2013年03月25日

死の商人なのに・・・

James Favre-Brandtには「死の商人」を汚名を着せてしまいましたが、たとえ一丁の銃でも、その銃が人を死に追いやる手助けをした以上これは仕方がありません・・・しかし、彼が戊辰戦争後も横浜に居住して、大正12年まで生きる事が出来たのは、まず、銃の売買は、奥羽列藩同盟軍と新政府軍両方に行った事・・・これは良く解釈しますと、東西の軍事力を均衡にして、戦争を回避する意思があった事・・・スイスと言う国は永世中立国で有名ですが、かといって軍事的備えのない国ではなく、国民皆兵制がありかなりの軍事力を持つ国と聞いています・・・そしてかつ、スイス政府の意思ではなく、ジェームスの意思で武器を売買した事。武器商の他、本来の時計、しかも建物に設置する大時計を日本各地に展開しています・・・その数16~17軒と言われて居ります

画像は日本橋にあった「小島時計店」の大時計ですが、横浜開港記念会館の時計や、銀座の服部時計店の時計などが挙げられます・・・

その他、観音崎灯台や横浜灯台(今の弁天町辺りにありました)のフランス製大型レンズを設置し、我が国最初の水雷艇などの輸入に携わっています。また彼は、大山巌、西郷隆盛、維新後は桂太郎、伊藤博文、井上馨など多くの日本人の面倒を見て居ります。そんな功績に対してJames Favre-Brandtは死の商人の汚名よりも、日本の文明開化に大いなる貢献をしたと評価される訳でしょう・・・
  


2013年03月22日

ジェームスは本当に死の商人だったのか・・・

「死の商人」・・・言葉はあまり良いとは思えませんが、武器は誰が何と言おうと、敵の人命や備えを奪うものですから、本当にジェームスが武器を扱ったのかと言う裏づけがない限り「死の商人」呼ばわりは迷惑だろうと思います。司馬遼太郎の歴史小説「峠」では、長岡藩家老河井継之助がジェームスから、ガットリング砲などを購入したとありますが、あくまでも小説なので裏づけにはならないかも知れません。

ここにひとつの資料があります。石塚裕道氏(吉川弘文館)「明治維新と横浜居留地」の中に1807年明治新政府に「還納」(明治新政府による旧幕府軍からの回収または没収することを言います)された旧幕府・諸藩の洋式兵器の一覧表がありまして、そこには東の「死の商人」と言われたスネルなどとジェームスが、確かに大量の武器を取り扱っていたことが分かります・・・還納された中で奥羽列藩同盟軍の中で特に多いのは仙台藩で、小銃6260丁大砲84門・・・そしてジェームスは政府軍の西南雄藩にもかなりの数の武器を売っているんですね・・・例えば山口(長州藩?)には小銃24003丁大砲220門などがあります。

先の小説「峠」に登場する長岡藩には、E(エドワルド)・H(ヘンリー)・スネルがかなりの数の洋式武器を売っています・・・確かに河井継之助の伝記などには、スネルとの交流がはっきり記載されていますが、ジェームスとの交流は割合に少なかったようです・・・河井継之助記念館には、ファブル・ブラント商会の発行した領収証が残っていますけれど・・・・

画像はファブル・ブラント商会の銘入りヘンリーライフルです・・・アメリカのオークションで200万円位で取引されたそうですが、明治19年とうっすら読む事ができますのでおそらく、横浜のスイスライフルクラブで使われたものかも知れません・・・

結論として、ジェームスは中々の世渡り上手な死の商人、しかし死の商人の代表格にはならずに時計や精密機械を通して日本の近代化に貢献している事から紛争時と平和時の商売の仕方をわきまえた商人だったように思えます・・・  


2013年03月21日

法事の事・・・

退職した頃からずっと先祖供養の、いわゆる法事を行いたいと思っていました。しかしそれは老妻の思いでありまして、私は私がここにあってこうして生きているのは先祖からの命の繋がりだとは分かっていますものの、今更供養してもそれが一体何なんだと気持ちの方が大きかったように思います・・・この罰当たりめ~!!





最近、命を繋ぐようなニュースが耳に入りまして、急遽老妻の思いに賛同すべく我が家の菩提寺に車を走らせました・・・20日お彼岸の日です。

我が家のお墓は、この漬物石のような、幼くして世を去った私の叔父達の墓石ひとつがありましたっけ・・・でも、この墓を作った祖父母が死に、私の両親が死に結局墓石を新たに作らなければならなくなりました・・・



墓参りのついでに、塔婆も何十年か振りに依頼しましたが、この菩提寺ではたまたま、そのお彼岸の日(20日)に法要がありまして、心ならずも、それに参加できました・・・


法事は結局、私のやる気のなさと、寺の坊主丸儲けのようなぼったくり感から流れて(して)しまいましたものの、この法要に参加できた事は、繋ぐ命の安寧を祈る意味と、繋ぐ事の出来た先祖の命を安らぐための節目として本当に良かったと思いました・・・

このお塔婆の中に我が家の一基も入っているんですよ・・・



こうやって他力本願の法要は済みました・・・自分の運転する車に老妻を乗せて墓参り、そしてこんなに充実した法要があるのに、坊さんを呼び、震災の原発事故で一族避難が続く親戚一同を呼んで無駄なお金を使わせて行う法事に一体何の意味があるんだろうって、つくづく思いました・・・



桜はこの暖かさでとうとう一気に5分咲きに近くなってしまいました・・・

  


Posted by shin344 at 22:57Comments(0)日記

2013年03月18日

何故死の商人に・・・

スイス人ジェームス(フランス語読みだとゼムス)・ファーブルブラント(以下ジェームスと記します)は、エメェ・アンベールを団長とするスイスと日本の修好通商使節団として1862年12月20日フランスマルセイユを出発し、翌1863年4月に来日しました。ジェームスは条約締結後も時計商人として日本に留まりますが、何時、何がきっかけで「死の商人」となったのでしょうか?

この画像は、修好通商使節団の一行がスイスのベルンで撮った写真の中の若きジェームスですが、この写真で注目されるのは、手に望遠鏡と時計の鎖をしっかり握り締めています。当時のこう言った写真に多いのは、武力で生きる積り満々の人は、刀とか武器を持って写り込んだりします。ジェームスもおそらく望遠鏡のような精密機械や時計を彼の地(日本)で広めようと言うアッピールだったと思います・・・


確かにジェームスは渡日後は横浜で時計商「ファブル・ブラント商会」を立ち上げて居りますが、当時の日本では、西洋式時間が制定されていなかったので、渡日直後に時計が普及したとは考えにくいのが現実ではないのでしょうか。ここに当時まだ国家として成立していなかったプロシア出身のスネル兄弟の存在が気になるところです。

突然ですが、やはりスイスの時計商人フランソワーズ・ペルゴと言う人が浮かび上がって来ます。ペルゴは、スイス、ヌーシャテル出身で1861年に来日し、エドワルド・スネルとスネル・ペルゴ商会を横浜に立ち上げますが、やがて「死の商人」として武器販売に血道を上げるスネルと純粋に時計を扱うペルゴとは対立し、商会は破綻します・・・

ジェームスが「死の商人」の一端として武器を取り扱った事を純粋でない、などと言う気はありませんが、日本が生まれ変わろうとするこの「幕末」と言う時期・・・ペルゴとジェームスのどちらが上手く生きたのかなどとは結論付けられるものではないでしょうね・・・

ジェームスの「ファブル・ブラント商会」はジェームスの死後はなくなりましたが、若くして死んだペルゴの時計は今も「ジラール・ペルゴ商会」として高級時計を作り続けています・・・
  


2013年03月17日

原点回帰・・・

このブログを立ち上げてから早、10年位に成ろうかと思います・・・hama1に辿り着く前にはexiteブログで数年300ページ位アップしましたので、10年は越えているんでしょうか?・・・良くもまぁ続けたものです。そのブログも単なる日常の発信から、美味しい酒を飲むための、美味しい晩酌の友を紹介するものに始まり、横浜の今昔夜話や韓国語、などなど、自分の趣味を発信することで趣味に奥行きを加味したいと言う願望もありました。中でも、1862年にスイスから日本にやって来て、幕末の日本に多大な影響を与えたJames Favre-Brandt(ジェームス・ファーブル・ブランド)の足跡を辿って見ることに夢中になった時期もありました。

先日私のそんな古い記事をご覧になったJames Favre-Brandtの末娘、アデルFavre-Brandtの嫁ぎ先、マンローと言う考古学者の研究者から、マンローの研究者は数名いるらしいのですが、その三番目の妻、アデルの写真は皆無だったらしく問い合わせを受けました・・・幸いアデルの写真を私は持っていましたので、協力をしましたが、その事よりも、ずっと昔に取り扱った私のブログに辿り着かれたと言う事実に本当に驚きました。私自身でさえ忘れて居たのですからね・・・

最近の私のブログを鑑みますと、一身上の変化に伴い、愚痴やら、文句やらつまらない話題が満載です・・・そろそろ、原点回帰をするべき時期かも知れないと言う気持ちにさせられましたっけ・・・                                                   画像はJames Favre-Brandt晩年の姿です  


2013年03月03日

移住したい・・・

最近と言うより、仕事を辞めるずっと前から思っていましたのは、移住したいという事でした・・・海外もいいですけれど、医療とか、治安とか色々と不安もあるようですし、やっぱり国内での移住でしょうか?・・・

安い年金とNO資産の私たちが、ゆっくりと暮らせるような場所って、ないのでしょうか・・・ありそうで意外にないのかも知れませんが、そんな情報を共有できるようなネットワークがあってもいいのではないのでしょうか?・・・


65歳になって、やっと出来る仕事も、やっぱり所詮はパート(非常勤)・・・何時辞めても良い様に仕組みが出来上がっていますし、今まで「責任と言う衣」を被るだけ被って、自らが潰れるほどの思いをしましても、常勤と非常勤では雲泥の差があるんですね・・・それって常勤のリーダーであった私に取りましては分かりすぎるほど分かっていた積りなんですがねぇ・・・

・・・ってちょっと愚痴ってみたりして・・・face09

いやいや、話しが逸れましたが、移住に適した場所ってないですかねぇ・・・  


Posted by shin344 at 20:16Comments(0)日記