2010年06月16日
山本有三記念館・・・
14日の夜、吉田類の「酒場放浪記」を観るともなく観ていましたら、三鷹市の「山本有三記念館」の映像が流れて、びっくりして
しまいました・・・
私の祖父母がこの記念館に住んでいて、何回か訪問した記憶があったからです。途端に湧いた疑問・・・何故私の祖父母がこの元山本有三邸の記念館に住んでいたのだろう?そこでとる物もとりあえず、私のアルバムに写るここを持って、行って見ました・・・
ここが、山本有三記念館です・・・入館するや、館内の学芸員さんに「何故、私の祖父母がここに住んでいたのでしょう?」と、誠に不躾なメチャメチャな質問を浴びせてしまいましたが、じっくりと納得できるように説明をして下さいました。
終戦直後の昭和21年、この山本有三邸はGHQに接収されたそうです・・・接収後は山本は一度もここに戻らなかったようですが、昭和26年12月に接収解除となり、国立国語研究所三鷹分室になります・・・そして、昭和32年に東京都立教育研究所となりますから、この6年間の一時期、国立国語研究所の管理を祖父母がしていたのではないかと思われます・・・
祖父は、産業能率大学の創設者上野氏等と「カナモジ会」なる国語運動をしていたようですから、もしかしましたら、その様な接点があったのかも知れません・・・
おそらく昭和27年位かも知れません、私の両親と伯母の家族達とここ山本有三邸に住む祖父母を訪ねました・・・左端の国民服様なのが祖父で白い割烹着が祖母です・・・そして2人の男の子の背が高くて可愛い方が私で、もう一方の男の子は従兄弟です・・・女の子達もいずれも従兄弟です・・・もう50数年も昔の話しですので、故人になった人も多くいますが、この従兄弟の女の子一人が何と私の息子の結婚式に来てくれました・・・
後は座興です・・・上の画像とほぼ同じアングルで写しました・・・そして・・・
ほお杖をついたポーズで写った私と従兄弟です・・・もちろん右側の可愛い方が・・・何度も言うな!!(今も健在な従兄弟の声)・・・私です。
50数年振りに、ここ山本有三邸を訪れまして、もうすっかり記憶の奥底に仕舞い込まれてしまったものが、一遍に蘇った気分になりました・・・祖父が、山本有三作の「不惜身命・・・ふしゃくしんみょう」を手に読みなさいと私を追いかけて来た、あの時の事も懐かしく思い出されました・・・
しまいました・・・
私の祖父母がこの記念館に住んでいて、何回か訪問した記憶があったからです。途端に湧いた疑問・・・何故私の祖父母がこの元山本有三邸の記念館に住んでいたのだろう?そこでとる物もとりあえず、私のアルバムに写るここを持って、行って見ました・・・
ここが、山本有三記念館です・・・入館するや、館内の学芸員さんに「何故、私の祖父母がここに住んでいたのでしょう?」と、誠に不躾なメチャメチャな質問を浴びせてしまいましたが、じっくりと納得できるように説明をして下さいました。
終戦直後の昭和21年、この山本有三邸はGHQに接収されたそうです・・・接収後は山本は一度もここに戻らなかったようですが、昭和26年12月に接収解除となり、国立国語研究所三鷹分室になります・・・そして、昭和32年に東京都立教育研究所となりますから、この6年間の一時期、国立国語研究所の管理を祖父母がしていたのではないかと思われます・・・
祖父は、産業能率大学の創設者上野氏等と「カナモジ会」なる国語運動をしていたようですから、もしかしましたら、その様な接点があったのかも知れません・・・
おそらく昭和27年位かも知れません、私の両親と伯母の家族達とここ山本有三邸に住む祖父母を訪ねました・・・左端の国民服様なのが祖父で白い割烹着が祖母です・・・そして2人の男の子の背が高くて可愛い方が私で、もう一方の男の子は従兄弟です・・・女の子達もいずれも従兄弟です・・・もう50数年も昔の話しですので、故人になった人も多くいますが、この従兄弟の女の子一人が何と私の息子の結婚式に来てくれました・・・
後は座興です・・・上の画像とほぼ同じアングルで写しました・・・そして・・・
ほお杖をついたポーズで写った私と従兄弟です・・・もちろん右側の可愛い方が・・・何度も言うな!!(今も健在な従兄弟の声)・・・私です。
50数年振りに、ここ山本有三邸を訪れまして、もうすっかり記憶の奥底に仕舞い込まれてしまったものが、一遍に蘇った気分になりました・・・祖父が、山本有三作の「不惜身命・・・ふしゃくしんみょう」を手に読みなさいと私を追いかけて来た、あの時の事も懐かしく思い出されました・・・
Posted by shin344 at 13:32│Comments(0)
│日記