2009年02月28日

講演会「横浜開港の謎に迫る」にてⅡ・・・

横浜にも「遊郭」がありました。そんな語りで始まった作家「山崎洋子」さんの講演でした・・・これも、本当に楽しい時間でしたよ。約1時間半、上質の映画や演劇を観るようなまんじりともしない時間でした。氏は、横浜真金(まがね)町に戦前まであった「遊郭」をモデルにした小説で芥川賞を受賞した作家です。真金町の遊郭と言えば「笑点」の桂 歌丸師匠のお宅が真金町の遊郭だった話しもされていましたね・・・それは以前、聞いた事はありますけれど・・・

さて、その遊郭は当初、「港崎(みよざき)遊郭」として、現在の横浜公園の敷地に存在しました。その後、高島町へ移り、終戦直後まで真金町近辺で展開していました。


これは、現横浜公園(横浜スタジアムのあるところ)の港崎遊郭の錦絵ですが、この遊郭は、外国人用と日本人用に区分けされていたようです。外国人向けの遊女は「ラシャメン」と呼ばれたようですが、これらは完全に開港の裏話なんですね・・・

この遊郭の周辺は遊女が逃げないように堀で囲まれていたと氏はおっしゃいましたが、堀と言うよりも、未だ埋め立てられていない内海が残っていたと言うことなのだと私は理解しています・・・

江戸の吉原に迫るような立派な遊郭だったようですが、慶応3年の「豚屋火事」で焼けてしまいました・・・「豚屋」と言うのはこの錦絵の大門へ入る一本道の曲がり角辺りにあった店からの出火でしたから、唯一の避難道が火事でふさがれてしまった形になった訳です・・・結果的に多くの遊女が焼死してしまいました。その数300人とも400人とも言います。


横浜球場から応援のざわめきが聞こえ、横浜公園のベンチで人々がのんびりと日向ぼっこをしているここの地面の下には、300人から400人の悲しき遊女の骨が埋まっている事を忘れないで欲しいと言うのも氏の「謎かけ」のひとつでした・・・  


Posted by shin344 at 20:46Comments(0)横浜今昔物語