2009年01月22日
ファブル・ブラント5・・・
1863年(文久3年)4月に江戸へ来日したスイス特派使節団は、遅々とした(幕府が重い腰を上げようとしなかった)修好条約締結で一年間日本に居ましたが1864年2月6日にようやく締結に至りました。任務を終えたアンベール公使はじめ2名は早々に故国スイスへ帰りましたが、横浜にはファブル・ブラントはじめ、ブレンワルド(現在まで続いているシーベル・へグナー社の創始者)、バビエと共に日本へ残りました。
そして、1864年に外国人居留地52番地に商館を設立して、武器・諸機械・時計・宝飾品等の貿易を開始したのでした。
しかしこの52番地(現在の日本大通り近くか・・・)は1866年の「豚屋火事」により消失してしまったので、1867年に1923年の関東大震災まで存在し続け、「峠」で河井継之助との出会いを演出したファブル・ブラント商会を新築しました。これがその社屋の様子です。
ジャパン・ディレクトリより参照
その後、日本はいわゆる文明開化の時代を迎えて、ファブル・ブラント商会は、大阪川口10番地に商館を新設しました。日本の文明開化に対するファブル・ブラントの貢献はまたこの次に・・・って誰に予告しているの?・・・確かに
ジャパン・ディレクトリより参照
そして、1864年に外国人居留地52番地に商館を設立して、武器・諸機械・時計・宝飾品等の貿易を開始したのでした。
しかしこの52番地(現在の日本大通り近くか・・・)は1866年の「豚屋火事」により消失してしまったので、1867年に1923年の関東大震災まで存在し続け、「峠」で河井継之助との出会いを演出したファブル・ブラント商会を新築しました。これがその社屋の様子です。
ジャパン・ディレクトリより参照
その後、日本はいわゆる文明開化の時代を迎えて、ファブル・ブラント商会は、大阪川口10番地に商館を新設しました。日本の文明開化に対するファブル・ブラントの貢献はまたこの次に・・・って誰に予告しているの?・・・確かに
ジャパン・ディレクトリより参照
Posted by shin344 at 18:06│Comments(0)
│横浜今昔物語