かるものと私には思えます・・・
右は、ジャパンディレクトリと言う、幕末明治時代の外国人居留民の居住記録ですが、大変に色々な事を物語って居ります。
175と言う数字が見えますか?これは横浜の外国人居留地175番地のことです。現在は横浜スタジアムの近く、NTTビルになっています。
C.&J.FAVRE-BRANDT Established1863 Yokahama,175 Osaka10,と言う文字が読み取れます・・・C.はチャールス(シャルル)ファブル・ブラントでJ.がジェームス(ゼームス)ファブル・ブラントです。今回取り上げるファブル・ブラント、河井継之助と接点があると司馬遼太郎氏の「峠」にも描かれるのは、このジェームス(ゼームス)・ファブル・ブラントの事で、横浜の商館はしばらくこの、兄チャールス・ファブル・ブラントと共に経営されていた事が、この一文から読み取ることが出来ます。
向かって左側がジェームス(ゼームス)・ファブル・ブラント、右側はチャールス(シャルル)・ファブル・ブラントです。チャールス・ファブル・ブラントは幕末時代にアメリカに渡り時計貿易に従事しましたが、慶應3年(1867年)に来日してジェームスのパートナーとなりましたが、明治14年(1881年)スイスへ帰りました。真ん中の日本人は、分かりませんが、番頭さんの早川さんか、高山さんか、伊東さんでしょうか?
次は、このジャパンディレクトリから読み取れることの情報から「大阪支店」の事を少々・・・
2009年01月08日
ここは何処?・・・
何時も出勤の途中楽しむ「宝生寺」・・・でも今日は同じ「堀の内」ですが、21年間で初めて足を踏み入れた場所に、こんな道祖神?がお祭りしてありましたよ・・・
藪の中の本当に目立たないところに、ひっそりと立っていました・・・名前や由来などは一切なしですが、きっと地元の人に大切にされているんでしょうね。
小さな祠の中で、お正月のお供えや花、そして、もうほとんどお顔など風化してしまってますが、何か幸せのオーラが伝わって来るように思えました・・・
ここへ誰かをご案内しようとしても、果たして辿り着けるのかどうか・・・まさに、ここは何処?の場所です・・・
藪の中の本当に目立たないところに、ひっそりと立っていました・・・名前や由来などは一切なしですが、きっと地元の人に大切にされているんでしょうね。
小さな祠の中で、お正月のお供えや花、そして、もうほとんどお顔など風化してしまってますが、何か幸せのオーラが伝わって来るように思えました・・・
ここへ誰かをご案内しようとしても、果たして辿り着けるのかどうか・・・まさに、ここは何処?の場所です・・・
2009年01月06日
真景横濱今昔・・・成田山横浜別院
その伊勢山皇大神宮から少し降りたところに「成田山横浜別院」があります・・・ここもしっかりと記録に残っていますよ・・・
中央の橋は、野毛辺りの整地による仮の橋と言う説明がありましたが、何処なんでしょうか?・・・
この川が大岡川かも知れないとも思いますが、実際大岡川はもっと離れていますから、単なる支流か、小川でしょうか?・・・
この二棟の社を望むことの出来る場所は、今はもう限られていますけれどね・・・もう少し離れている場所では、全く社の影も形も見えなくなるのは、むしろ当然かも知れません・・・
中央の橋は、野毛辺りの整地による仮の橋と言う説明がありましたが、何処なんでしょうか?・・・
この川が大岡川かも知れないとも思いますが、実際大岡川はもっと離れていますから、単なる支流か、小川でしょうか?・・・
この二棟の社を望むことの出来る場所は、今はもう限られていますけれどね・・・もう少し離れている場所では、全く社の影も形も見えなくなるのは、むしろ当然かも知れません・・・