2011年07月29日
アナログのテレビは終わったけれど・・・
生まれて初めて、テレビを観ましたのは、祖父母の住む自由が丘駅の前、いわゆる街頭テレビというもので、とにかくすごく人々が集まっていたのを覚えています・・・数年後、祖父母宅には、当時一般家庭では珍しかった白黒のテレビがしっかりとありましたっけ・・・何と「新し物好きな」とは思いましたが、実は祖母が心臓の病を抱えていて、せめてテレビを観ることで日々を過ごさせようと言う祖父の愛情だったと今になってみると分かるような気がします・・・アナログの不鮮明な画像でも映画館が祖父母の家に来たような気がしました・・・
これは、昭和30年代の我が家、やっとテレビが入りました・・・今はとっくに彼(あ)の世で暮している母も、熱心にテレビを観ています。これは、おそらく高校野球でしょうね・・・私の母は高校野球と時代劇しか観ていなかったように記憶しています・・・今の私の嗜好も大して変わりませんが・・・やっぱり映画館が家に来たようなワクワク感を覚えています・・・
その、アナログ放映が終わってしまいました・・・こんなつまらない国策に乗じてカウントダウンをしなければならないのかと恥じつつも、わざわざアナログ画面で切り替る一瞬を見届けてしまいました・・・アナログ→デジタル・・・2011年7月24日正午・・・
アナログ放送が終わったことで、祖父母や両親の想い出がまた何か遠のいた感じを受けました・・・祖父母宅で観た白黒のテレビ、父と観たプロレスやコンバット・・・母と観た、高校野球、時代劇・・・
しばらくすると、この画面もザーザーと言う不快な砂嵐状態になるんでしょうか・・・変な感傷ですが、アナログさようなら・・・
これは、昭和30年代の我が家、やっとテレビが入りました・・・今はとっくに彼(あ)の世で暮している母も、熱心にテレビを観ています。これは、おそらく高校野球でしょうね・・・私の母は高校野球と時代劇しか観ていなかったように記憶しています・・・今の私の嗜好も大して変わりませんが・・・やっぱり映画館が家に来たようなワクワク感を覚えています・・・
その、アナログ放映が終わってしまいました・・・こんなつまらない国策に乗じてカウントダウンをしなければならないのかと恥じつつも、わざわざアナログ画面で切り替る一瞬を見届けてしまいました・・・アナログ→デジタル・・・2011年7月24日正午・・・
アナログ放送が終わったことで、祖父母や両親の想い出がまた何か遠のいた感じを受けました・・・祖父母宅で観た白黒のテレビ、父と観たプロレスやコンバット・・・母と観た、高校野球、時代劇・・・
しばらくすると、この画面もザーザーと言う不快な砂嵐状態になるんでしょうか・・・変な感傷ですが、アナログさようなら・・・
2011年07月23日
BBQ・・・
バーベキュー・・・私の生活習慣では経験がありませんでしたけれど、ここに勤めるようになってから、この十年間毎年バーベキューに参加しています。普段何となく口にしている食材も、外に出て、良い景色と良い空気のなかで食べると、何倍も美味しくなるのには本当にびっくりさせられます・・・
ここは、秦野の戸川公園です・・・ここのバーベキュー場が私達のお気に入り・・・屋根付きのバーベキュー場なので、少々の雨でも開けます。今日も台風明けで少し雨が残っていましたが、折角の食材がムダにならないですみました・・・
「私食べるだけの人」「私作る人」「私作りながら食べる人」、色々な仕事が、自然に決まってしまうのも面白いです・・・
職員が率先して「作る人」になると利用者さんは働かなくなってしまいがちですから、火起こしも焼き方も利用者さんにお任せです・・・これは野菜たっぷり、大きな鮭の切り身が野菜に隠れています。そして味噌味の【ちゃんちゃん焼き】なるものです・・・
バーベキューって、和気あいあいの雰囲気と、良い空気や自然が味付けになって何倍も美味しくなるんですね・・・遠足で食べるおにぎりが美味しいのと同じなんですね・・・ミニトマトを焼いて見ましたら、思わぬ美味しい発見をしましたっけ・・・
ここは、秦野の戸川公園です・・・ここのバーベキュー場が私達のお気に入り・・・屋根付きのバーベキュー場なので、少々の雨でも開けます。今日も台風明けで少し雨が残っていましたが、折角の食材がムダにならないですみました・・・
「私食べるだけの人」「私作る人」「私作りながら食べる人」、色々な仕事が、自然に決まってしまうのも面白いです・・・
職員が率先して「作る人」になると利用者さんは働かなくなってしまいがちですから、火起こしも焼き方も利用者さんにお任せです・・・これは野菜たっぷり、大きな鮭の切り身が野菜に隠れています。そして味噌味の【ちゃんちゃん焼き】なるものです・・・
バーベキューって、和気あいあいの雰囲気と、良い空気や自然が味付けになって何倍も美味しくなるんですね・・・遠足で食べるおにぎりが美味しいのと同じなんですね・・・ミニトマトを焼いて見ましたら、思わぬ美味しい発見をしましたっけ・・・
2011年07月18日
やった~!!・・・
8月早々に、被災地支援に行こうと張り切っていましたが、年寄りは足手まといと言う様な、屈辱的な物言いに腹を立てるような毎日でしたが、こんな、被災地支援の方法もあったのか!!と目を開かされました・・・
なでしこの活躍、この上なく、被災地に元気を振りまきましたね・・・試合前には、あまり話題にもなりませんでしたし、どうせ、強豪ドイツにはメタメタに負けるんじゃないか(しかもアウエーだし)なんて私も気にもしてませんでした・・・
しかし、今朝、なでしこの活躍を観て鳥肌が立ちましたよ・・・
私も自分の仕事を一生懸命にこなす事で、被災地支援をしたいと思います・・・
日本もまだまだ、捨てたもんじゃないなぁ~!!!
なでしこの活躍、この上なく、被災地に元気を振りまきましたね・・・試合前には、あまり話題にもなりませんでしたし、どうせ、強豪ドイツにはメタメタに負けるんじゃないか(しかもアウエーだし)なんて私も気にもしてませんでした・・・
しかし、今朝、なでしこの活躍を観て鳥肌が立ちましたよ・・・
私も自分の仕事を一生懸命にこなす事で、被災地支援をしたいと思います・・・
日本もまだまだ、捨てたもんじゃないなぁ~!!!
2011年07月17日
やっぱり暑い宇都宮・・・
老妻の属してる合唱団が、ここ思いっきり暑いはずの内陸部「宇都宮」で、関東大会を戦っているとの事、応援に駆けつけましたものの、あっ!あつい!!・・・息をすると肺の中に熱風が入り込んで肺が熔けるのでは・・・
そんな暑い感じが、伝われば嬉しい限りですが、さすがに宇都宮と言う暑さは、宇都宮の人は、もう何だか開き直っているようでした・・・餃子の名店の前には、この暑いのに行列でした。
いいジイサンが餃子の列に並んで熱中症で倒れたなんて、恥かしくて後世にそんなエピソードは残したくありませんから、列には混ざりませんでした・・・駅前の餃子のお店で、ごく普通のラーメンと普通の餃子を頂きました・・・これだったら別に横浜近辺で食べてもそんなに変わらないかな・・・
まぁ、餃子を食べる目的だけで宇都宮くんだりまで来た訳でもないので・・・なんて言い訳してますが・・・
そんな暑い感じが、伝われば嬉しい限りですが、さすがに宇都宮と言う暑さは、宇都宮の人は、もう何だか開き直っているようでした・・・餃子の名店の前には、この暑いのに行列でした。
いいジイサンが餃子の列に並んで熱中症で倒れたなんて、恥かしくて後世にそんなエピソードは残したくありませんから、列には混ざりませんでした・・・駅前の餃子のお店で、ごく普通のラーメンと普通の餃子を頂きました・・・これだったら別に横浜近辺で食べてもそんなに変わらないかな・・・
まぁ、餃子を食べる目的だけで宇都宮くんだりまで来た訳でもないので・・・なんて言い訳してますが・・・
2011年07月16日
会心の作・・・
このところ、晩酌のつまみは、ほとんど老妻まかせ、店屋物まかせでしたが、今日は、頑張って自作しました・・・
歳を取ったなぁとつくづく感じることとして、この材料を揃える時です。ジャガイモ・玉ねぎ・・・ひとつふたつで充分ですのに、中々、そういう小分け売りがありません・・・若い頃や息子が居た頃は、ドド~ン!と大量に食材を買い、大量に色々と作り、それでも知らない間に無くなっていたのですがねぇ・・・
メニューはジャーマンポテト風の肴です・・・ポテトもウインナーもジャーマン(ドイツ)・・・っちゅう事で・・・
歳を取ったなぁとつくづく感じることとして、この材料を揃える時です。ジャガイモ・玉ねぎ・・・ひとつふたつで充分ですのに、中々、そういう小分け売りがありません・・・若い頃や息子が居た頃は、ドド~ン!と大量に食材を買い、大量に色々と作り、それでも知らない間に無くなっていたのですがねぇ・・・
メニューはジャーマンポテト風の肴です・・・ポテトもウインナーもジャーマン(ドイツ)・・・っちゅう事で・・・
2011年07月11日
何とリーズナブルな・・・
このお蕎麦が茹でたてで、普通の二倍はあろうかと思う山盛りです・・・
これは、関内のある立ち食い蕎麦屋の盛り蕎麦です・・・前のページのお蕎麦屋さんは、確かに蕎麦粉にこだわって、打ち方にも、器にも一家言が絶対にあるとは思うのですが、ただの蕎麦好き、蕎麦さえあれば、天麩羅なんていらないなんて私には、こんなリーズナブルなおそばが良いのです・・・江戸時代の東京には、今のコンビニの数ほどの蕎麦屋が、あったそうですよ・・・
これは、関内のある立ち食い蕎麦屋の盛り蕎麦です・・・前のページのお蕎麦屋さんは、確かに蕎麦粉にこだわって、打ち方にも、器にも一家言が絶対にあるとは思うのですが、ただの蕎麦好き、蕎麦さえあれば、天麩羅なんていらないなんて私には、こんなリーズナブルなおそばが良いのです・・・江戸時代の東京には、今のコンビニの数ほどの蕎麦屋が、あったそうですよ・・・
2011年07月08日
何とお上品な・・・
近くに開店した蕎麦屋へ行ってみました・・・盛り蕎麦を注文しましたら、これです・・・
何と何とお上品な事、お味はいいのですが、一口で食べてしまえそうな量・・・胃を取ってしまった人や、超小食の女性や幼い子どもなら丁度良い量かも知れませんが、茹でたての腰の強い盛り蕎麦をリーズナブルなお値段で心行くまで食べさせてくれる蕎麦屋が増えている中、蕎麦懐石のようなこれで勝負するんですかね・・・
何と何とお上品な事、お味はいいのですが、一口で食べてしまえそうな量・・・胃を取ってしまった人や、超小食の女性や幼い子どもなら丁度良い量かも知れませんが、茹でたての腰の強い盛り蕎麦をリーズナブルなお値段で心行くまで食べさせてくれる蕎麦屋が増えている中、蕎麦懐石のようなこれで勝負するんですかね・・・
2011年07月03日
くやしい!!・・・
浪江町からの避難生活3ヶ月以上の義姉からこんな手紙が届きました・・・精神的にも身体的にも随分参っていますが、それでは私が、どのように彼女達の支えになってあげられるかと言うと、何も思い付かない・・・それがまた口惜しい・・・
(前略)不安な生活ですが、もう 3ヶ月も過ぎました。今になって浪江町の放射能が一番高かったなどと言われても・・・くやしいね。ふるさとも、身体も壊されてしまいました。でも、生きていくしかありません。孫達がかわいそう!!誰に文句を言ったら良いんだろう・・・
(前略)不安な生活ですが、もう 3ヶ月も過ぎました。今になって浪江町の放射能が一番高かったなどと言われても・・・くやしいね。ふるさとも、身体も壊されてしまいました。でも、生きていくしかありません。孫達がかわいそう!!誰に文句を言ったら良いんだろう・・・
2011年07月03日
スイス商人の幕末日記・・・
神奈川新聞で目にしたこの記事ですが、私が今調べている、James Favre-Brandt(ジェームス・ファーブル・ブランド)と一緒にスイスから、通商使節団として日本に来て、生糸の商社を設立、そして現在もシーベルへグナー社(DKSHジャパン)として150年の時を経て存在すると言う驚くべき会社の創設者、カスパー・ブレンワルドの約16年間の日本での生活を日記に残しました・・・
その日記の翻訳が横浜開港資料館での公開が始まりました。もちろん飛んで行き、開港資料館の資料室で夢のようなひと時を過ごしました。まだ解読はその一部で、後5年かけて残りの翻訳と出版が行われるとの事です・・・
カスパー・ブレンワルドの肖像です・・・
この日記はスイスで保管されていたものだそうですが、この全文をスイス在住のフィリップ・ニーゼルさんはお読みになったようで、明治維新で活躍する日本人たちの名前も沢山出て来るそうです・・・5年間生き延びて何とか全文を読まなくては・・・
ただ、河井継之助の名前は出て来ないようでしたが、司馬遼太郎の歴史小説「峠」では、河井継之助とファブル・ブランドの交友が河井の長岡藩の武備中立に突き動かしたように書かれていますが、私は、むしろ、エドワード・シュ(ス)ネルと河井の結びつきの方が大きいと思っています・・・シュ(ス)ネルは後に、新潟(長岡藩管轄)のオランダ領事となり、河井の長岡藩はじめ奥羽列藩同盟に武器を大量に供給していますし・・・
1862年4月19日スイス通商使節団が横浜へ到着した時に、フランソワ・ペルゴー(現代の時計メーカー「ペルゴ社」の創設者)とエドワード・シュ(ス)ネル(奥羽列藩同盟の武器商人・・・シュネル兄弟の弟)が出迎えて、その後、カスパー・ブレンワルドやファブルブランド、シュ(ス)ネルやイワン・カイザーなとが仲良く、ミシシッピー湾(根岸湾)や鎌倉、金沢などへ遠足した様子などが記載されていて本当に、彼等が目の前で生きているような気分になりました・・・少なくともシュ(ス)ネルとファブルブランドの結びつきは、この日記のように極々普通のものだったんですね・・・機会があるごとに、この資料室へ通い、翻訳された日記を読み続けたいと思っています・・・
その日記の翻訳が横浜開港資料館での公開が始まりました。もちろん飛んで行き、開港資料館の資料室で夢のようなひと時を過ごしました。まだ解読はその一部で、後5年かけて残りの翻訳と出版が行われるとの事です・・・
カスパー・ブレンワルドの肖像です・・・
この日記はスイスで保管されていたものだそうですが、この全文をスイス在住のフィリップ・ニーゼルさんはお読みになったようで、明治維新で活躍する日本人たちの名前も沢山出て来るそうです・・・5年間生き延びて何とか全文を読まなくては・・・
ただ、河井継之助の名前は出て来ないようでしたが、司馬遼太郎の歴史小説「峠」では、河井継之助とファブル・ブランドの交友が河井の長岡藩の武備中立に突き動かしたように書かれていますが、私は、むしろ、エドワード・シュ(ス)ネルと河井の結びつきの方が大きいと思っています・・・シュ(ス)ネルは後に、新潟(長岡藩管轄)のオランダ領事となり、河井の長岡藩はじめ奥羽列藩同盟に武器を大量に供給していますし・・・
1862年4月19日スイス通商使節団が横浜へ到着した時に、フランソワ・ペルゴー(現代の時計メーカー「ペルゴ社」の創設者)とエドワード・シュ(ス)ネル(奥羽列藩同盟の武器商人・・・シュネル兄弟の弟)が出迎えて、その後、カスパー・ブレンワルドやファブルブランド、シュ(ス)ネルやイワン・カイザーなとが仲良く、ミシシッピー湾(根岸湾)や鎌倉、金沢などへ遠足した様子などが記載されていて本当に、彼等が目の前で生きているような気分になりました・・・少なくともシュ(ス)ネルとファブルブランドの結びつきは、この日記のように極々普通のものだったんですね・・・機会があるごとに、この資料室へ通い、翻訳された日記を読み続けたいと思っています・・・