2009年02月07日

今日のランチ・・・

今日は、みなとみらいホールで「コーラルフェスト」なる催しがありました・・・私も、2つの合唱団をハシゴしましたが、どの合唱団も所詮、団体・・・

誰が右を向いたの左を見たの、誰がどうしたこうしたなどを、私としては絶対に参加したくない「アフター」なる打ち上げで話題にしたりする・・・そんな下らなさに辟易として、今は全く別な世界に生活してます・・・歌うだけで良いなら、本当に楽しいのですがねぇ・・・

それはどうでも良いのですが、老妻が長いこと所属していた合唱団から、お誘いがあって、このホールまで同行しました。私は、桜木町と言えば幾らでも遊ぶ場所がありますから、昼食をここ「中村屋」で頂いて、老妻は「コーラルフェスト」へ、私は、セキチューや、PCデポで遊びました・・・

これが、「中村屋特製インドカレー」ですけれど、堂々とした名称と、しっかりとしたお値段(1,300円位しましたよ)の割にはあまり美味しくなかったなぁー・・・face06

好き嫌いや、食べ物が美味しいかどうかは、その時の体調なども大いに影響しますけれど、私は、自宅で作るカレーの方が余程美味しいと思いました・・・因みに老妻は「煮込みハンバーグ」とパンのセット、そちらの方が正解だったかなー・・・face03


旨くもないものに、1,300円も取るんじゃにゃー!!

・・・心が叫んだだけですからお許しを。「中村屋」の人に恨みはありません・・・face07  


Posted by shin344 at 19:09Comments(2)日記

2009年02月07日

只今ホームページ作成中・・・

HTMLやらCSSを使って、ホームページ作りに没頭しています・・・ホームページビルダーなんかを使えば簡単に作る事が出来るとは分かっていますが、果たしてそれで血肉になるのだろうかと考えてました。PCは50歳代で出会ってから余程相性が良かったのか、万事飽きっぽい私が飽きもせず、続けているのが不思議、しかも、理論的、科学的な事は苦手で、全て感覚でしか捉えないこの私がコンピューター言語に手を出すのは恐れ多いとも思いつつ、底無し沼に足を捕られて行くのでした・・・


と、いう事で今はマイホームページと言う土俵を作って、タイトルやサブタイトル、背景色、リンクなどに兆戦、今日はやっと画像を読み込む事に成功しました。

画像は夏に札幌で頂いた「一文字」のラーメンですが、画像サイズの調整が未だつきません・・・


こうやって、メモ帳のフォルダにコンピュータ言語を書いて行くだけなんです。それがまた難しいのですが、画面に反映された時は、それは嬉しいですね・・・face03

さて、画像の読み込みには成功しましたが、画像をどうしたらサイズの切り取りではなくて圧縮した形で、サイズを小さく出来るのかどうかですよ・・・テキストにはそこまで書いてないよー。何時マイホームページとして送信できるのかは不明です。今日までで、既に3週間かかっていますから、SEとかプログラマーのような職業の人から観たら、鼻先で「フン!」ってな事でしょうね・・・face03


ところでメモリーを増設して1.2GBにしたので、仕事がし易いこと・・・256Mから562M、そして1.2GBにしたってゲームする訳ではないし、別に変わりないジャンて思っていましたが、こんな効果があったのか!  


Posted by shin344 at 17:38Comments(6)日記

2009年02月07日

ファブル・ブラント7・・・

【エピソード4・・・岩亀楼のこと】

引き続きファブル・ブラントの「横浜の風物と事情」より・・・
「ガンキローなたはヤンキローと呼ばれた茶屋は、後になくなった(注、豚屋火事で消失)が、現在のY・C・&・A・C(注、今の横浜公園・・横浜スタジアムもある)の敷地がその跡で、クリケットグラウンドのほぼ中央に位置していた。(中略)その頃、横浜では縷々、外人水兵と日本人との流血騒ぎが起こったのでそれらの不祥事を根絶させたいと言うことから建てられたのである。

1850年のある晴天の日、領事はじめ全ての外人に、扇子、赤い木綿布(手拭のことであろう)、日本語とラテン語で[ガンキロー]と銘を入れた茶碗が贈られて外人の遊興所にあてられた。扇子には岩亀楼の鳥瞰図が描かれていた。妙なことだが、この招待に立腹する者はなく、却って大勢集まり夜を徹して祝宴を張ったと言う。(中略)

外人たちはタバコを吸い、飲食し、笑い(外人には珍しいことだが)、20人ほどのゲイシャの囃子を聴きながら踊る女達のゆがんだ表情を眺めていた。一方おびただしく着飾ったゲイシャは、卓子の傍で、「オバサン」(遣手婆・・やりてばばあ)の指図のもと、静かに立ち働いていた。」・・・

上の浮世絵は岩亀楼で遊興する外人達の様子です・・・ファブル・ブラント(外人)の目を通して、当時の遊廓の様子を垣間見られる一文です。岩亀楼を含む40軒程の遊廓は1866年11月26日の「豚屋火事」で消失しました・・・当時横浜公園の遊廓街は壕に囲まれた島のようになっていて、その島には橋がひとつしかなく、しかもそのたった一つの橋付近からの出火でしたから、大勢のゲイシャ達を渡し舟で救い出そうと外人や日本人も努力したようですが、「彼女等は気の毒にも焼死してしまった」と記載されています。

  


Posted by shin344 at 09:58Comments(0)横浜今昔物語