2008年06月28日

To横濱 100years ago・・・不動坂

横浜市営バス21系統には、根岸から旭台、根岸森林公園に至る経路がありますが、この不動坂の上下にはちゃんと、「不動坂下」「不動坂上」のそのものズバリの停留所名が残っています・・・


この風光明媚な100年前の不動坂は、外国人居留民達のかっこうの遊歩道だったようです・・・遠く本牧岬が眺望出来ますが、現在は周辺の海が埋め立てられて工場などの用地になっています。


現在の不動坂です・・・かつての風光明媚は全く失われていますが、この坂の上は高級住宅や、ドルフィンなどの有名レストランがあって、かつての眺望を彷彿とさせています・・・  


Posted by shin344 at 13:23Comments(0)横浜今昔物語

2008年06月26日

To横濱 100years ago・・・居留地20番地

横浜には、これまで紹介しましたように、何となく100年~150年前の雰囲気が残っている場所もあるんですが、地番のみにその痕跡を感じられる場所があります・・・それはここ・・・




明治10年代の外国人居留地20番地「グランドホテル」です。当時はこのホテルの直ぐ前までが海岸で、潮干狩りなどが盛んに行われたようですよ。潮干狩りの様子は後で紹介しますね・・・
そして、ここが元グランドホテルのあった場所をほぼ100年前と同じアングルから撮影しました・・・正面に見えるのは、「横浜人形の家」と言いまして、旅行家「兼高かおる」が、世界中から集めたと言う人形たちが、展示されています。それで、この人形の家の住所は山下町20番地、横浜は、外観は変わっても、地番はそのまま残っていますので、それを頼りに昔の様子を訪ねることができます・・・かろうじて昔の面影といいますと脇を流れる中村川(開港後に横浜村と外国人居留地を分けるために掘られた運河です)くらいなものでしょうか。そして人形の家ビルに描かれたイメージはこの場所にあった、グランドホテルのイメージでしょうか・・・船


そして、このグランドホテル前辺の海岸で潮干狩りをする人々です。撮影は、おそらく上のグランドホテルと同じ日時の撮影かと思われます。前方に見える桟橋は、フランス波止場と呼ばれていましたが、今は山下公園の中に呑み込まれた?のでしょうね・・・一番手前の女性がよいしょ!と海岸から上がった辺りに、マリンタワーがそびえ立っていると言った位置関係ですイカリ

大正12年の関東大震災で大量に出た瓦礫を、上の写真で人々が潮干狩りをしている海に埋め立ててその上に出来たのが「山下公園」です。この写真の太い街路樹のある辺りと歩道の右側一帯が山下公園です・・・潮干狩りの海岸は確実にこの公園の下にあったはずですが、あの潮干狩りをしていた人々・・・楽しみより生活の為の潮干狩りのような感じを受けますけれど・・・何処へ行ってしまったのでしょうね。  


Posted by shin344 at 14:50Comments(0)

2008年06月23日

To横濱 100years ago・・・前田橋龍舞行列

元町は、横浜村が開港により外国人居留地になってしまったので、村民は強制的にこの元町の地に移住させられたようです。元町(本村・本村)と言う地名に自分達の父祖の地を追われた悲しみと横浜村民のプライドを感じます。

この元町と中華街を結ぶ前田橋ですが、「龍舞」と言うのは、日本古来のものなのか、中華街の「龍舞」が繰り出したものかは分かりませんが、どちらにしても横浜村民が自費で埋め立てた「横浜新田」の地に中国人が移住し、元町の地に移住させられた横浜村村民、その双方を結ぶ前田橋の「龍舞行列」に何か深い因縁を感じてしまいます・・・


現代の前田橋・・・元町と中華街はそれぞれご存知「横浜の顔」的存在で発展しました。もう、この前田橋からは、有機的な臭いを感じる事はほとんどありません・・・  


Posted by shin344 at 17:52Comments(0)横浜今昔物語

2008年06月22日

晩酌の友なんですが・・・

最近、「毎晩酌」を「休日前晩酌」に限りました・・・晩酌の友について、塩または味噌だけで充分なんですが、それでは、晩酌寿命が短いのでは・・・と悟りましたが、最近、休肝日を週2日よりも5~6日にした方が余計に晩酌寿命が延びるのでは?と考えた結果、「休日前晩酌」にしました・・・


その、貴重(?)な晩酌の友に今マイブームなのは、アサリの酒蒸しです・・・こんなに簡単にできて、こんな美味しいものがあったのかと、思わず開眼してしまいました。もっともアサリの命を奪う時にはちょっと心が痛みますが・・・このブームは直ぐに過ぎ去るのは目に見えていますけれどね・・face03  


Posted by shin344 at 19:39Comments(2)日記

2008年06月22日

To横濱 100years ago・・・吉浜橋Ⅱ

吉浜橋の掛かっていた川、今ではすっかり埋め立てられてしまいました。しかし、往時の痕跡がかすかに残っていました。

上の地図は明治24年発行の「横浜真景一覧図絵」です。吉浜橋を越えて直ぐ左側から直線で中華街へ行く道の入り口に今は「延平門」と言う中華街の門のひとつがあります。そして、現在はこの「延平門」へ直で繋がっています。



そして、これが、吉浜橋の横浜スタジアム側の橋梁跡です。護岸と共にしっかりと残っていました。40年前、近くの港中学へ卓球の試合をした時や石川町駅から中華街へ向かう時、吉浜橋を越えて行ったのをはっきりと覚えています。何が建設されるのかは分かりませんが是非残して欲しいですね・・・ベイブリッジ  


Posted by shin344 at 10:53Comments(2)横浜今昔物語

2008年06月21日

コウ子とシン子の近況・・・

職場で飼っている「亀」2匹3回目の夏を迎えました・・・お世話をする人の名前をもらって「コウ子」と「シン子」です・・・もっとも「シン子」の名付け親は、何が気に入らないのかプイッ居なくなりましたものの、シン子去って名を残しました・・・この2匹の亀、仲が良いのか悪いのかさっぱり分かりません・・・





こうやって、仲良く日向ぼっこをしているかと思えば、お互いに咬みつきあっていて、上の亀「コウ子」の尻尾など、半分になってしまいました・・・お前たちは「カミツキ亀」だったのか・・・  


Posted by shin344 at 13:40Comments(0)日記

2008年06月21日

To横濱 100years ago・・・地蔵坂

山手から、元町方面に降りる坂は数本ありますが、その中の一本「地蔵坂」です・・・坂の何処かにお地蔵さんでもあったのでしょうかね・・・

手押し車のようなもので登って来る人、横に立ってじっと観ている人、どんな人生を送ったのでしょうね・・・明治中期の画像です・・・


そして、現在の「地蔵坂」です。多少拡張されたり、整備されたのでしょうが、ほぼ、その頃の雰囲気がそのままに残っている・・・何だか横浜の魅力はそれに尽きるように思えて来ています・・・

  


Posted by shin344 at 13:25Comments(0)横浜今昔物語

2008年06月18日

To横濱 100years ago・・・吉浜橋

今、夢中になって「横浜今昔」をアップしていますが、新しい遊びを見つけた子どもみたいなものと、ご笑覧下さい・・・face04
吉浜橋から山手を望む明治中期の画像です・・・中央の一段と立派な建物は、フェリス学院(現フェリス学院大学)です・・・


画像左側の三角屋根が並んでいるのは、石炭場と古地図には載っています。横浜製鉄所用地として使われて居た場所なので何か関連性はあるんでしょうね・・・この川は「派大岡川」とも呼ばれ、今は地名でしか残っていませんが、この吉浜橋、花園橋、吉田橋(伊勢佐木モール入り口)、湊橋、豊国橋、柳橋の橋で関内と通じていました。





ほぼ同じ場所から山手を望みました。吉浜橋などが機能した川は、昭和50年頃までは運河として残っていましたが今は、埋め立てられてしまいました。川の痕跡はまったく無くなりましたが、丁度今、川の跡地が工事中で幸いな事に、護岸の石組みを見ることが出来ました・・・前方山手のフェリス学院大学も高速道路に隠されて、屋上階がかろうじて見えています・・・  


Posted by shin344 at 10:58Comments(0)横浜今昔物語

2008年06月16日

To横濱 100years ago・・・中華街

よこはまクイズに「中華街の家並みや道路は何故斜めなの?」というのがありました。答えは、開港当時、欧米の貿易商たちと日本人の間で通訳をしたり、為替の仕事に携わった「買弁(ばいべん)」と呼ばれる中国人たちを、横浜村の人々が村の耕地面積を広げるため自主的に埋め立てた「横浜新田」の場所に住まわせたという事です。はっきりした理由は分からないのですが、横浜新田の畦道の沿った区割りをそのまま中国人居留地にしたらしいです・・・



中華街165番地付近の画像です・・・右側の通りの右端が西欧人の建物に対して、真ん中の家並みからは中国人の建物になっているように見えましたので、そういう場所を探した結果・・・・




この場所に行き当たりました・・・右端の建物、今はホリディ・イン・ヨコハマになっています。当時の中国人居留地では、今のように料理店の町ではなく、海産物や砂糖の貿易商、両替商、ピアノ店などさまざまな商売の建物が多かったそうです・・・  


Posted by shin344 at 11:37Comments(2)横浜今昔物語

2008年06月15日

あさりの酒蒸し・・・

近くのデパートへ買物に行きましたら、たっぷりの熊本県産のあさりを売っていました・・・イタリア人でしたら「ボンゴレ」なんて発想になるのかも知れませんが、私の脳裏にまず浮かんだのは「あさりの酒蒸し」だけでした・・・

お昼は、この同じデパートにある「布屋太兵衛」で、極太の藪蕎麦を頂きました・・・あえて天婦羅などは付けずにするするっとすする蕎麦の美味しさ・・・ああ!日本人で良かった・・・残した付け汁が、惜しくてお店と交渉しましたが、お持ち帰りはダメでした・・・まぁ、衛生上の事もあるんで仕方がないのでしょうね・・・


その「あさりの酒蒸し」です。実は今まで飲み屋さんでしか食べたことないんですよ・・・今日は思いがけなくアサリがたっぷりと手に入りましたので、上等の日本酒と、アルペンザルツだけの味付けで自家製を決め込みましたが、旨い!・・・その一言でした・・・  


Posted by shin344 at 21:18Comments(2)日記

2008年06月15日

To横濱 100years ago・・・開港記念会館Ⅱ

昨日アップした開港記念会館(旧横浜町会所)にもう少し近づいて見ました・・・上の画像は明治中期の町会所ですが、現在の開港記念会館(ジャックの塔の愛称があります)は大正6年に立て替えられ(一説によると開港50周年を記念して市民の寄付で新たに建てられたとありますが)、関東大震災でも一部崩壊、戦災にも生き残りました・・・


「雪の日の本町通り」・・・現開港記念会館付近のタイトルが付けられています(明治中期)




現在の開港記念会館です・・・雪の日ならず初夏の本町通り・・・  


Posted by shin344 at 18:55Comments(2)横浜今昔物語

2008年06月14日

To横濱 100years ago・・・開港記念会館Ⅰ

横浜は江戸時代には「横浜村」という村民人口120名程の一寒村でした。それが幕末の開港により、貿易などを生業にする外国人、そしてその外国人などと商いをする日本人が集まり爆発的に発展して来ました。そして、関東大震災の壊滅的な被害や、戦災を経て現在の横浜がさらに発展し姿形を変えながら存在します。大きく変貌したこの横浜ですが、良く観察していますと、町割りや、100年ほど前の横浜の雰囲気が沢山残っています。100年~150年昔の画像を開港資料館からお借りして、良く良く観察しますと、思い切り変わってしまった場所もありますし、ここから見る景色はこうだったのかなどと腑に落ちる場所もあります。私の大好きな横浜の変貌を、現代の写真と比較して、横浜の本当の魅力を少しづつ見たいと思います・・・


明治中期頃の本町通りです。左の建物は生糸検査場、右側の大きな建物は逓信局(現みなと郵便局)です。そして奥の方、塔のような建物が見えますが、これは、横浜町会所(建物は変わっていますが、現開港記念会館)です。
そして、現代のほぼ同じ場所からの画像です。ちょっと見え難いのですが、奥の方に煉瓦造りの開港記念会館(旧町会所)が見えますか?左側の生糸検査所のあった辺りは、情報文化センター、右側の建物は「みなと郵便局」(旧逓信局)です。町会所などは明治時代では大きな建物で何処からでも見えたのでしょうけれど、現代の建物は、もう明治時代の建物の大きさを簡単に凌駕していることが分かります・・・これからの撮影もそういう事を念頭に置かないと、苦労するかも知れませんね・・・  


Posted by shin344 at 19:14Comments(0)横浜今昔物語

2008年06月11日

紫陽花あってこその梅雨Ⅱ・・・

紫陽花の原種は日本だそうです。「ガクアジサイ」です・・・そのガクアジサイが西欧で品種改良されて逆輸入されたものが玉状になる「西洋紫陽花」・・・そして中学生の頃、「紫陽花はリトマス試験紙のようなものなんだよ」と教わったことを良く覚えています・・・



これが、原種の「ガクアジサイ」・・・ガクは額の字が当てはまりますが、周辺の花だけが開く様子が額のように見えるからと言われています。


そしてこれが「セイヨウアジサイ」です・・・こうして見ますと、私たちが紫陽花として愛でているのは、ほとんど「西洋紫陽花」だったんですね・・・梅雨の時期、これほど雨に合う花はないのでは、と思います・・・icon03  


Posted by shin344 at 12:00Comments(4)日記

2008年06月10日

何が悪いって?・・・

早速、評論家や、学者、メディアなどが、社会が悪いの、何が悪いの、秋葉原の多様化の問題だ、蜂の頭だと騒いでいましたが、結局は親が育て方を間違えていたんじゃないですか?親が有り余る愛情で子どもを育て、そして躾をする、そして、何時も親は子どもの心配をし、子どもが、どんなに苦境に陥っても常に味方である。親の生き様と死に様を子どもにありのままに見せる。どんな人間にもそういう親があり、子どもがあり家族がいる・・・そういう基本的なことが分かる子どもは、下らない理由で人を殺めるような、出来損ないの感情の欠片(かけら)もないロボットのような人間には決してなりませんから・・・それから、心配なのは、3日前までは、「K」と言う名前さえ知らなかったのに、一躍メディアを賑わしていること、これは、世界中の出来損ないのロボット共にはたまらない魅力だと思いますよ。お互いに気を付けましょう・・・

生きる事を突然に止めさせられた皆さんの冥福をただただお祈りするだけしか出来ません・・・

  


Posted by shin344 at 19:45Comments(4)日記

2008年06月09日

紫陽花あってこその梅雨Ⅰ・・・

事務所にほとんど顔を見せることのない調理職員が、裏庭でひっそりと咲いていた紫陽花を手折って、生けてくれました・・・嫌いな梅雨に入った今日この頃、蒸し暑さも、ビショビショの雨も紫陽花の「心(色)変わり」を楽しんでいるうちに乗り越えてしまえそうになるから不思議ですねー・・・



柏葉紫陽花(かしわばあじさい)です。葉が柏の葉に似ているのでそう呼ばれるそうです。そして花も別名「虎の尾」といわれるように長く延びます・・・私はこれが紫陽花の仲間だとは思っても見ませんでしたよ


本当にシンプルな紫陽花です・・・道端の植木鉢で、ひっそりと咲いていました・・・  


Posted by shin344 at 17:06Comments(0)日記

2008年06月09日

いいえ・・・


「いいえ」などの否定は韓国語では「아닙니다・・・アニムニダ」と「아니에요・・・アニエヨ」が使われますが、아닙니다の方がフォーマルです。아니요・・・アニヨは「いいえ、~~です」と言うように後半に何か捕捉説明する時に使われる事が多いようです。

例えばこんな風に使うのかな・・・(이 사람은 당신의 연인입니까? )(아니요, 나의 형님입니다.)・・(この人はあなたの恋人ですか?)(いいえ、私の兄さんです)

ダジャレですが分かりましたか?「いいえ、私の兄よ(アニヨ)」。そろそろ暑くなるので寒~いお見舞いです・・・face07  


Posted by shin344 at 16:35Comments(2)韓国語

2008年06月07日

掃き溜めにスワン・・・

干潮になって水量が減ると、メタンガスがボコボコと湧き上がってくるような「中村川」ですが、そのような川をものともせずに、悠然と泳ぐ白鳥発見・・・



とっさのことにピンボケしてしまいましたが、確かにスワンです・・・掃き溜めに鶴と言う例えがありますが、私の頭をよぎったのは、「掃き溜めにスワン」という言葉と、サン・サーンス「白鳥」のチェロのメロディー・・・  


Posted by shin344 at 13:23Comments(4)日記

2008年06月06日

To 横濱 100 years ago・・・

雨のそぼ降る中、根岸方面で会合がありました。とぼとぼと、水もしたたる良い(?)ジジイになりながら、この場所を通りました・・・・

約100年前の堀割川です。今は全く面影はありませんが、100年前は川の沿岸に桜が植えられて、観光名所にもなっていたようです。前方の橋は「根岸橋」・・・この橋を越えた対岸は、旧横浜刑務所の正面ゲート(現根岸橋商店街入り口)だったので、この橋は別名「監獄橋」と呼称されたそうです。


100年経った同じ場所です・・・旧横浜刑務所は、大正12年の関東大震災で倒壊して以来、今の港南区笹下に移りました。あの帆かけ舟や、行きかう人々、今は一体何処にいるんでしょうか?なんて感傷にふけりたくなります・・・  


Posted by shin344 at 20:14Comments(3)日記

2008年06月03日

ルビー・・・

自然の宝石です・・・



子どもの頃、ポケットや給食袋一杯にして持って帰りました・・・グミやら、桑の実やら、野苺や、そしてこれは、「スグリ」です・・・生命力の強い植物で、切り取って挿し木にしても直ぐに根付きます・・・この「スグリ」もそうなんです・・・  


Posted by shin344 at 21:28Comments(0)日記