2006年11月19日

吉田新田物語3

前回は吉田新田生みの親「吉田勘兵衛」のことについて述べましたが、今回はもう少し、埋め立て前の入海について、述べたいと思います。吉田新田物語3



この古地図は、いくぶんデフォルメされていますが、埋め立て前の入海を取り巻く地域のようすが良く分かります。特に周囲に書き込まれた小さい記述に発見があります。この古地図は関東大震災や戦災をかいくぐった、貴重なものです。



入海の一番上、大岡川が入海に流れ込む辺りは、吉野町です。そして一番下には、何回か紹介しました「州干島」の砂州です。





まずは野毛村(現、野毛町)です。この野毛村から横浜村や中村などへ渡し船が出ていたそうですが今、それを想像するのは難しいです。吉田新田物語3





















この野毛村の沖には「姥が岩」という、海中の奇岩があったようです。今の花咲町辺りです。吉田新田物語3上の図は中村です。そして、下が横浜村です。吉田新田物語3



横浜村へは、渡し舟が内海を通って盛んに出入りしている様子が分かります。やがて、内海の埋め立てに伴って、この州干島の根元を断ち切るように堀川が通されました。今の元町と中華街を隔てる運河です。

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Posted by shin344 at 15:53│Comments(4)歴史
この記事へのコメント
横浜が“村”だったという感覚がどうしてもつかめないんですが、渡し舟なんて通っていたんですね~。 
どんどん土地の形や大きさが時代と共に変わってきていて勉強になりますね。 沖縄も同じく、あちこち海を埋め立てて、面積がどんどん大きくなってきているようですが、これって、ちょっと残念だなって思います。 近代化するのはいいけど 沖縄の海やさんご礁が心配です。
Posted by Ziggy at 2006年11月22日 09:42
☆Ziggyさん。ありがとうございます。この「吉田新田物語」でどなたかにコメント頂けるとは、思っても見ませんでした。でも、折角の横浜密着型・・・ティーダブログの姉妹ですけれど・・・のブログですから、別にどなたもご覧にならなくても、好き勝手にマイペースでアップすることで、自分の知識が少しでも深まれば良いかなぁと思って始めましたが、やっぱりコメントは嬉しいですねー。そうなんですよね。この内海が埋め立てられずに、現代まで残っていましたら、白砂青松の観光地としてすごいことになっていたのでしょうね。天の橋立のように・・・でも、残す事と、違った意味での発展とは何か違った意味に思えますよね。沖縄の海・・・あの、どの街角にも転がっているような、素敵なサンゴの海を埋め立てるなんて、自然に対する冒涜だと思います。明日は吉田新田の現在の姿との対比して見たいと思います。
Posted by hamakko344(こと scemo) at 2006年11月22日 20:22
かん
Posted by at 2006年11月30日 17:56
横浜市史を拝見しますと掘割川は山手居留地のオールコック等英米蘭の圧力に屈しまた出島のごとく島状態にして異人の安全を図る意図が主体だったように見うけられます。南一つ目沼は沼というより今風にいえばかなり入江に近い状態で大潮などで海水に浸かって今の大岡川のように干満にさらされていたのだろうと思います。沼の名前が新鮮すぎますやはり横浜の息吹は江戸の昔からあったそんな薫りを感じます。
Posted by 荒井 at 2019年04月26日 23:30
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