2018年06月11日
シンガポールの事・・・
シンガポールで明日米朝首脳会談が開かれるようです・・・シンガポールと言いますとまず思い浮かぶのはこの絵画です・・・
この絵は、日本水彩連盟の真野紀太郎氏が大正12年12月11日に海軍兵学校の遠洋航海演習に真野氏が同行し同じく遠洋航海の副官として指揮をとった祖父に贈られたものです・・・
題「椰子茂る街道」(新嘉坡タンジョンカトンにて)・・・スコールの後、微風そよぐ椰子樹茂る街道に沿ふと、原始的な建物の点在する、また往来の人物にも面白さを感じました・・・と、真野氏の寸評も添えられていました・・・
ところで戦前の一時期祖父母は駐在武官としてシンガポールに住んでいたそうで、そこで生まれた叔父に新嘉坡の「新」の一字を名付けました・・・ところがその叔父が戦死してしまいその名前の一字「新」は私の名前の一字に引き継がれました・・・それがどうかしましたか?・・・
タンジョンカトンでググってみますとこんな画像が出て来ましたけれど、これが真野氏の絵と同じ場所なのかは全く分かりませんけれど、戦後超近代都市に生まれ変わった新嘉坡(シンガポール)の事1923年の頃と全く変わったのは否めません・・・
そのシンガポールで歴史的会談が開かれるのを、川の向こう岸にいる祖父母や真野氏が聞いたらどんなに驚くか・・・
何はともあれ、愚かで進歩のない人類が少しでも平和に前進できるような会談になれば良いのですけれど・・・
この絵は、日本水彩連盟の真野紀太郎氏が大正12年12月11日に海軍兵学校の遠洋航海演習に真野氏が同行し同じく遠洋航海の副官として指揮をとった祖父に贈られたものです・・・
題「椰子茂る街道」(新嘉坡タンジョンカトンにて)・・・スコールの後、微風そよぐ椰子樹茂る街道に沿ふと、原始的な建物の点在する、また往来の人物にも面白さを感じました・・・と、真野氏の寸評も添えられていました・・・
ところで戦前の一時期祖父母は駐在武官としてシンガポールに住んでいたそうで、そこで生まれた叔父に新嘉坡の「新」の一字を名付けました・・・ところがその叔父が戦死してしまいその名前の一字「新」は私の名前の一字に引き継がれました・・・それがどうかしましたか?・・・
タンジョンカトンでググってみますとこんな画像が出て来ましたけれど、これが真野氏の絵と同じ場所なのかは全く分かりませんけれど、戦後超近代都市に生まれ変わった新嘉坡(シンガポール)の事1923年の頃と全く変わったのは否めません・・・
そのシンガポールで歴史的会談が開かれるのを、川の向こう岸にいる祖父母や真野氏が聞いたらどんなに驚くか・・・
何はともあれ、愚かで進歩のない人類が少しでも平和に前進できるような会談になれば良いのですけれど・・・
Posted by shin344 at 18:35│Comments(2)
│日記
この記事へのコメント
何か ホットするような絵です
もちろん油絵のことも分かりませんし 「なんでも鑑定団」に出てくるような絵など価値など全く分かりません
ただ 水彩画は一番自然そのままを写しているような感じがして好みなのです
おじいさまは大変偉い方だったのですね そしてshin344さんの一字が世紀の米朝首脳会談にに関係するシンガポールに由来しているとは---
会談は朝鮮半島の完全非核化が速やかに進み日本の拉致被害者問題が進展することを祈るばかりです
もちろん油絵のことも分かりませんし 「なんでも鑑定団」に出てくるような絵など価値など全く分かりません
ただ 水彩画は一番自然そのままを写しているような感じがして好みなのです
おじいさまは大変偉い方だったのですね そしてshin344さんの一字が世紀の米朝首脳会談にに関係するシンガポールに由来しているとは---
会談は朝鮮半島の完全非核化が速やかに進み日本の拉致被害者問題が進展することを祈るばかりです
Posted by もともと at 2018年06月13日 21:13
もともとさん・・・こんばんは
私の祖父はもし日本海軍が存続していたとしましたら
確かにある程度の地位に居たのかも知れません
でも結果的に敗戦しまして公職追放で「かなもじ」会の
つてで産業能率大学で英語教師として足跡を
残したようです・・・
なかなかしぶとい北朝鮮湖の事・・・この程度の事で折れる
わけなんぞありませんと思います・・・・
私の祖父はもし日本海軍が存続していたとしましたら
確かにある程度の地位に居たのかも知れません
でも結果的に敗戦しまして公職追放で「かなもじ」会の
つてで産業能率大学で英語教師として足跡を
残したようです・・・
なかなかしぶとい北朝鮮湖の事・・・この程度の事で折れる
わけなんぞありませんと思います・・・・
Posted by shin344 at 2018年06月13日 21:36