2009年07月04日

Favre-Brandt(ファブル・ブラント)11・・・

このシリーズ、大分ご無沙汰していました・・・幕末に開港したばかりの横浜へ、スイスの通商使節団と共に渡って来たJames Favre-Brandtは使節団が目的を果たして解散した後も横浜へ残り、時計、武器などを扱う商人として「 Favre-Brandt(ファブル・ブラント)商会」を設立、戊辰戦争の折には、長岡藩、薩摩藩へ武器を供給し、日本の西洋時計普及に力を注ぎましたが、彼自身はほとんど自分の功を語らず、あまりその活動が知られていないのが現状です・・・Favre-Brandt(ファブル・ブラント)11・・・

James Favre-Brandtは横浜に居住して、大正12年に軽井沢で死亡しています・・・折りしも関東大震災で自らの商館が倒壊する一ヶ月前の事、商館倒壊を目にしなかったのが、せめてもの幸いだったのかも知れません。

ところで、「河井継之助とファブル・ブランドと長岡戦争と」「ファブル・フラント1~10」と少しづつアップして来ました。誰が読んでくれるのか、きっと誰も見てくれないのだろうな、とは思っていました。別に誰に読んで貰わなくても日記の一端としてだからどうでも良いのですが、それでも、読んで下さる方はいたようで、沢山の「宝物」を頂いて居ります・・・何よりの嬉しい事です・・・

その宝物のひとつです。James Favre-Brandtの画像は現在同じ頃の椅子に座ったものは良く目にしますが、この写真は珍しいと思います・・・
Favre-Brandt(ファブル・ブラント)11・・・
そしてこの写真、4人息子の長男Francois(フランソワ) Favre-Brandtの写真もそうなんですが、長男と思っていたものが、実は次男だったようです。その経緯は後で触れる事もあると思います。

まず、去年夏頃にこのFrancois Favre-Brandtの子孫の方からお便りを頂き本当に驚いてしまいました・・・しかも、その事をブログアップしましたら、関西の有名な時計コレクターそして研究家の方から是非ともJames Favre-Brandtの子孫とお会いしたいとコンタクトがありました。

そして、最近スイスから、James Favre-Brandtの兄、Cherles(チャールス) Favre-Brandtの子孫の友だちからお便りを頂き、第二次大戦以降散り散りになってしまったJames Favre-Brandtの子孫同士が是非会いたい、会わせたいとのお話しとCherles Favre-Brandtのその後の家系図などが送られて来まして、私の身辺はもう宝の山状態です。

私のJames Favre-Brandt研究が何歩も前進したのは事実です・・・キャーワー!!(これ、嬉しい悲鳴ですface03)

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