2009年05月29日

若気のあじさい・・・

今日はもう梅雨に入ったと思えるような雨雨雨の一日でしたが、毎年気になる「あじさい」がそろそろと「我が世の梅雨」と、自己主張し始めました・・・心変わりをする前の、清らか(?)なあじさいの花々でした・・・

ほとんどつぼみですよね・・・咲き誇る準備中のような・・・


まだまだ、だけれど、これでも「額あじさい」です・・・



少~しはあじさいらしく・・・



ほんのりと色づいて来ましたね・・・あじさい本来の藍色です・・・



「虎の尾」と呼ばれるこれもあじさい・・・このあじさいは色が変わりません・・・




あじさいを女性詞とするならば、これは少女かな・・・







  


Posted by shin344 at 21:16Comments(2)日記

2009年05月23日

ディスプレーが酔っ払った・・・

昨夜、PCを起動させた途端に、ディスプレーの画面が、真っ赤っかになってしまいました。多分デイスプレーの寿命、そして真っ赤っかの画面を見ていると、闘牛士に苛つかされる牛のように頭から突っ込みたい衝動にかられますから、あっさりと酔っ払ったディスプレーにはお役御免を言い渡しました。


思えば息子が大学に入るので、息子の為に購入しましたから、そろそろ10年間になろうとしています・・・良く働いたもんです。

新しいディスプレーを購入して来ましたが、北朝鮮の研究室にあるような、どでかいものに替わって、スリムな液晶にしました・・・  


Posted by shin344 at 15:12Comments(2)日記

2009年05月22日

廓(くるわ)の証拠・・・

横浜橋、真金町界隈は、戦前まで廓と称する遊郭が沢山あったそうです。開港当時には今の横浜スタジアムのある横浜公園の場所にありましたが、慶応の大火事(豚屋火事)で燃えてしまい、高島町へ移り、その後この界隈になったそうですよ・・・

これが遊郭の建物という訳ではありませんが、そんな雰囲気を残す建物ですね・・・


笑点の司会者「桂 歌丸」さんの実家も真金町界隈の遊郭だったそうですから、その関係かも知れませんが、横浜橋通り商店街裏の八幡神社に桂 歌丸さんの寄進した証拠が残っていました・・・


関東大震災の復興を祈願した石碑がこの神社の境内に残っていましたが、「廓諸職奉納・・・大正13年云々」と読み取れました・・・この八幡神社は、横浜公園に「港崎(みよざき)遊郭」として出来た際に建立されたらしいですので、この遊郭街が転々としたように、転々とここまで来たのでしょうね・・・  


Posted by shin344 at 17:55Comments(0)横浜今昔物語

2009年05月22日

シベリア・・・

桜木町「コティベーカリー」のシベリアです・・・カステラの間に羊羹が挟まっています。何とも面白い食べ物ですが、私は子どもの頃から好きでしたよ・・・

何で「シベリア」と言うのか、前にアップさせたことがあるんですが、蓮花師匠から「ツンドラ」だからと、思わずギャハハ・・・と笑ってしまうような絶妙なお答えを頂きましたっけ・・・カステラと羊羹を積み上げているから?


ところで、コティベーカリーの店主さんが、おずおずとこんなメモをくれました。NHK総合テレビ「ゆうどきネットワーク」5月25日4時50分から6時までで「芝田山親方のごっつぁんスイート」にこのお店のこの「シベリア」が紹介されるそうですよ・・・大阪と宮崎を除く全国放送って言うからすごい!!・・・face08  


Posted by shin344 at 17:31Comments(4)日記

2009年05月21日

こ、近藤 勇のお墓!!??・・・

ここは、横浜市西区の勧行寺・・・参道を旧東海道が横切っているという「誠」に変わったお寺です。ふらっと立ち寄った境内に、な、なんと、新撰組鬼局長、近藤 勇のお墓が・・・


「近藤先生の墓」と、後ろのダンダラは新撰組の隊旗・・・これは間違いない!・・・と思って、年号を見ると、「天保○年」とうっすら読み取れます。これはおかしいと思って調べましたら、このお墓、天然理心流の流祖「近藤内蔵之助長裕(こんどうくらのすけながひろ)」のお墓だそうです。近藤 勇はこの人から四代目なんだそうですが、それでは一体あのダンダラの隊旗は何だったのでしょうか?・・・面白いっちゃ面白いです・・・face03
  


Posted by shin344 at 18:02Comments(0)横浜今昔物語

2009年05月17日

横浜そごうの不思議空間・・・

そごう10階のレストラン街のエントランスで見つけましたよ・・・



これは、全部自然の木々です・・・このフロアーの「銀座アスター」で食事をしましたが、本当に美味しかったです・・・中華街などにお連れするより、ここの方が余程美味しい料理が堪能出来ますね・・・  


Posted by shin344 at 22:26Comments(2)日記

2009年05月15日

象の鼻パーク・・・

新しくなった象の鼻パークの遊歩道を歩いて来ましたが、何だか、象の鼻の変貌が激しすぎて、一目で嫌いになりました。以前のようにもうすっかり忘れられて、あれが「象の鼻」の跡だなんて、余程気を付けないと分からなかった時の方が、とても好きでした・・・




これは2007年のまだ工事に取り掛かった頃の「象の鼻」です・・・

そして、今日の完成成った、「象の鼻」です・・・往時の姿に近づけたようですが、はっきり言って作り過ぎ・・・あれ程、忘れ去られたように放置された象の鼻・・・それでも、横浜を愛する人は決して目を離せないそんな場所だったのに、これでは、単にイベントの盛り上げの為の厚化粧としか思えません・・・こんな姿にしてしまった横浜の情けない精神、がっかりです・・・icon11

この象の鼻、私にとっては心が和む場所だったんですが、もう二度と行きません・・・icon09


  


Posted by shin344 at 18:06Comments(0)横浜今昔物語

2009年05月15日

獅子頭共用栓・・・

横浜開港資料館の中庭に、この獅子頭共用栓がありました・・・横浜居留地に水道が敷設されたのは明治18年から20年と言うことです・・・

当時の水道は、今のように各家屋に蛇口があるものではなくて、路頭の共用栓から汲んで使う方式だったようですよ・・・この獅子頭共用栓は、当時イギリスのエンフィールド社から輸入された600基のうちのひとつだそうです。




そして、その水受けの溝は山手の坂道などに使われていたブラフ溝と言う石が使われています・・・外国人居留地のおかみさん達も、この共用栓から水を運んだのでしょうね・・・  


Posted by shin344 at 17:50Comments(0)横浜今昔物語

2009年05月14日

私が始まった場所・・・

この場所は、横浜のある児童施設の礼拝堂です・・・40数年前にここに勤めました。本当は音楽の授業がしたかったのですが、当時、立派な音楽の先生が居て、私の入る余地など全然ありませんでした・・・・

当時から全く変わっていない礼拝堂・・・毎日、礼拝に始まり礼拝で一日が終りました。私はクリスチャンではないのですけれど、ここでの日課が、私の原点と思えるようになりました・・・一番苦しくて、今思うと、悲しくて楽しい日々だったように思います・・・

礼拝堂の旧式の足踏みオルガンで賛美歌の伴奏をしたのも、良い思い出です・・・  


Posted by shin344 at 19:14Comments(2)日記

2009年05月13日

またもや煉瓦ゲット!!・・・

私の職場の直ぐ前は、旧横浜刑務所の跡地です・・・大正12年の関東大震災で倒壊して以来、今の港南区笹下の地に移りました。私の職場自体がこの旧横浜刑務所と大いに関連性がある事もあり、この刑務所跡地に残る煉瓦を蒐集するのが、何だか使命のひとつのように思って集めています・・・


根岸橋商店街入り口(旧横浜刑務所の正門があった場所です)脇の小さな中華料理屋さんの土地が更地になろうとしていました。朝の出勤時にふと見ますと、この煉瓦が、無造作に転がっているではありませんか・・・その時には人目があり過ぎますから、靴を泥だらけにしながら、ちょっと脇に移動させて、仕事で移動する際に再びそこへ行きますと、クレーン車がブンブン回っていましたが、クレーン車が後ろを向いた時、さっ!と持ち出しましたよ・・・


どうせ、そのまま、手をこまねいていましたら、更地に埋められる運命、工事現場の小石を拾った位の意識しかありませんが、これは「窃盗」なんでしょうか?

この煉瓦は桜の刻印があることから、当時小管刑務所で製造されたものだと思われます・・・桜も、一重のこの桜と八重桜があるんですよ。そして、もう一種、文字入りがあるそうですが、それはまだ手にして居りません・・・

  


Posted by shin344 at 18:45Comments(5)日記

2009年05月10日

アイスクリームの日・・・

この前アップした馬車道のお祭りは、実は5月9日が「アイスクリームの日」にちなんだ、イベントだったそうです・・・何でアイスクリームの日なのか?私が以前の記事で紐解いていました。開港当時の氷事情ですが、現代のように簡単に氷が手に入ることは無かったようです・・・私の子どもの頃のたった50年前ですら、氷屋さんから買っていた位ですから・・・アメリカのボストンから天然氷を喜望峰周りで輸入した高額の氷だったようです・・・それを見た、中川喜兵衛という人が、函館五稜郭の天然氷を商品化したそうです。これで、随分価格が下がったのでしょうけれど、まだまだ高嶺の花でだったと思いますよ。

そしてこの五稜郭からの天然氷でアイスクリームを作って日本で初めて売り出したのが町田房蔵と言う人・・・馬車道(常磐町5丁目)で明治2年5月9日だったそうですよ。ただし、こんな風にして生まれたアイスクリーム、今のように、簡単に手に入る訳でもないし、一般庶民が口に出来るような代物ではなかったのでしょうね・・・

画像は、谷戸坂下にあったヨコハマアイスワークスです・・・明治12年頃にやっとエーテル式の製氷技術で氷を作ることができるようになったそうです・・・

氷が超貴重品だった頃、冬の間に出来た氷を、保存しておいて、将軍家に献上する話しがありますが、石川県の方に「氷見」と言う地名、これもそれに関係するものと聞いた記憶があります・・・  


Posted by shin344 at 19:31Comments(0)横浜今昔物語

2009年05月09日

イセザキモール・・・

子どもの日を境にしてイセザキモールの横断幕がこんなに変わりましたよ・・・


「こどもの日」バージョンです・・・



今日はすでに「母の日」バージョンになっていました・・・  


Posted by shin344 at 18:45Comments(0)日記

2009年05月09日

馬車道のお祭り・・・

馬車道で、バザーのような、お祭りのような催しが行われていましたよ・・・人出もそれほどではないし、とっても心休まる時間でした・・・

ここは、旧正金銀行(現神奈川県立博物館)です。ここら辺から市営地下鉄関内駅辺りまでの馬車道の両側に、それぞれのお店が、ワゴンセールをしていました・・・それがまた、売り上げを競う訳でもないし、のんびりとお店の人も楽しんでいるような、雰囲気でとても良かったですね・・・


関内ホールの前では小さな路上ライブが行われていました・・・とても迫力のある良い声。楽しみました。


その歌声に触発されたので、近くのオーディオユニオンで、モーツァルトのCD・・・そして、日本のアイスクリーム発祥の地、「馬車道あいすくりん(もなか)」を頂きました・・・ただしお味は普通のアイスクリーム。ただ、ここから日本のアイスクリームが始まったという歴史の味付けでちょっと美味しかったですよ・・・


おお!馬の水飲み場があった!さすがに「馬車道」と言うことだけはあると感心してしまいましたが、説明書きには、大正6年に磯子区八幡橋の動物検疫所に置かれたものらしいです・・・別に馬車道のシンボルという訳でもないようです。あるレストランのレイアウトのひとつのようですよ・・・まぁ、いいか・・・face02  


Posted by shin344 at 18:39Comments(2)日記

2009年05月08日

ばかやろう!!!・・・

もの言わぬ 友にもの言えば

不公平だと いいそうだ

心で ものを言う お前は 

ばかやろうだと


枕頭の賛美歌

やつの愛唱歌だって?

違うぞ 飲み潰れたやつの

愛唱歌は 

「主よ御許に近づかん」だぞ


カラカラと乾きし音の

やつの骨

やつは やつでない

このカルシウムの塊に

何の意味があるのだ?

おい お前

これからは

俺の心に生きろ

俺が死ぬまでな

ばかやろうめ
  


Posted by shin344 at 22:33Comments(4)日記

2009年05月03日

横浜の不思議なもの・・・

何もかもが近代化された横浜ですが、小まめに歩きますと、結構こんな不思議なものが、あるんですよ・・・




これは、近代的なマンションかオフィス街に囲まれた一角にありました・・・レンガ積みは典型的なフランス積み・・・下の石はブラフ積み、ある商館の壁の一部です・・・その煉瓦は、小菅刑務所で作られたものらしいです・・・良く残っていたものです。



この大砲は、横浜の開港騒ぎの中、開港阻止派の佐久間象山たちが、この大砲を持って押し寄せたものの、結局、開港になってしまい、断腸の思いでこの地に埋めたとの事です・・・ここは、昔、シーベル・へグナー社があったところで、20年位前には、掘り出されたままのこの大砲が、ゴロゴロしていたのが思い出されます・・・  


Posted by shin344 at 22:08Comments(0)横浜今昔物語

2009年05月03日

フラワーフェスティバル・・・

日本大通りで行われている「フラワーフェスティバル」に行って来ました・・・私としましては、人込みが嫌なのですが、報道なんかで何となくそそられましたよ・・・



これは、横浜錦絵に描かれたペリー提督・・・この絵は、花びらを一枚一枚貼り付けて作られていますよ・・・緑の部分は、ヒバの葉っぱと、色つきの砂の部分もありますが見事なものですね・・・

観に行くまではちょっと、そんな訳で躊躇しましたけれど、行って見て良かったですね・・・やっぱり何でもライブは良いなぁーー・・・


これは、やはり横浜錦絵の洋館の様子でしょうか?この三角屋根はもしかしたら、グランドホテルなのかなぁー・・・心がほんわかした一瞬でしたよ・・・  


Posted by shin344 at 19:10Comments(0)日記

2009年05月02日

湧き水再び・・・

この前、黄金橋の近くで偶然にこんこんとした湧き水を発見して、随分驚きましたが、今日は、打越橋の近くの湧き水を訪ねて見ました・・・

この湧き水の存在は以前から知っていました。20年近く前には、良くタクシーの運転手さんが、水分補給をしていましたし、ウイスキーの水割りとか、料理で使うなどと、タンクに詰めて水を汲んで行く人を見かけましたが、やはり、保健所あたりから、注意があったんでしょうね、「飲まないで下さい」と注意書きがありました・・・

それでも、後から来たお婆さんがペットボトルで汲んでゴクゴクと飲んでました。豪快でしたね・・・

この湧き水も、横浜港から出航する船に積まれたり、関東大震災や、横浜空襲の際にも貴重な飲料水として市民の命を救ったそうです・・・それでこの湧き水「霊泉」と言うありがたい名前を貰ったようですよ・・・  


Posted by shin344 at 17:52Comments(0)横浜今昔物語

2009年05月02日

再び「平子氏」・・・

以前、鎌倉時代に、磯子やら、中区、南区など久良岐(くらき)郡を掌握していた「平子(たいらこ)氏」のことを、Danbeさんの記事を基に、調べて記事にしたことがありますが、あれから、ずっと気になっていました。その時は、福井県や、山口県辺りまで勢力を伸ばした豪族でしたけれど、本家のあった横浜には、平子氏を偲ぶのは、わずかに地名として「平楽(へいらく)」が残るのみ・・と言うところまでで終ったようでした・・・

最初は、南区堀の内にある「宝生寺」が平子氏の菩提寺かと思いきや、この磯子区浜近くにある「真照寺」が菩提寺だったようです・・・もちろん宝生寺も何らかの関係はあったと思いますが、真照寺には、寺内にちゃんと、平子氏との由来が書いてありましたよ・・・

そして両方のお寺に共通するのは、近くに物見台に使えそうな、見晴らしの良い丘があることでした・・・

平子氏を偲ぶ、平楽の地もやはり、こんなに見晴らしの良い場所でしたし、戦国武将としては、何時なんどき敵の侵入があっても良いように、見晴らしの良い場所を陣取ったことは想像に難くありません・・・

平楽から、見渡せる、市街地、江戸時代の始め頃に埋め立てられるまでは、風光明媚な内海でしたから、本当に絶景だったんですね・・・

平楽中学校の真ん前にありました、「赤塚」と言う石碑と由来の碑によりますと、一帯を支配していた平子氏が葬られた塚があったらしいです・・・この石碑の建つ土地の持ち主も「赤塚」さんだそうですよ。はっきり残っていましたよ、平子氏の痕跡が・・・

横浜橋通り商店街からえっちらおっちらと平楽まで登った甲斐がありましたさ・・・・icon16  


Posted by shin344 at 17:32Comments(6)横浜今昔物語

2009年05月01日

安藤橋・・・

聞いた事もない橋ですが、磯子の「間坂」にあるんですよ・・・いや、「あった」と言うんでしょう・・・磯子の駅に行く途中には、バス停の名前にもなっている「芦名(あしな)橋」というのはありますけれど。


この「安藤橋」、明治の終わりから、大正14年にかけての大工事の末に造られた水路の橋だそうですよ・・・


今は、このような、通路になっていますが、ここが水路だったようです。この両サイドに安藤橋がありました。安藤橋の名前の由来は、この大工事をしたのが、当時の安藤組(現、安藤建設)だったからだそうですよ・・・誰(たれ)ぞ知るか安藤橋・・・top_01  


Posted by shin344 at 21:58Comments(4)横浜今昔物語

2009年05月01日

愛・・・

私には一人息子が居りますが、彼が母親のお腹にいる頃、もしも女の子だったら、絶対に「愛」と名付けようと思っていましたよ。「愛」の言葉って実は、日本人にとってはとても、照れ臭いものだと思うんです・・・「愛してるよ」なんて恋人同士はささやきあいますけれどね・・・

私が子どもの頃、そう昭和20年後半から30年にかけて、「愛市の花」と称して、横浜市の花、「バラ」の造花を小学生の私の胸に着けさせられたのを思い出しますが、多感な頃とて「愛市」が「愛し」と思い、とても嬉し恥ずかしい思いをしましたよ・・・icon06

昭和の時代でもそうなのに、直江兼継が、愛の一字の兜で戦場に望んだなんて、もっと信じられません・・・西郷隆盛も「敬天愛人」と言って居ますけれど、「愛」と言うのは昔、もしかして、違う意味で捉えられていたのかも知れないと思いました・・・あくまでも独言と言うことで・・・ハイface03  


Posted by shin344 at 20:20Comments(2)日記