2018年05月27日
久し振りの秋葉原(あきば)散策・・・
定年退職してから早5年になりますが、その5年間、毎日何だかんだと目まぐるしく動き回っていますが、せいぜい横浜と川崎を行ったり来たりです・・・今日は5年以上もご無沙汰の「あきば」に行って来ました・・・
今の「あきば」は随分様変わりしていましたね・・・まず第一に噂には聞いていましたが、外国人の多い事・・・外国人の経営している店があったり、お店の奥に入り込むとインド語(?)や英語や中国語らしい言葉が行きかったり・・・
ここは日本かと思われる程でした・・・
それと、以前は「萌え」系のお店の前にしかいなかった女の娘(こ)が、やたらあちこちの辻々に立って客引きをしています・・・
電気オタクからPCオタク・・・そして今は外国人や萌え系オタクも入り混じってまぁ大変な事になっていました・・・
パソコンに係わり始めた頃は、ここ秋葉原に来ても何が何だか分からなかったものですが、今は何処の店に何があるのか大体見当が着くようになりました・・・
今日はテレビ録画用に外付けのハードディスクを探しに来ました・・・
こんな感じのパソコンを解体すると取り出せるハードディスクをケースに装着してみたいのです・・・
色々と調べていましたが、使い古したハードディスクを持っていたらケースにセットして随分安く録画用に出来るんですけれど・・・
お店を回っている内に気付いたのですが、もしかしたらセットされたものを購入した方が安いのではないかと躊躇しました・・・それは今まで捨てたPCは数々ありますがハードディスクを取り出した事はありませんでしたから・・・
横浜と川崎を行き来する内にとっても「田舎者(田舎の人をバカにした訳ではないです)」になってしまった感がありましたが、久し振りの「あきば」でちょっとリフレッシュしました・・・
今の「あきば」は随分様変わりしていましたね・・・まず第一に噂には聞いていましたが、外国人の多い事・・・外国人の経営している店があったり、お店の奥に入り込むとインド語(?)や英語や中国語らしい言葉が行きかったり・・・
ここは日本かと思われる程でした・・・
それと、以前は「萌え」系のお店の前にしかいなかった女の娘(こ)が、やたらあちこちの辻々に立って客引きをしています・・・
電気オタクからPCオタク・・・そして今は外国人や萌え系オタクも入り混じってまぁ大変な事になっていました・・・
パソコンに係わり始めた頃は、ここ秋葉原に来ても何が何だか分からなかったものですが、今は何処の店に何があるのか大体見当が着くようになりました・・・
今日はテレビ録画用に外付けのハードディスクを探しに来ました・・・
こんな感じのパソコンを解体すると取り出せるハードディスクをケースに装着してみたいのです・・・
色々と調べていましたが、使い古したハードディスクを持っていたらケースにセットして随分安く録画用に出来るんですけれど・・・
お店を回っている内に気付いたのですが、もしかしたらセットされたものを購入した方が安いのではないかと躊躇しました・・・それは今まで捨てたPCは数々ありますがハードディスクを取り出した事はありませんでしたから・・・
横浜と川崎を行き来する内にとっても「田舎者(田舎の人をバカにした訳ではないです)」になってしまった感がありましたが、久し振りの「あきば」でちょっとリフレッシュしました・・・
2018年05月27日
鰯の梅煮・・・
鰯一匹丸ごと圧力鍋で煮ました・・・梅干しと薄味の出し汁です・・・梅干しの酸味が効いていてしかも圧力鍋で40分煮て骨などホロホロに溶けてしまいます・・・
サイドメニューは近頃完成した「ナムル」・・・このナムルなら白飯に混ぜて食べるとビビンパになります・・・
そして茶碗蒸し・・・これも蒸し器のない所では電子レンジで作ります・・・
サイドメニューは近頃完成した「ナムル」・・・このナムルなら白飯に混ぜて食べるとビビンパになります・・・
そして茶碗蒸し・・・これも蒸し器のない所では電子レンジで作ります・・・
2018年05月24日
人間て全然進歩していない・・・
・・・と、言うのは先日の講演で渡辺氏が吐かれた言葉です・・・話しは飛びますが、その昔、私はある組織の責任者でしたが・・・私の任を引き継いだ後任者と話すと言うか楽しく呑むはずでしたが、後任者の口から出たのは部下達の悪口のみしか聞けませんでした・・・それ以来その後任者とは話す気持ちさえ起こりませんで今に至っています・・・私が育てたと自認している部下達を彼は全然愛していなかったし彼もまた部下から慕われる存在ではなかったのが分かってしまいました・・・
日大と関学のゲームでの事件ですけれど、完全に私見ですが、監督側も選手側も保身&保身・・・何を何から保身するのかは分かりませんが、いい大人が何やってんだかと思ってしまいます・・・18歳以上は確か大人の仲間入りしたらしいと聞きましたが・・・
もし責任者で責任を感じましたら四の五の言わずに即「腹を斬る」覚悟でいなくてはなりません・・・
古来日本の責任者は責任を背負わされた時点で何時でも部下や配下の不手際には見苦しい言い訳はせずに自裁したと聞いています・・・
そんな時代劇じみた事を言うまでもなく、人間て全然進歩がないなぁ。物質的には進歩しても人間の根幹はそんなに変わるものではないと・・・
日大と関学のゲームでの事件ですけれど、完全に私見ですが、監督側も選手側も保身&保身・・・何を何から保身するのかは分かりませんが、いい大人が何やってんだかと思ってしまいます・・・18歳以上は確か大人の仲間入りしたらしいと聞きましたが・・・
もし責任者で責任を感じましたら四の五の言わずに即「腹を斬る」覚悟でいなくてはなりません・・・
古来日本の責任者は責任を背負わされた時点で何時でも部下や配下の不手際には見苦しい言い訳はせずに自裁したと聞いています・・・
そんな時代劇じみた事を言うまでもなく、人間て全然進歩がないなぁ。物質的には進歩しても人間の根幹はそんなに変わるものではないと・・・
2018年05月20日
神奈川の記憶・・・こぼれ話
A新聞の主催で開かれた講座に行って来ました・・・A新聞の「横浜」欄に掲載されて楽しみに読んでいたその記事を書いた渡辺延志さんが講演されました・・・
約2時間の講演でしたが昔行かされたつまらない講演と違い実に楽しくあっと言う間に過ぎました・・・
歴史は時の為政者や権力者により造られると渡辺氏はおっしゃいましたが、私もその事は感じます・・・例えば「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉が明治維新の時うまれましたが、今次大戦でも核兵器で大量殺戮をした米国には何の咎めもないのですから・・・
最近は歴史書も維新時の賊軍と位置づけられた佐幕軍たちにスポットを当てて来ましたが、私の子供の頃は少年漫画でも「勤王の志士」は良い人で新選組など佐幕派は悪役だとするものが多かったように思います・・・
最後に渡辺氏がこぼれ話のこぼれ話的な非常に興味深い話しを紹介されていました・・・私が日本刀と言いますと右の写真のような「造り」のものを思いますが実は戦国乱世の頃にこんな造りの刀で戦ったらまずまともに戦えないし、刀身が飛んで行ってしまうらしいです・・・戦国の頃は剣道場で使う竹刀の柄のような鹿革を巻いていたそうです・・・
刀が装飾品や武士のステータスシンボルのようになった江戸時代にこう言う柄の造りが生まれたそうです・・・私は時代小説や時代劇が好きですが、戦国時代に上のような日本刀で戦っていたら時代考証がちょっと?と言うことになるのでしょうね・・・
まだまだ紹介したい興味深い事はありますが、一般常識とされている歴史にも冷静に見方を変えると裏の歴史も見えて来ると言うのが漠然としていますが少し理解できました・・・
(追記)・・・この当時トップシークレットだった原爆投下予定の都市名ですが、横浜は3番目の候補地だったそうです。このリストでの3番目がどのような理由で消えたのかは不明ですが投下されたとしたら私も今ここに居たのかどうかは分かりません・・・
ショックだったのは京都が2番目の候補地だった事、昔学校で京都には貴重な神社仏閣など大切なものがあるのでアメリカ軍にもこう言った貴重な宝を失うのを惜しむ人が居て爆撃されなかったと、教えてくれた教師がいて、私も深く納得したものですが、60数余年で完全に覆ってしまいました・・・因みに京都が対象から外れたのは、京都に原爆を投下したとしたら、日本は絶対に戦争を止めないと判断したからだそうです・・・
戦争なんてそんなものでしょう・・・タリバーンやISが古代遺跡を破壊するのを憤って観ていますが、戦争など所詮狂気の何事でもないという事です・・・
約2時間の講演でしたが昔行かされたつまらない講演と違い実に楽しくあっと言う間に過ぎました・・・
歴史は時の為政者や権力者により造られると渡辺氏はおっしゃいましたが、私もその事は感じます・・・例えば「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉が明治維新の時うまれましたが、今次大戦でも核兵器で大量殺戮をした米国には何の咎めもないのですから・・・
最近は歴史書も維新時の賊軍と位置づけられた佐幕軍たちにスポットを当てて来ましたが、私の子供の頃は少年漫画でも「勤王の志士」は良い人で新選組など佐幕派は悪役だとするものが多かったように思います・・・
最後に渡辺氏がこぼれ話のこぼれ話的な非常に興味深い話しを紹介されていました・・・私が日本刀と言いますと右の写真のような「造り」のものを思いますが実は戦国乱世の頃にこんな造りの刀で戦ったらまずまともに戦えないし、刀身が飛んで行ってしまうらしいです・・・戦国の頃は剣道場で使う竹刀の柄のような鹿革を巻いていたそうです・・・
刀が装飾品や武士のステータスシンボルのようになった江戸時代にこう言う柄の造りが生まれたそうです・・・私は時代小説や時代劇が好きですが、戦国時代に上のような日本刀で戦っていたら時代考証がちょっと?と言うことになるのでしょうね・・・
まだまだ紹介したい興味深い事はありますが、一般常識とされている歴史にも冷静に見方を変えると裏の歴史も見えて来ると言うのが漠然としていますが少し理解できました・・・
(追記)・・・この当時トップシークレットだった原爆投下予定の都市名ですが、横浜は3番目の候補地だったそうです。このリストでの3番目がどのような理由で消えたのかは不明ですが投下されたとしたら私も今ここに居たのかどうかは分かりません・・・
ショックだったのは京都が2番目の候補地だった事、昔学校で京都には貴重な神社仏閣など大切なものがあるのでアメリカ軍にもこう言った貴重な宝を失うのを惜しむ人が居て爆撃されなかったと、教えてくれた教師がいて、私も深く納得したものですが、60数余年で完全に覆ってしまいました・・・因みに京都が対象から外れたのは、京都に原爆を投下したとしたら、日本は絶対に戦争を止めないと判断したからだそうです・・・
戦争なんてそんなものでしょう・・・タリバーンやISが古代遺跡を破壊するのを憤って観ていますが、戦争など所詮狂気の何事でもないという事です・・・
2018年05月17日
こどもの国Ⅳ・・・
陸軍田奈部隊の弾薬補給廠も戦後は米進駐軍の基地に接収されました・・・住んで居た病院の長屋にも色々なお方が住んで居ましたよ・・・米軍兵士と懇ろになった女性・・・私たちは「パンパン」と侮蔑して呼んでいましたが反面その女性がもたらしてくれるチョコレートや缶詰を有難く頂いていました・・・大きな廊下の左右にかつての病室でしょうか?・・・そんな光景が思い出されます・・・
米進駐軍の駐屯地になった「こどもの国」・・・その入り口の建物にサイレンが取り付けてあり、お昼(12時)になると「う~~~!!」・・・と、すさまじい音鳴らしていました・・・何年も住むとそんなサイレンの音にも慣れて時計代わりにしたのを覚えています・・・そして流石に米軍と言っていいのかどうかは分かりませんがクリスマスには私たち地元の者を招待してくれました・・・
そこで、私を含めた日本の子どもたちに何が行われたのかは記憶に無いのですが楽しかったような気もします・・・
何だか日頃夢を見ていたような記憶でしたが不思議でおかしな世界だったように思えます・・・
このこどもの国で孫や息子と遊ぶこと自体不思議な縁(えにし)のようなものを感じます・・・
米進駐軍の駐屯地になった「こどもの国」・・・その入り口の建物にサイレンが取り付けてあり、お昼(12時)になると「う~~~!!」・・・と、すさまじい音鳴らしていました・・・何年も住むとそんなサイレンの音にも慣れて時計代わりにしたのを覚えています・・・そして流石に米軍と言っていいのかどうかは分かりませんがクリスマスには私たち地元の者を招待してくれました・・・
そこで、私を含めた日本の子どもたちに何が行われたのかは記憶に無いのですが楽しかったような気もします・・・
何だか日頃夢を見ていたような記憶でしたが不思議でおかしな世界だったように思えます・・・
このこどもの国で孫や息子と遊ぶこと自体不思議な縁(えにし)のようなものを感じます・・・
2018年05月12日
こどもの国Ⅲ・・・南寮中寮北寮・・・
私の子供の頃の記憶には奈良町に南寮(なんりょう)と北寮(ほくりょう)と言う長屋がありました・・・長屋と言いましたが宿舎ですね・・・
南寮には私の同級生も住んでいまして訪れた記憶もありますが、当時は南寮も北寮も朝鮮族の人々が多く住んで居たようです・・・
両寮とも戦後は確かに朝鮮族の人々が住んで居たようですが、戦前の田奈部隊時代には弾薬廠で従事する人たちの寮だったようです・・・
北寮の人たちとの係わりはあまり記憶にありませんが、当時、この陸軍病院の長屋に引っ越してすぐに、誰かとつるんだのかは不明ですが朝鮮族の子どもを苛めたようで、その子の親が猛烈に怒り、私は近くの防空壕に避難しました・・・
その後私はこの地図にある「杉山神社」下に住みました・・・今の恩田駅辺りでしょうか?・・・ここでの記憶も強烈に残っています・・・
南寮や北寮そして中寮までありますが・・・ここは朝鮮族のお方たちの住む長屋だとずっと思ってきましたが、「田奈部隊弾薬弾薬廠」だった頃はここで従事する人たちの宿舎だったんですね・・・
南寮には私の同級生も住んでいまして訪れた記憶もありますが、当時は南寮も北寮も朝鮮族の人々が多く住んで居たようです・・・
両寮とも戦後は確かに朝鮮族の人々が住んで居たようですが、戦前の田奈部隊時代には弾薬廠で従事する人たちの寮だったようです・・・
北寮の人たちとの係わりはあまり記憶にありませんが、当時、この陸軍病院の長屋に引っ越してすぐに、誰かとつるんだのかは不明ですが朝鮮族の子どもを苛めたようで、その子の親が猛烈に怒り、私は近くの防空壕に避難しました・・・
その後私はこの地図にある「杉山神社」下に住みました・・・今の恩田駅辺りでしょうか?・・・ここでの記憶も強烈に残っています・・・
南寮や北寮そして中寮までありますが・・・ここは朝鮮族のお方たちの住む長屋だとずっと思ってきましたが、「田奈部隊弾薬弾薬廠」だった頃はここで従事する人たちの宿舎だったんですね・・・
2018年05月12日
こどもの国Ⅱ・・・
私は多分前にも投稿したと思いますが、この田奈部隊弾薬補給廠のすぐ前にあった陸軍病院に住んでいたのです・・・今から64~66年前のお話しです・・・その場所は私の飛び飛びの記憶の中に埋もれてしまったのですが、こどもの国前の駐車場になっています・・・
向かって右側が私の住んでいた「病院跡」・・・前に並んでいるのは当時同じ病院跡の長屋に住んでいた「小川さん」や「岩井さん」です・・・涎かけの一番小さいのが私・・・3~4歳頃です・・・
それは良いとして、左側に見える一帯が田奈部隊弾薬廠ですが、当時は米進駐軍の駐屯地でもありました・・・
上の写真から2~3年くらい経った頃でしょうか・・・私よりずっとお兄さんの岩井よしあきさんと写りました・・・
ここで、気になりますのは岩井さんや私ではなく遠くに見えるゲートです・・・今ではここ辺りが「こどもの国」入口になっていますがここは当時進駐軍の弾薬を運び込む列車の入り口だった記憶があります・・・
これが私の現「こどもの国」の前の病院跡地に住んでいたという事なんですが、どうした経緯でここに住むことになったのかは全く不明ですが、私の叔父が陸軍軍医だった事を考えますと、もしかして叔父に生かされたのかもって思う訳です・・・
因みに私が住んでいた部屋は手術室で、床がリノリュームと言う物質でした・・・その後も版画の材料でこのリノリュームを手にする度にこの住まいの事を思い出します・・・
向かって右側が私の住んでいた「病院跡」・・・前に並んでいるのは当時同じ病院跡の長屋に住んでいた「小川さん」や「岩井さん」です・・・涎かけの一番小さいのが私・・・3~4歳頃です・・・
それは良いとして、左側に見える一帯が田奈部隊弾薬廠ですが、当時は米進駐軍の駐屯地でもありました・・・
上の写真から2~3年くらい経った頃でしょうか・・・私よりずっとお兄さんの岩井よしあきさんと写りました・・・
ここで、気になりますのは岩井さんや私ではなく遠くに見えるゲートです・・・今ではここ辺りが「こどもの国」入口になっていますがここは当時進駐軍の弾薬を運び込む列車の入り口だった記憶があります・・・
これが私の現「こどもの国」の前の病院跡地に住んでいたという事なんですが、どうした経緯でここに住むことになったのかは全く不明ですが、私の叔父が陸軍軍医だった事を考えますと、もしかして叔父に生かされたのかもって思う訳です・・・
因みに私が住んでいた部屋は手術室で、床がリノリュームと言う物質でした・・・その後も版画の材料でこのリノリュームを手にする度にこの住まいの事を思い出します・・・
2018年05月11日
こどもの国・・・
GWで孫がやって来ました・・・孫は「アンパンマンミュージアム」に行きたいなどと言っていたらしいのですが同時にあのような人混みに連れて行くのもはばかられますから、熟考の末「こどもの国」へ行くことにしました・・・
結果は正解でした・・・孫は4歳でどこにそんなエネルギー源があるのかと思えるほど良く動き回ります・・・
ここ「こどもの国」は自分の力で動き回る遊具が多くて、動きの激しい孫にとっては最適だと思いました・・・
私の息子が孫を一心に撮影していますが、その息子が孫の年齢の頃もここに連れて来た事を思い出します・・・
その頃の息子も思いっ切り遊びましたっけ・・・
ここ「こどもの国」は70数余年前は日本陸軍田奈部隊の弾薬補給廠だった暗い歴史もあります・・・今でも子供たちの歓声が上がる敷地内に当時の弾薬庫跡が不気味な口を開けています・・・
弾薬補給廠だった頃はそれゆえの事故もあったそうです・・・
弾薬が暴発をして人馬が粉みじんになった事故や、補給廠に動員された横浜二中(現翠嵐高校)の学生がトラック毎川に転落して6名が亡くなった事故などがありました・・・
息子が孫を写していたあの中央広場は引き込み線の終着駅のひとつだった事が分かります・・・引き込み線は二本ありもう一本の引き込み線の駅はしばらく後まで残っていて私も目にしております・・・
こんな暗い歴史のある場所が今は子供たちの明るい声が響き渡る「こどもの国」になった事のギャップに何時も不思議に思います・・・
次はこの「こどもの国」の前で幼い頃を過ごした私の記憶をお話ししてみます・・・
結果は正解でした・・・孫は4歳でどこにそんなエネルギー源があるのかと思えるほど良く動き回ります・・・
ここ「こどもの国」は自分の力で動き回る遊具が多くて、動きの激しい孫にとっては最適だと思いました・・・
私の息子が孫を一心に撮影していますが、その息子が孫の年齢の頃もここに連れて来た事を思い出します・・・
その頃の息子も思いっ切り遊びましたっけ・・・
ここ「こどもの国」は70数余年前は日本陸軍田奈部隊の弾薬補給廠だった暗い歴史もあります・・・今でも子供たちの歓声が上がる敷地内に当時の弾薬庫跡が不気味な口を開けています・・・
弾薬補給廠だった頃はそれゆえの事故もあったそうです・・・
弾薬が暴発をして人馬が粉みじんになった事故や、補給廠に動員された横浜二中(現翠嵐高校)の学生がトラック毎川に転落して6名が亡くなった事故などがありました・・・
息子が孫を写していたあの中央広場は引き込み線の終着駅のひとつだった事が分かります・・・引き込み線は二本ありもう一本の引き込み線の駅はしばらく後まで残っていて私も目にしております・・・
こんな暗い歴史のある場所が今は子供たちの明るい声が響き渡る「こどもの国」になった事のギャップに何時も不思議に思います・・・
次はこの「こどもの国」の前で幼い頃を過ごした私の記憶をお話ししてみます・・・
2018年05月04日
牛筋カレー・・・
何度か作りました・・・今日はスーパーで買い物をしましたらたまたま見つけたのは「牛筋」でした・・・牛筋は圧力鍋で40分位煮込みますとプルプルコラーゲンの塊になります・・・今日は水分量を出来るだけカレールーの箱に書いてあるものに近づけました・・・
カレールーも手作りすれば良いのでしょうが、そこまで凝るにはちょっと予算的に無理がありますので、私は市販のルーを使います・・・
カレールーも色々な種類が出てますが、どのメーカーも自社の製品の味を最大限出せるようにレシピには工夫を凝らしていると聞きます・・・
確かに色々なメーカーのルーでカレーなりシチューなりを作っていますと、なるべくレシピ通りに作るのが良いように思います・・・
因みに私がこの仕事を始めて以来愛用しているのは「ZEPPIN」ですがより深い味を求める時は複数のメーカー品を混ぜて使うこともあります・・・
カレールーも手作りすれば良いのでしょうが、そこまで凝るにはちょっと予算的に無理がありますので、私は市販のルーを使います・・・
カレールーも色々な種類が出てますが、どのメーカーも自社の製品の味を最大限出せるようにレシピには工夫を凝らしていると聞きます・・・
確かに色々なメーカーのルーでカレーなりシチューなりを作っていますと、なるべくレシピ通りに作るのが良いように思います・・・
因みに私がこの仕事を始めて以来愛用しているのは「ZEPPIN」ですがより深い味を求める時は複数のメーカー品を混ぜて使うこともあります・・・
2018年05月01日
ある景色・・・
夜勤の職場に着いてちょっと時間がありましたので横浜が一望できるお気に入りの場所でしばし楽しみました・・・そこに二人職人風の男性があれはランドマークだよ、いやーあそこにランドマークタワーがある訳ないよ・・・それじゃー何だろうかと色々と話していましたが・・・私がこの写真を撮っているのを見て「あれ、何ですか?」・・・気さくに聞いて来られました・・・
このもうちょっと右の方の事なんですが、私に取りましても、その辺りは20数余年も勤めた場所ですので、スラスラと教える事が出来ました・・・
あの赤い電球が点滅しているのは、「磯子の火力発電所ですよ」・・・ああ!なるほどとお二人・・・
二人の一人があれがランドマークタワーかと思ったよって・・・もう一人がだからそんなはずないって言ったろう?・・・
もう一人の人があの明かるい場所は何?・・・ああ、あれは岡村公園の野球場ですね・・・きっとナイターで草野球でもしてるんでしょうね・・・前の職場で良くその岡村公園で野球をしましたっけ・・・
手前のあの森は何?・・・あれは弘明寺公園の森ですよ・・・ああー!!なるほどねと確かにと!!彼はスマホの地図を見ながら言ってました・・・
偶然出会った二人ですが、何やら心楽しくなりました・・・昔勤めた辺りの事をしっかりと確認できて人様に教えられたって事が心楽しくなった原因かなとも思います・・・
このもうちょっと右の方の事なんですが、私に取りましても、その辺りは20数余年も勤めた場所ですので、スラスラと教える事が出来ました・・・
あの赤い電球が点滅しているのは、「磯子の火力発電所ですよ」・・・ああ!なるほどとお二人・・・
二人の一人があれがランドマークタワーかと思ったよって・・・もう一人がだからそんなはずないって言ったろう?・・・
もう一人の人があの明かるい場所は何?・・・ああ、あれは岡村公園の野球場ですね・・・きっとナイターで草野球でもしてるんでしょうね・・・前の職場で良くその岡村公園で野球をしましたっけ・・・
手前のあの森は何?・・・あれは弘明寺公園の森ですよ・・・ああー!!なるほどねと確かにと!!彼はスマホの地図を見ながら言ってました・・・
偶然出会った二人ですが、何やら心楽しくなりました・・・昔勤めた辺りの事をしっかりと確認できて人様に教えられたって事が心楽しくなった原因かなとも思います・・・