2010年06月27日
スマートフォン三昧・・・
昨日、植物状態のS君に会ってきたせいでもありましょうか、思い切って、スマートフォンを購入しました。ところが各種設定が、普通の基本的なものと違いもう大変の一言・・・
今日は日曜日で休めましたが、一日中このスマートフォンとの格闘でした・・・一日格闘しても、まだメールが繋げないんですよ・・・これだけ指紋だらけにしたのにね・・・トホホ
auでは、一昨日発売されたって聞いて、飛んで行きましたれけれど、店員さんもまだそれ程詳しい訳ではなくて、右往左往していましたが、それもまた私の満足感を充足した思いです。それにしても分からない事があるって悔しい!!・・・と言う訳でしゃかりきになって居ます・・・S君よ、お前の分生きてやるからな・・・ってそういう事が力を貰うって事なんでしょうかね・・・
今日は日曜日で休めましたが、一日中このスマートフォンとの格闘でした・・・一日格闘しても、まだメールが繋げないんですよ・・・これだけ指紋だらけにしたのにね・・・トホホ
auでは、一昨日発売されたって聞いて、飛んで行きましたれけれど、店員さんもまだそれ程詳しい訳ではなくて、右往左往していましたが、それもまた私の満足感を充足した思いです。それにしても分からない事があるって悔しい!!・・・と言う訳でしゃかりきになって居ます・・・S君よ、お前の分生きてやるからな・・・ってそういう事が力を貰うって事なんでしょうかね・・・
2010年06月25日
生きてて良かった~~!!
生きてて良かった~~!!の言葉はは普通、自分の快楽の為に使うのですが、今日は違います・・・
去年親友のA君が死にまして、A君と共通の友人Y君が、同じく共通の友人S君に知らせたところ、何とS君も入院していましたっけ・・・直ぐに入院先に駆けつけましたら、もう、意識が不明の状態で死相さえ感じられました・・・その後、しばらくS君のところには連絡が取れずに居ましたが、もうとっくに、あの世に旅立ってしまっているものと思っていました。
そして、今日S君の住んでいたところへ行きました。出来ればお線香の一本でも上げたいと思いましたが、何と家族の言う事には、近くの特別養護老人ホームにS君が居ると言うではありませんか・・・
本当にびっくりしました・・・そして直ぐにそのホームにやはり駆けつけましたら、病院に居た時よりも、さらに「骨皮筋衛門」にはなっていて、私が誰か?何て全く分かりませんでしたけれど・・・生きてて良かった~~!!・・・本人にとっては生きてて良かったのか、どうかの判断は出来ない植物状態ですから、どうかは分かりませんが・・・私にとりましては本当に・・・生きてて良かった~!!・・・これが本音です。
去年親友のA君が死にまして、A君と共通の友人Y君が、同じく共通の友人S君に知らせたところ、何とS君も入院していましたっけ・・・直ぐに入院先に駆けつけましたら、もう、意識が不明の状態で死相さえ感じられました・・・その後、しばらくS君のところには連絡が取れずに居ましたが、もうとっくに、あの世に旅立ってしまっているものと思っていました。
そして、今日S君の住んでいたところへ行きました。出来ればお線香の一本でも上げたいと思いましたが、何と家族の言う事には、近くの特別養護老人ホームにS君が居ると言うではありませんか・・・
本当にびっくりしました・・・そして直ぐにそのホームにやはり駆けつけましたら、病院に居た時よりも、さらに「骨皮筋衛門」にはなっていて、私が誰か?何て全く分かりませんでしたけれど・・・生きてて良かった~~!!・・・本人にとっては生きてて良かったのか、どうかの判断は出来ない植物状態ですから、どうかは分かりませんが・・・私にとりましては本当に・・・生きてて良かった~!!・・・これが本音です。
2010年06月20日
父の日・・・
私が子供の頃、誰が言い出したのか分かりませんが、母の日と言う日があって、学校の先生が「お母さんに日頃からの感謝を
表すため、赤いカーネーションを送りせう」と話されて、カーネーションの造花を配っていたのを思い出しました。ところが、父の日などと言う日が何時から始まったのかも分かりませんし、学校の先生も「父の日」とは一度も口にしませんでした・・・母には母の日だけ感謝すればいいけれど、父には一年中感謝するのかなどとヒネクレた少年の私は思ったりしていましたっけ・・・
そんなヒネクレ少年の末路の私も、父親になって20数余年。一人息子の息子は父の日など、チャンチャラ可笑しいのか、私と同じで一年中感謝している(・・・そんなはずないか)のか、改めて感謝された事はありませんでしたし、私も別に不思議にも思いませんでした。
そんな息子も結婚して2年、娘の息子のお嫁さんの口添えもあったのか、去年の父の日には甚平・・・そして今年は宮城県「一の蔵酒造」大吟醸純米酒と、扇子が贈られて来ました・・・嬉しいのと同時に、良いのかなと・・・だって私は自分の父にこう言った目に見える形で感謝の気持ちを表した事がついにありませんでしたから・・・それにしてもありがとう。君達を一生祝福し続けるよ・・・
表すため、赤いカーネーションを送りせう」と話されて、カーネーションの造花を配っていたのを思い出しました。ところが、父の日などと言う日が何時から始まったのかも分かりませんし、学校の先生も「父の日」とは一度も口にしませんでした・・・母には母の日だけ感謝すればいいけれど、父には一年中感謝するのかなどとヒネクレた少年の私は思ったりしていましたっけ・・・
そんなヒネクレ少年の末路の私も、父親になって20数余年。一人息子の息子は父の日など、チャンチャラ可笑しいのか、私と同じで一年中感謝している(・・・そんなはずないか)のか、改めて感謝された事はありませんでしたし、私も別に不思議にも思いませんでした。
そんな息子も結婚して2年、娘の息子のお嫁さんの口添えもあったのか、去年の父の日には甚平・・・そして今年は宮城県「一の蔵酒造」大吟醸純米酒と、扇子が贈られて来ました・・・嬉しいのと同時に、良いのかなと・・・だって私は自分の父にこう言った目に見える形で感謝の気持ちを表した事がついにありませんでしたから・・・それにしてもありがとう。君達を一生祝福し続けるよ・・・
2010年06月16日
山本有三記念館・・・
14日の夜、吉田類の「酒場放浪記」を観るともなく観ていましたら、三鷹市の「山本有三記念館」の映像が流れて、びっくりして
しまいました・・・
私の祖父母がこの記念館に住んでいて、何回か訪問した記憶があったからです。途端に湧いた疑問・・・何故私の祖父母がこの元山本有三邸の記念館に住んでいたのだろう?そこでとる物もとりあえず、私のアルバムに写るここを持って、行って見ました・・・
ここが、山本有三記念館です・・・入館するや、館内の学芸員さんに「何故、私の祖父母がここに住んでいたのでしょう?」と、誠に不躾なメチャメチャな質問を浴びせてしまいましたが、じっくりと納得できるように説明をして下さいました。
終戦直後の昭和21年、この山本有三邸はGHQに接収されたそうです・・・接収後は山本は一度もここに戻らなかったようですが、昭和26年12月に接収解除となり、国立国語研究所三鷹分室になります・・・そして、昭和32年に東京都立教育研究所となりますから、この6年間の一時期、国立国語研究所の管理を祖父母がしていたのではないかと思われます・・・
祖父は、産業能率大学の創設者上野氏等と「カナモジ会」なる国語運動をしていたようですから、もしかしましたら、その様な接点があったのかも知れません・・・
おそらく昭和27年位かも知れません、私の両親と伯母の家族達とここ山本有三邸に住む祖父母を訪ねました・・・左端の国民服様なのが祖父で白い割烹着が祖母です・・・そして2人の男の子の背が高くて可愛い方が私で、もう一方の男の子は従兄弟です・・・女の子達もいずれも従兄弟です・・・もう50数年も昔の話しですので、故人になった人も多くいますが、この従兄弟の女の子一人が何と私の息子の結婚式に来てくれました・・・
後は座興です・・・上の画像とほぼ同じアングルで写しました・・・そして・・・
ほお杖をついたポーズで写った私と従兄弟です・・・もちろん右側の可愛い方が・・・何度も言うな!!(今も健在な従兄弟の声)・・・私です。
50数年振りに、ここ山本有三邸を訪れまして、もうすっかり記憶の奥底に仕舞い込まれてしまったものが、一遍に蘇った気分になりました・・・祖父が、山本有三作の「不惜身命・・・ふしゃくしんみょう」を手に読みなさいと私を追いかけて来た、あの時の事も懐かしく思い出されました・・・
しまいました・・・
私の祖父母がこの記念館に住んでいて、何回か訪問した記憶があったからです。途端に湧いた疑問・・・何故私の祖父母がこの元山本有三邸の記念館に住んでいたのだろう?そこでとる物もとりあえず、私のアルバムに写るここを持って、行って見ました・・・
ここが、山本有三記念館です・・・入館するや、館内の学芸員さんに「何故、私の祖父母がここに住んでいたのでしょう?」と、誠に不躾なメチャメチャな質問を浴びせてしまいましたが、じっくりと納得できるように説明をして下さいました。
終戦直後の昭和21年、この山本有三邸はGHQに接収されたそうです・・・接収後は山本は一度もここに戻らなかったようですが、昭和26年12月に接収解除となり、国立国語研究所三鷹分室になります・・・そして、昭和32年に東京都立教育研究所となりますから、この6年間の一時期、国立国語研究所の管理を祖父母がしていたのではないかと思われます・・・
祖父は、産業能率大学の創設者上野氏等と「カナモジ会」なる国語運動をしていたようですから、もしかしましたら、その様な接点があったのかも知れません・・・
おそらく昭和27年位かも知れません、私の両親と伯母の家族達とここ山本有三邸に住む祖父母を訪ねました・・・左端の国民服様なのが祖父で白い割烹着が祖母です・・・そして2人の男の子の背が高くて可愛い方が私で、もう一方の男の子は従兄弟です・・・女の子達もいずれも従兄弟です・・・もう50数年も昔の話しですので、故人になった人も多くいますが、この従兄弟の女の子一人が何と私の息子の結婚式に来てくれました・・・
後は座興です・・・上の画像とほぼ同じアングルで写しました・・・そして・・・
ほお杖をついたポーズで写った私と従兄弟です・・・もちろん右側の可愛い方が・・・何度も言うな!!(今も健在な従兄弟の声)・・・私です。
50数年振りに、ここ山本有三邸を訪れまして、もうすっかり記憶の奥底に仕舞い込まれてしまったものが、一遍に蘇った気分になりました・・・祖父が、山本有三作の「不惜身命・・・ふしゃくしんみょう」を手に読みなさいと私を追いかけて来た、あの時の事も懐かしく思い出されました・・・
2010年06月09日
はやぶさの事Ⅱ・・・
「はやぶさ」がどうやら、13日に地球へ戻って来るそうです・・・本当に素晴らしい快挙ですよねーー・・・
このメイクィーンのような物体は、彗星「イトカワ」ですが、この彗星に軟着陸するだけでも、何と東京から、ブラジル、サンパウロ上空のパチンコ玉位のものをピストルで撃つほどの技術力だそうですから驚きです・・・
さらにその上、イトカワの砂粒をもしかしたら収納したカプセルを地球に送り届ける可能性まであると言うのです・・・推力エンジンの殆どを失って、もう、ダメなんじゃないかって、大いに心配しましたし、イトカワまで辿り着けた技術力だけで、もう良いんじゃないかなんて、単純に日本の技術力を愛する私は思っていました。技術力が「売り」の日本では、1位じゃなくちゃダメなんです…2位なんて論外です…
もしも、戻ってカプセルが回収されたなんてニュースを聞きましたら私はもう、日本人として、嬉しいを通り越して、幸せ一杯になれると思います。「生きてて良かった!!」ってね・・・
このメイクィーンのような物体は、彗星「イトカワ」ですが、この彗星に軟着陸するだけでも、何と東京から、ブラジル、サンパウロ上空のパチンコ玉位のものをピストルで撃つほどの技術力だそうですから驚きです・・・
さらにその上、イトカワの砂粒をもしかしたら収納したカプセルを地球に送り届ける可能性まであると言うのです・・・推力エンジンの殆どを失って、もう、ダメなんじゃないかって、大いに心配しましたし、イトカワまで辿り着けた技術力だけで、もう良いんじゃないかなんて、単純に日本の技術力を愛する私は思っていました。技術力が「売り」の日本では、1位じゃなくちゃダメなんです…2位なんて論外です…
もしも、戻ってカプセルが回収されたなんてニュースを聞きましたら私はもう、日本人として、嬉しいを通り越して、幸せ一杯になれると思います。「生きてて良かった!!」ってね・・・
2010年06月04日
ニーゼルさんとお会いした・・・
品川パシィフィックホテルロビーで、スイス人フィリップ・ニーゼルさんとお会いしました。長年チバガイギー社の取締法務、常勤監査役、在日スイス商工会議所関西代表会頭、愛知万博スイス館副館長などを歴任されたお方ですが、何と言いましても、京都府内に
「庵」を結び、「拙鶴庵若翁」と号し裏千家の鵬雲斎千宋室御家元より「宋翠」を賜るなど、茶道の第一人者であります・・・
そんな、すごいお方と、私との接点は?こりゃ誰にも分かりませんね。何と接点は、私が一所懸命に調べている、James(ジェームス) Favre-Brandtなんです。今はこのファブル・ブラントの記事は、私の「ホームページ」に移動しましたけれど、このニーゼルさんは、スイス在住のJames Favre-Brandtの兄でチャールス・ファブル・ブラントの子孫と知己なんです。それで、その子孫の為に、また、日本とスイスの外交150周年記念の記事作成の為、または、ファブル・ブラントの伝記を残す為に日々精進して居られます。
さて、お会いして、しばらくはロビーで、James Favre-Brandtのお話しで歓談しましたが、その内昼、お互いに腹の虫が哀願するので、ホテル内の和食処でお昼・・・私は日本酒を頂きましたので、「お酒の肴」なる晩酌の友、ニーゼルさんは、お酒はもちろん、チラシ寿司で乾杯をしました。
私と同じ62歳しかも、8月生まれ、62年生きて来て初めて対面した訳ですが、昔の朋友に再会した様な、本当にリラックスできました。185cm100kgの巨漢ながら、少しも威圧感を与えず、悠長な日本語と優しい目の本当に素敵な紳士でしたよ・・・写真はニーゼルさんの許可を得て掲載していますのでご安心下さい・・・
「庵」を結び、「拙鶴庵若翁」と号し裏千家の鵬雲斎千宋室御家元より「宋翠」を賜るなど、茶道の第一人者であります・・・
そんな、すごいお方と、私との接点は?こりゃ誰にも分かりませんね。何と接点は、私が一所懸命に調べている、James(ジェームス) Favre-Brandtなんです。今はこのファブル・ブラントの記事は、私の「ホームページ」に移動しましたけれど、このニーゼルさんは、スイス在住のJames Favre-Brandtの兄でチャールス・ファブル・ブラントの子孫と知己なんです。それで、その子孫の為に、また、日本とスイスの外交150周年記念の記事作成の為、または、ファブル・ブラントの伝記を残す為に日々精進して居られます。
さて、お会いして、しばらくはロビーで、James Favre-Brandtのお話しで歓談しましたが、その内昼、お互いに腹の虫が哀願するので、ホテル内の和食処でお昼・・・私は日本酒を頂きましたので、「お酒の肴」なる晩酌の友、ニーゼルさんは、お酒はもちろん、チラシ寿司で乾杯をしました。
私と同じ62歳しかも、8月生まれ、62年生きて来て初めて対面した訳ですが、昔の朋友に再会した様な、本当にリラックスできました。185cm100kgの巨漢ながら、少しも威圧感を与えず、悠長な日本語と優しい目の本当に素敵な紳士でしたよ・・・写真はニーゼルさんの許可を得て掲載していますのでご安心下さい・・・