2012年06月03日
オッピキ ヒヤリコ トットットⅡ・・・
今日、NHKの「陽だまりの樹」を観ていましたら、前日更新しました「野毛節」が「農兵節」として紹介されていました。
♪富士の白雪ゃ ノーエ
富士の白雪ゃ ノーエ という唄です・・・ノーエは「農兵」という事でした・・・文献によりますと、野毛節が元になったとか、番組で江川太郎左衛門が採用したとか紹介されていましたが、何か色々とあるようですね・・・
ところで「陽だまりの樹」ですが、結構楽しんで観ています。その昔、手塚治氏が手がけた同名の漫画(確かビックコミックだったか・・・)を楽しんだ世代として、伊武谷万次郎のイメージは残っているのですが、その伊武谷役を演じている市原隼人君の演技でどうしても気になるところは、お辞儀の仕方(ゆっくりし過ぎ)・・・感情表し方、どうも納得が行きません・・・ルーキーズで素敵な現代青年役をしていただけにちょっとミスキャストかな・・・
と、話しが大いにそれてしまいましたが、画像は、前の画像がイギリス隊(赤隊)に対して、これはフランス隊(青隊)です・・・
♪富士の白雪ゃ ノーエ
富士の白雪ゃ ノーエ という唄です・・・ノーエは「農兵」という事でした・・・文献によりますと、野毛節が元になったとか、番組で江川太郎左衛門が採用したとか紹介されていましたが、何か色々とあるようですね・・・
ところで「陽だまりの樹」ですが、結構楽しんで観ています。その昔、手塚治氏が手がけた同名の漫画(確かビックコミックだったか・・・)を楽しんだ世代として、伊武谷万次郎のイメージは残っているのですが、その伊武谷役を演じている市原隼人君の演技でどうしても気になるところは、お辞儀の仕方(ゆっくりし過ぎ)・・・感情表し方、どうも納得が行きません・・・ルーキーズで素敵な現代青年役をしていただけにちょっとミスキャストかな・・・
と、話しが大いにそれてしまいましたが、画像は、前の画像がイギリス隊(赤隊)に対して、これはフランス隊(青隊)です・・・
2012年06月02日
オッピキヒヤリコ トットット・・・
♪野毛の山から ノーエ
野毛の山から ノーエ
野毛の サイサイ 山から
異人館を見れば
お鉄砲かついで ノーエ
お鉄砲かついで ノーエ
お鉄砲 サイサイ
小隊進め
オッピキ ヒヤリコ ノーエ
オッピキ ヒヤリコ ノーエ
オッピキ サイサイ・・・
これは幕末の俗謡で、横浜の野毛山から、眼下に望むと外国人居留区とか外国人兵士の練兵とかが行われていました・・・
この「野毛節」の歌詞を見たとき、反射的にこの横浜錦絵が思い出されました。赤い服のイギリス部隊がフェントン指揮の鼓笛隊を先頭に行進しています。当時の日本人はこういう軍隊を鼓舞する音楽などおそらくあまり聴く機会もなかったでしょうからかなり、新鮮で力強い印象を与えたのでしょうね・・・
・・・オッピキヒヤリコ トットット・・・あの時代のこの鼓笛隊の行進、見物したかった。ちなみに赤い制服のこのイギリス部隊は「赤隊」、フランスの青い制服の軍隊は「青隊」と呼ばれたらしいです・・・
野毛の山から ノーエ
野毛の サイサイ 山から
異人館を見れば
お鉄砲かついで ノーエ
お鉄砲かついで ノーエ
お鉄砲 サイサイ
小隊進め
オッピキ ヒヤリコ ノーエ
オッピキ ヒヤリコ ノーエ
オッピキ サイサイ・・・
これは幕末の俗謡で、横浜の野毛山から、眼下に望むと外国人居留区とか外国人兵士の練兵とかが行われていました・・・
この「野毛節」の歌詞を見たとき、反射的にこの横浜錦絵が思い出されました。赤い服のイギリス部隊がフェントン指揮の鼓笛隊を先頭に行進しています。当時の日本人はこういう軍隊を鼓舞する音楽などおそらくあまり聴く機会もなかったでしょうからかなり、新鮮で力強い印象を与えたのでしょうね・・・
・・・オッピキヒヤリコ トットット・・・あの時代のこの鼓笛隊の行進、見物したかった。ちなみに赤い制服のこのイギリス部隊は「赤隊」、フランスの青い制服の軍隊は「青隊」と呼ばれたらしいです・・・
2009年11月22日
くらやみ坂・・・
西区戸部には、明治22年まで、監獄がありました。この戸部監獄は明治23年から、我が職場の前、根岸(現丸山)に移りました。戸部監獄には、処刑場もあり、ここ「くらやみ坂」の途中には首を晒したところもあり、大の男でも、中々寄り付かなかったと言う記録もあります・・・
今では住宅も建ち、鬱蒼とした処刑場近くの陰湿な感じなど、全くありません・・・
処刑場のあったと思われる場所、この「くらやみ坂」の碑銘が立つ場所にはこの通り、ちゃんと祠もあって、被処刑者の魂を祀ってあります・・・
この通り、ここが「くらやみ坂」との謂れを知らないで、通ったとしたら、横浜に普通に存在する坂、それだけで、記憶にも残らないものですが、私は、両側が鬱蒼とした昼直暗い文字通りの「暗闇坂」を想像して、通って見ましたら、何だか、鳥肌が立つような気分になりましたよ・・・
さらに、ここ戸部監獄で処刑された人のお墓がある、近くの願成寺に行って来ました・・・ここには・・・
清水清次と間宮一、そして、小亀・・・戸部監獄で処刑された人のお墓がありました・・・次に処刑された理由について詳しい墓銘板がありましたので、それを、お見せします・・・
殺す方にも殺されたイギリス士官にも家族はいたのでしょうね・・・
鳶の小亀(亀吉)って、どんな人だったのでしょうか、殺されたフランス水兵にも小亀にも家族は居たんでしょうけれど・・・
「くらやみ坂」、漢字にすると「暗闇坂」または「鞍止坂」とも言われるそうです・・・鞍止とは、この坂の下の方に、横浜の外国人居留地へ不逞の輩(攘夷浪人とか)が、入って来ない為の関門が設けられて居たからとも言われています・・・暗闇の方が五感に訴えてくる気がしますね・・・
今では住宅も建ち、鬱蒼とした処刑場近くの陰湿な感じなど、全くありません・・・
処刑場のあったと思われる場所、この「くらやみ坂」の碑銘が立つ場所にはこの通り、ちゃんと祠もあって、被処刑者の魂を祀ってあります・・・
この通り、ここが「くらやみ坂」との謂れを知らないで、通ったとしたら、横浜に普通に存在する坂、それだけで、記憶にも残らないものですが、私は、両側が鬱蒼とした昼直暗い文字通りの「暗闇坂」を想像して、通って見ましたら、何だか、鳥肌が立つような気分になりましたよ・・・
さらに、ここ戸部監獄で処刑された人のお墓がある、近くの願成寺に行って来ました・・・ここには・・・
清水清次と間宮一、そして、小亀・・・戸部監獄で処刑された人のお墓がありました・・・次に処刑された理由について詳しい墓銘板がありましたので、それを、お見せします・・・
殺す方にも殺されたイギリス士官にも家族はいたのでしょうね・・・
鳶の小亀(亀吉)って、どんな人だったのでしょうか、殺されたフランス水兵にも小亀にも家族は居たんでしょうけれど・・・
「くらやみ坂」、漢字にすると「暗闇坂」または「鞍止坂」とも言われるそうです・・・鞍止とは、この坂の下の方に、横浜の外国人居留地へ不逞の輩(攘夷浪人とか)が、入って来ない為の関門が設けられて居たからとも言われています・・・暗闇の方が五感に訴えてくる気がしますね・・・
2009年09月28日
James Favre-Brandt17・・・
James Favre-Brandtらしき写真を手に入れられて以来、その写真に写る人の特定に執念を持たれていられる信州在住の方からお便りを頂きました。その写真には、James Favre-Brandtらしき外国人の他に、ジョン(中浜)万次郎、大山巌など、幕末の立役者が写っているそうですが、ジョン万次郎と大山巌は本当に頭が下がるような方法で確定されたのです。そしてJames Favre-Brandtらしき外国人の特定を目的に、27日日曜日わざわざ横浜の私のところを訪ねて下さいました・・・
しかし、私はJames Favre-Brandtの人となりとか、親族がどうされたなどの事に腐心するあまり、彼の若い頃の写真はほとんど持っていませんし、James Favre-Brandtと言うとこの右の晩年の写真だけが頭を過ぎります・・・確定をされたくて信州からお出でになりましたのに、ほとんどお役に立たなかったと思います。その方は、私にその怪物のような写真を手渡して空しく信州に帰られましたが、これからは、このブログを通して知り合えたJames Favre-Brandtの子孫の方やPhilippe NEESERさんや、兄CharlesFavre-Brandtの子孫の方に打診してみようと思いますが、果たして・・・・若い頃の写真としてある書物の中にはスイス国会議事堂の前でのスイス修好使節団結成の記念として写されたもの、兄CharlesFavre-Brandtと一緒に写ったものがありますがいずれも書物が古くて印刷がかなり荒いのです・・・残念ながらその方や、他に写り込んでいられる方の子孫のご要望で公開は出来ませんが、新たな私のJames Favre-Brandt探索の航海が始まったような気分です・・・
しかし、私はJames Favre-Brandtの人となりとか、親族がどうされたなどの事に腐心するあまり、彼の若い頃の写真はほとんど持っていませんし、James Favre-Brandtと言うとこの右の晩年の写真だけが頭を過ぎります・・・確定をされたくて信州からお出でになりましたのに、ほとんどお役に立たなかったと思います。その方は、私にその怪物のような写真を手渡して空しく信州に帰られましたが、これからは、このブログを通して知り合えたJames Favre-Brandtの子孫の方やPhilippe NEESERさんや、兄CharlesFavre-Brandtの子孫の方に打診してみようと思いますが、果たして・・・・若い頃の写真としてある書物の中にはスイス国会議事堂の前でのスイス修好使節団結成の記念として写されたもの、兄CharlesFavre-Brandtと一緒に写ったものがありますがいずれも書物が古くて印刷がかなり荒いのです・・・残念ながらその方や、他に写り込んでいられる方の子孫のご要望で公開は出来ませんが、新たな私のJames Favre-Brandt探索の航海が始まったような気分です・・・
2009年09月04日
玉子の形・・・
「玉子型」・・・壊れにくい形(玉子のような薄い皮において)と物理学的には位置づけられるようですけれど・・・
そんな玉子型を見つけました・・・情報文化センターの庭です・・・これは、明治時代に敷設された下水管です。煉瓦を、積み上げて玉子型にして、周りをコンクリートで覆う、何かカマボコのような印象です・・・中下水道として使用されたらしいです・・・
James Favre-Brandtの商館からの生活用水も多分流された事でしょう・・・そういう意味で横浜今昔と位置付けます。見れば見るほど合理的に排水されるように思えます・・・
玉子型の偉大をこれを見ていると分かります・・・
そんな玉子型を見つけました・・・情報文化センターの庭です・・・これは、明治時代に敷設された下水管です。煉瓦を、積み上げて玉子型にして、周りをコンクリートで覆う、何かカマボコのような印象です・・・中下水道として使用されたらしいです・・・
James Favre-Brandtの商館からの生活用水も多分流された事でしょう・・・そういう意味で横浜今昔と位置付けます。見れば見るほど合理的に排水されるように思えます・・・
玉子型の偉大をこれを見ていると分かります・・・
2009年09月02日
関東大震災・・・
1923年9月1日正午頃、関東一円に大地震が発生しました。横浜も都市部は壊滅的な被害を受けました・・・そして、今、調べているJames Favre-Brandtの商館も灰燼となりました・・・当時馬込に住んでいた祖母の話しから・・・【①馬込の家の二階に眠っていた幼い私の父は目も覚まさずに熟睡していたらしい、大物になるよこの子はと祖母は思ったらしいが、後の父の人生から鑑みますと、怖くて気を失っていた?②大森近辺の朝鮮人たちが、日本人に追い立てられていたのか、逃げ惑っていた・・・彼等の民族服の白が目に焼きついている・・・】
燃える県庁舎です・・・大きな道は今の日本大通りで通りを越えた奥はイギリス公使館(現開港資料館)手前は、逓信省の建物ですが、すっかり崩れ去ってしまっています・・・
長崎大学付属図書館蔵
ほぼ、同じ角度から見た現在の県庁舎です・・・手前のビルは今でも港郵便局です・・・情文センタービル8階から撮影しました・・・
燃える正金銀行です・・・正金銀行は、現在神奈川県立歴史博物館になっています・・・
火の赤が妙に危機感を煽りますが、これは白黒の写真に彩色をしたものです・・・今のカラー写真よりむしろ、迫力はありますね・・・
長崎大学付属図書館蔵
現在の神奈川県立歴史博物館です・・・40年位前には神奈川県立博物館でした。そして当時楽器のセールスをしていた私のサボりの場所、隠れ場所でしたっけ・・・当時の雇い主さんゴメンナサイ・・・
そんな事はどうでも良いのですが・・・
9月1日は今でも「防災の日」として、各地で防災訓練などが盛んに行われていますが、関東地方及び日本国の何かが変わるような大事件のひとつでもあった訳です・・・
燃える県庁舎です・・・大きな道は今の日本大通りで通りを越えた奥はイギリス公使館(現開港資料館)手前は、逓信省の建物ですが、すっかり崩れ去ってしまっています・・・
長崎大学付属図書館蔵
ほぼ、同じ角度から見た現在の県庁舎です・・・手前のビルは今でも港郵便局です・・・情文センタービル8階から撮影しました・・・
燃える正金銀行です・・・正金銀行は、現在神奈川県立歴史博物館になっています・・・
火の赤が妙に危機感を煽りますが、これは白黒の写真に彩色をしたものです・・・今のカラー写真よりむしろ、迫力はありますね・・・
長崎大学付属図書館蔵
現在の神奈川県立歴史博物館です・・・40年位前には神奈川県立博物館でした。そして当時楽器のセールスをしていた私のサボりの場所、隠れ場所でしたっけ・・・当時の雇い主さんゴメンナサイ・・・
そんな事はどうでも良いのですが・・・
9月1日は今でも「防災の日」として、各地で防災訓練などが盛んに行われていますが、関東地方及び日本国の何かが変わるような大事件のひとつでもあった訳です・・・
2009年08月21日
マリンタワー・・・
リニューアルオープンしたマリンタワーに登って来ましたよ・・・むろん、利用者さんと一緒のプログラムです・・・「むろん」と言う訳は私個人では絶対に登る訳けがないからです・・・何故なら高所が嫌いだからです・・・高いところに登るのは○○と煙だけでぃ!!・・・まぁ、それは良いのですが、素晴らしい景色は堪能できました・・・
以前は、赤と白のダサいダンダラでしたけれど、メタルシルバーのとてもシックな姿に生まれ変わりました・・・
緑の森がこんもりした場所は、幕末の頃、フランス軍が進駐して、後にフランス領事館となった「フランス山」、そしてその森の更に先は、「港の見える丘公園」・・・イギリス領事館のあった場所です・・・そしてこの森の右側の公園は、アメリカ軍が進駐した「アメリカ公園」です・・・などと、見ているだけで、当時の様子が見えて来ます・・・
こちらは、みなとみらい地区です・・・あのランドマークタワーが出来る前のランドマーク(灯台)はここマリンタワーだったんです・・・
そして、氷川丸です・・・この氷川丸が係留されている山下公園は、関東大震災で大量に出来た瓦礫の山をここに埋め立てて出来ました・・・公園はロマンチックですが、この山下公園を掘り起こしたら、開港から大正12年前の貴重な遺物が沢山出て来るんでしょうね・・・そちらの方がロマンチックですけれど・・・
以前は、赤と白のダサいダンダラでしたけれど、メタルシルバーのとてもシックな姿に生まれ変わりました・・・
緑の森がこんもりした場所は、幕末の頃、フランス軍が進駐して、後にフランス領事館となった「フランス山」、そしてその森の更に先は、「港の見える丘公園」・・・イギリス領事館のあった場所です・・・そしてこの森の右側の公園は、アメリカ軍が進駐した「アメリカ公園」です・・・などと、見ているだけで、当時の様子が見えて来ます・・・
こちらは、みなとみらい地区です・・・あのランドマークタワーが出来る前のランドマーク(灯台)はここマリンタワーだったんです・・・
そして、氷川丸です・・・この氷川丸が係留されている山下公園は、関東大震災で大量に出来た瓦礫の山をここに埋め立てて出来ました・・・公園はロマンチックですが、この山下公園を掘り起こしたら、開港から大正12年前の貴重な遺物が沢山出て来るんでしょうね・・・そちらの方がロマンチックですけれど・・・
2009年08月11日
Favre-Brandt15・・・
【フランソワ・ペルゴ】と言う人のこと・・・・
司馬遼太郎氏の歴史小説「峠」では、主人公、長岡藩の奇才、河井継之助が横浜でスイス商人ファブル・ブラント(James Favre-Brandt)と逢いそして、永世中立の思想を学ぶことになっております。しかしながら、河井がもしも横浜のファブル・ブラントと逢ったと仮定しましても、河井が横浜遊学が出来た、したとすると、それは未だファブル・ブラントが横浜に来ていない時期ですし、困ったなぁと思っていたところ、かの時計コレクター&研究家の大川伸功氏より、フランソワ・ペルゴのお話しを聞きましてひらめきました・・・
フランソワ・ペルゴはJames Favre-Brandtに先立つこと3年前の1861年に横浜に来ており、James Favre-Brandtを含むスイス通商使節団(1863年来日)を迎え入れる準備をしたとの事です。河井が遊学していたのが、1859年~1861年位ですから、河井とフランソワ・ペルゴが逢える可能性はあった訳です。しかもフランソワ・ペルゴは1864年、かの死の商人(後世の評価ですが)エドワード・シュネル(スネル兄弟の弟)と共同経営していますから、後に河井がJames Favre-Brandtまたはスネルから武器を購入することと関連性さえ伺えます。もっとも、フランソワ・ペルゴは時計だけに専念し、武器を扱うエドワード・シュネルとは対立し共同経営は終わっていますけれど・・・James Favre-Brandtともスイス通商使節団及びライフルクラブを通じて充分な親交はありました・・・フランソワ・ペルゴは1877年に43歳の若さで死去、葬儀委員長としてJames Favre-Brandtが仕切ったと聞きます。
フランソワ・ペルゴの時計に対する情熱は現在も「ジラール・ペルゴ」の高級腕時計などに綿々と受け継がれています
司馬遼太郎氏の歴史小説「峠」では、主人公、長岡藩の奇才、河井継之助が横浜でスイス商人ファブル・ブラント(James Favre-Brandt)と逢いそして、永世中立の思想を学ぶことになっております。しかしながら、河井がもしも横浜のファブル・ブラントと逢ったと仮定しましても、河井が横浜遊学が出来た、したとすると、それは未だファブル・ブラントが横浜に来ていない時期ですし、困ったなぁと思っていたところ、かの時計コレクター&研究家の大川伸功氏より、フランソワ・ペルゴのお話しを聞きましてひらめきました・・・
フランソワ・ペルゴはJames Favre-Brandtに先立つこと3年前の1861年に横浜に来ており、James Favre-Brandtを含むスイス通商使節団(1863年来日)を迎え入れる準備をしたとの事です。河井が遊学していたのが、1859年~1861年位ですから、河井とフランソワ・ペルゴが逢える可能性はあった訳です。しかもフランソワ・ペルゴは1864年、かの死の商人(後世の評価ですが)エドワード・シュネル(スネル兄弟の弟)と共同経営していますから、後に河井がJames Favre-Brandtまたはスネルから武器を購入することと関連性さえ伺えます。もっとも、フランソワ・ペルゴは時計だけに専念し、武器を扱うエドワード・シュネルとは対立し共同経営は終わっていますけれど・・・James Favre-Brandtともスイス通商使節団及びライフルクラブを通じて充分な親交はありました・・・フランソワ・ペルゴは1877年に43歳の若さで死去、葬儀委員長としてJames Favre-Brandtが仕切ったと聞きます。
フランソワ・ペルゴの時計に対する情熱は現在も「ジラール・ペルゴ」の高級腕時計などに綿々と受け継がれています
2009年08月07日
馬の博物館にてⅡ・・・
根岸森林公園は昭和18年まで根岸競馬場だったことは前回述べましたが、競馬にまつわる話題をひとつ、James Favre-Brandt著「横浜の風物と事情」より・・・
居留民の中にトム・トーマス氏と言う競馬ファンがおった(注:イギリス貿易商・・根岸競馬場管理運営する日本レースクラブ理事なとを勤め関東大震災で死去)氏はこの頃以後、50年もの間横浜競馬の後援者であった。当時競馬には日本産と支那(中国)産の馬を使用していた。
トーマス氏は支那馬に跨り、在留民中最も高齢のエド・シャネル氏(注:謎の多い冒険家、または死の商人として名高いエドワルド・シュネルか)は日本馬に乗って「廻りコース」の競技を行ったが、試合はトーマス氏の見事な快勝に終わった。以来、支那馬は日本馬より優れているとの折り紙が付けられた。
その頃、日本人は外人達の乗馬の見事さと巧技に感嘆して、この分野では外人の優越を認めていた。日本人は人も馬もじきに疲労してしまうような粗末な鞍を用いて、いつも並足で走っていた。しかし、私がたびたび、騎馬の役人(護衛)に付き添われて江戸へ道中する途中で見る彼等の馬術は、外人と同様、巧みなものであった。
居留民の中にトム・トーマス氏と言う競馬ファンがおった(注:イギリス貿易商・・根岸競馬場管理運営する日本レースクラブ理事なとを勤め関東大震災で死去)氏はこの頃以後、50年もの間横浜競馬の後援者であった。当時競馬には日本産と支那(中国)産の馬を使用していた。
トーマス氏は支那馬に跨り、在留民中最も高齢のエド・シャネル氏(注:謎の多い冒険家、または死の商人として名高いエドワルド・シュネルか)は日本馬に乗って「廻りコース」の競技を行ったが、試合はトーマス氏の見事な快勝に終わった。以来、支那馬は日本馬より優れているとの折り紙が付けられた。
その頃、日本人は外人達の乗馬の見事さと巧技に感嘆して、この分野では外人の優越を認めていた。日本人は人も馬もじきに疲労してしまうような粗末な鞍を用いて、いつも並足で走っていた。しかし、私がたびたび、騎馬の役人(護衛)に付き添われて江戸へ道中する途中で見る彼等の馬術は、外人と同様、巧みなものであった。
2009年08月01日
馬の博物館にて・・・
馬の博物館のある根岸森林公園は、横浜今昔物語のカテゴリーに入ります。横浜開港と同時に居留した外国人は大の競馬好き、と言うより生活の一部だったようで、開港直後の文久2年(1862年)には山下町(現中華街辺り)で競馬が行われています。そして、慶応2年(1866年)にはここ根岸競馬場が開かれて、以来戦雲急を告げる昭和18年(1943年)まで競馬場でした。
これは、明治時代、根岸競馬場に集う、人々です。今の日本の競馬のようにオッサンが赤鉛筆を耳に挟んで、耳目をギラギラさせているような競馬でなくて、老若男女が集う社交の場のような雰囲気だったのでしょうね・・・
館内のパネルから・・・フラッシュを焚くことと天皇陛下の馬車以外は撮影OKでしたよ。
馬の遠い祖先です。もちろん化石から復元されたものですが、体長約30cm位、ネズミの親戚みたいですね・・・彼の子孫が、人間なる横暴な生き物を乗せて走り回るなんて、この頃は誰が想像したでしょうね・・・なんてバカな事を言ってる私(人間)の遠い祖先だってネズミのような哺乳類だったのでしょうけれど・・・
戦国武将乗馬のレプリカです・・・映画などで、馬に乗って疾走する颯爽とした武将などを良く目にしますが、この馬はちょっとそんなイメージではないですね。重い甲冑を着た武将に潰されそう・・・実はこの馬は、日本馬、実際に鎌倉の合戦現場から発掘された軍馬の骨格から再現されたらしいです。
そう言った視点からですと、黒澤映画の合戦シーンのように、人馬の群れがドドドドッ!!・・・とぶつかり合うような迫力よりもむしろ、敵同士の陣の中から、ポコポコと小さい馬に乗った武将が出て来て、「やあやあ我こそは相模守、根岸馬之助なり!・・・」などと名乗りあって、一騎討ちをする方が何となく合いそうな感がしました・・・
そんな訳で、根岸競馬場、今は家族が楽しく駆け回ったり、木陰で読書をしたりする平和な根岸森林公園です。しかし、昭和18年以降は、この一等観覧席跡の眺望の良さから、海軍が接収をして、戦後は米軍が接収しましたよ。米軍は今でも、この周辺の一等地を占めています・・・この一等観覧席跡は廃墟スポットとして人気があるそうですが、残念ながら中には入れません・・・
これは、明治時代、根岸競馬場に集う、人々です。今の日本の競馬のようにオッサンが赤鉛筆を耳に挟んで、耳目をギラギラさせているような競馬でなくて、老若男女が集う社交の場のような雰囲気だったのでしょうね・・・
館内のパネルから・・・フラッシュを焚くことと天皇陛下の馬車以外は撮影OKでしたよ。
馬の遠い祖先です。もちろん化石から復元されたものですが、体長約30cm位、ネズミの親戚みたいですね・・・彼の子孫が、人間なる横暴な生き物を乗せて走り回るなんて、この頃は誰が想像したでしょうね・・・なんてバカな事を言ってる私(人間)の遠い祖先だってネズミのような哺乳類だったのでしょうけれど・・・
戦国武将乗馬のレプリカです・・・映画などで、馬に乗って疾走する颯爽とした武将などを良く目にしますが、この馬はちょっとそんなイメージではないですね。重い甲冑を着た武将に潰されそう・・・実はこの馬は、日本馬、実際に鎌倉の合戦現場から発掘された軍馬の骨格から再現されたらしいです。
そう言った視点からですと、黒澤映画の合戦シーンのように、人馬の群れがドドドドッ!!・・・とぶつかり合うような迫力よりもむしろ、敵同士の陣の中から、ポコポコと小さい馬に乗った武将が出て来て、「やあやあ我こそは相模守、根岸馬之助なり!・・・」などと名乗りあって、一騎討ちをする方が何となく合いそうな感がしました・・・
そんな訳で、根岸競馬場、今は家族が楽しく駆け回ったり、木陰で読書をしたりする平和な根岸森林公園です。しかし、昭和18年以降は、この一等観覧席跡の眺望の良さから、海軍が接収をして、戦後は米軍が接収しましたよ。米軍は今でも、この周辺の一等地を占めています・・・この一等観覧席跡は廃墟スポットとして人気があるそうですが、残念ながら中には入れません・・・
2009年07月19日
Favre-Brandt(ファブル・ブラント)13.・・・
私が自分のブログで、幕末から明治、大正時代の日本に時計、測量機器、武器を輸入して文明開化に大いに貢献したスイス人James Favre-Brandtの事を紹介して来ましたところ、彼の子孫の方、彼の兄の子孫の方、そして商館時計の蒐集及び研究家の方からご連絡を受けました・・・と、言う事は前にお話ししましたが、今日はその商館時計の蒐集及び研究家の「大川伸功(おおかわのぶよし)」氏から、膨大な資料をお送り頂きました。
大川伸功氏は時計蒐集とその時計にまつわる時代背景を研究する方で、特に商館時計の研究をライフワークにされています。ものすごい智識量には本当に圧倒されてしまいますよ・・・
平成10年から「世界の腕時計」と言う専門誌にこのシリーズとして連載を続けておられます。「大川伸功」氏のキーワードで検索できますから興味のある方はどうぞ・・・ブリキのおもちゃ館長の北原氏が、「鑑定団」に出演していますが、腕時計、懐中時計、商館時計の鑑定コーナーでもあれば確実に出演される資格があるものと思います・・・
因みに、大川伸功氏から依頼を受けていますのは、James Favre-Brandtの子孫と是非お会いして、お話しを聞きたいと言うことなんですが、James Favre-Brandtの子孫の方のご都合で、未だ実現していません・・・実現するまで、気長に待ちますと言われましたが、未実現でこんな立派な資料をお贈り頂いて、本当に恐縮です。James Favre-Brandtのページを充実させる為にも、この膨大な資料を使わせて頂きます。ありがたくも嬉しいことです!!因みに、タイトルを飾る商館の版画は、横浜175番地のFavre-Brandt商会のもの、終始一貫してこの図です・・・これもまた嬉しい限りです・・・
大川伸功氏は時計蒐集とその時計にまつわる時代背景を研究する方で、特に商館時計の研究をライフワークにされています。ものすごい智識量には本当に圧倒されてしまいますよ・・・
平成10年から「世界の腕時計」と言う専門誌にこのシリーズとして連載を続けておられます。「大川伸功」氏のキーワードで検索できますから興味のある方はどうぞ・・・ブリキのおもちゃ館長の北原氏が、「鑑定団」に出演していますが、腕時計、懐中時計、商館時計の鑑定コーナーでもあれば確実に出演される資格があるものと思います・・・
因みに、大川伸功氏から依頼を受けていますのは、James Favre-Brandtの子孫と是非お会いして、お話しを聞きたいと言うことなんですが、James Favre-Brandtの子孫の方のご都合で、未だ実現していません・・・実現するまで、気長に待ちますと言われましたが、未実現でこんな立派な資料をお贈り頂いて、本当に恐縮です。James Favre-Brandtのページを充実させる為にも、この膨大な資料を使わせて頂きます。ありがたくも嬉しいことです!!因みに、タイトルを飾る商館の版画は、横浜175番地のFavre-Brandt商会のもの、終始一貫してこの図です・・・これもまた嬉しい限りです・・・
2009年07月10日
Favre-Brandt(ファブル・ブラント)12・・・
4月17日にアップしました写真の裏書ですが、先日連絡頂いたスイス人でJames(ジェームス) Favre-Brandtの兄Charles(チャールス) Favre-Brandt曾孫の友人に翻訳をお願いしましたら、この通りでした・・・・
De la part de tes sœurs Sophie et Adèle
d'après une photographie prise à
Lausanne le 1 mars 1903
Yokohama 21 avril 1903 (signature)
【妹達SophieとAdeleがロザヌで1903年3月1日に撮った写真を(兄様)に贈る。横浜、1903年4月21日】
James Favre-Brandtの下2人の娘ソフィーとアデルです・・・この2人の娘の母親はJamesの夫人「松野 久」が若くして亡くなり、久の姪「松野 くま」を後添えにしましたがその「くま」の産んだ娘2人なんですが、この「くま」もわずか25歳で早世してしまいました。Jamesはこの幼いソフィーとアデルの手を引いて、皇室招待のガーデンパーティーや公式の宴席に連れて行ったそうです。
小説家長谷川伸が「よこはま白話」の中で「・・・元居留地で労役をやっていた私が、毎日のように(女児の手を引く)老いたるこの西欧人をみたのはその晩年であった」と幼いソフィーとアデルの手を引くJamesの姿に一点の孤愁を感じ取った一文を残しています。ソフィーとアデルのその後の人生についてはまた別の機会に・・・
De la part de tes sœurs Sophie et Adèle
d'après une photographie prise à
Lausanne le 1 mars 1903
Yokohama 21 avril 1903 (signature)
【妹達SophieとAdeleがロザヌで1903年3月1日に撮った写真を(兄様)に贈る。横浜、1903年4月21日】
James Favre-Brandtの下2人の娘ソフィーとアデルです・・・この2人の娘の母親はJamesの夫人「松野 久」が若くして亡くなり、久の姪「松野 くま」を後添えにしましたがその「くま」の産んだ娘2人なんですが、この「くま」もわずか25歳で早世してしまいました。Jamesはこの幼いソフィーとアデルの手を引いて、皇室招待のガーデンパーティーや公式の宴席に連れて行ったそうです。
小説家長谷川伸が「よこはま白話」の中で「・・・元居留地で労役をやっていた私が、毎日のように(女児の手を引く)老いたるこの西欧人をみたのはその晩年であった」と幼いソフィーとアデルの手を引くJamesの姿に一点の孤愁を感じ取った一文を残しています。ソフィーとアデルのその後の人生についてはまた別の機会に・・・
2009年07月04日
Favre-Brandt(ファブル・ブラント)11・・・
このシリーズ、大分ご無沙汰していました・・・幕末に開港したばかりの横浜へ、スイスの通商使節団と共に渡って来たJames Favre-Brandtは使節団が目的を果たして解散した後も横浜へ残り、時計、武器などを扱う商人として「 Favre-Brandt(ファブル・ブラント)商会」を設立、戊辰戦争の折には、長岡藩、薩摩藩へ武器を供給し、日本の西洋時計普及に力を注ぎましたが、彼自身はほとんど自分の功を語らず、あまりその活動が知られていないのが現状です・・・
James Favre-Brandtは横浜に居住して、大正12年に軽井沢で死亡しています・・・折りしも関東大震災で自らの商館が倒壊する一ヶ月前の事、商館倒壊を目にしなかったのが、せめてもの幸いだったのかも知れません。
ところで、「河井継之助とファブル・ブランドと長岡戦争と」「ファブル・フラント1~10」と少しづつアップして来ました。誰が読んでくれるのか、きっと誰も見てくれないのだろうな、とは思っていました。別に誰に読んで貰わなくても日記の一端としてだからどうでも良いのですが、それでも、読んで下さる方はいたようで、沢山の「宝物」を頂いて居ります・・・何よりの嬉しい事です・・・
その宝物のひとつです。James Favre-Brandtの画像は現在同じ頃の椅子に座ったものは良く目にしますが、この写真は珍しいと思います・・・
そしてこの写真、4人息子の長男Francois(フランソワ) Favre-Brandtの写真もそうなんですが、長男と思っていたものが、実は次男だったようです。その経緯は後で触れる事もあると思います。
まず、去年夏頃にこのFrancois Favre-Brandtの子孫の方からお便りを頂き本当に驚いてしまいました・・・しかも、その事をブログアップしましたら、関西の有名な時計コレクターそして研究家の方から是非ともJames Favre-Brandtの子孫とお会いしたいとコンタクトがありました。
そして、最近スイスから、James Favre-Brandtの兄、Cherles(チャールス) Favre-Brandtの子孫の友だちからお便りを頂き、第二次大戦以降散り散りになってしまったJames Favre-Brandtの子孫同士が是非会いたい、会わせたいとのお話しとCherles Favre-Brandtのその後の家系図などが送られて来まして、私の身辺はもう宝の山状態です。
私のJames Favre-Brandt研究が何歩も前進したのは事実です・・・キャーワー!!(これ、嬉しい悲鳴です)
James Favre-Brandtは横浜に居住して、大正12年に軽井沢で死亡しています・・・折りしも関東大震災で自らの商館が倒壊する一ヶ月前の事、商館倒壊を目にしなかったのが、せめてもの幸いだったのかも知れません。
ところで、「河井継之助とファブル・ブランドと長岡戦争と」「ファブル・フラント1~10」と少しづつアップして来ました。誰が読んでくれるのか、きっと誰も見てくれないのだろうな、とは思っていました。別に誰に読んで貰わなくても日記の一端としてだからどうでも良いのですが、それでも、読んで下さる方はいたようで、沢山の「宝物」を頂いて居ります・・・何よりの嬉しい事です・・・
その宝物のひとつです。James Favre-Brandtの画像は現在同じ頃の椅子に座ったものは良く目にしますが、この写真は珍しいと思います・・・
そしてこの写真、4人息子の長男Francois(フランソワ) Favre-Brandtの写真もそうなんですが、長男と思っていたものが、実は次男だったようです。その経緯は後で触れる事もあると思います。
まず、去年夏頃にこのFrancois Favre-Brandtの子孫の方からお便りを頂き本当に驚いてしまいました・・・しかも、その事をブログアップしましたら、関西の有名な時計コレクターそして研究家の方から是非ともJames Favre-Brandtの子孫とお会いしたいとコンタクトがありました。
そして、最近スイスから、James Favre-Brandtの兄、Cherles(チャールス) Favre-Brandtの子孫の友だちからお便りを頂き、第二次大戦以降散り散りになってしまったJames Favre-Brandtの子孫同士が是非会いたい、会わせたいとのお話しとCherles Favre-Brandtのその後の家系図などが送られて来まして、私の身辺はもう宝の山状態です。
私のJames Favre-Brandt研究が何歩も前進したのは事実です・・・キャーワー!!(これ、嬉しい悲鳴です)
2009年05月22日
廓(くるわ)の証拠・・・
横浜橋、真金町界隈は、戦前まで廓と称する遊郭が沢山あったそうです。開港当時には今の横浜スタジアムのある横浜公園の場所にありましたが、慶応の大火事(豚屋火事)で燃えてしまい、高島町へ移り、その後この界隈になったそうですよ・・・
これが遊郭の建物という訳ではありませんが、そんな雰囲気を残す建物ですね・・・
笑点の司会者「桂 歌丸」さんの実家も真金町界隈の遊郭だったそうですから、その関係かも知れませんが、横浜橋通り商店街裏の八幡神社に桂 歌丸さんの寄進した証拠が残っていました・・・
関東大震災の復興を祈願した石碑がこの神社の境内に残っていましたが、「廓諸職奉納・・・大正13年云々」と読み取れました・・・この八幡神社は、横浜公園に「港崎(みよざき)遊郭」として出来た際に建立されたらしいですので、この遊郭街が転々としたように、転々とここまで来たのでしょうね・・・
これが遊郭の建物という訳ではありませんが、そんな雰囲気を残す建物ですね・・・
笑点の司会者「桂 歌丸」さんの実家も真金町界隈の遊郭だったそうですから、その関係かも知れませんが、横浜橋通り商店街裏の八幡神社に桂 歌丸さんの寄進した証拠が残っていました・・・
関東大震災の復興を祈願した石碑がこの神社の境内に残っていましたが、「廓諸職奉納・・・大正13年云々」と読み取れました・・・この八幡神社は、横浜公園に「港崎(みよざき)遊郭」として出来た際に建立されたらしいですので、この遊郭街が転々としたように、転々とここまで来たのでしょうね・・・
2009年05月21日
こ、近藤 勇のお墓!!??・・・
ここは、横浜市西区の勧行寺・・・参道を旧東海道が横切っているという「誠」に変わったお寺です。ふらっと立ち寄った境内に、な、なんと、新撰組鬼局長、近藤 勇のお墓が・・・
「近藤先生の墓」と、後ろのダンダラは新撰組の隊旗・・・これは間違いない!・・・と思って、年号を見ると、「天保○年」とうっすら読み取れます。これはおかしいと思って調べましたら、このお墓、天然理心流の流祖「近藤内蔵之助長裕(こんどうくらのすけながひろ)」のお墓だそうです。近藤 勇はこの人から四代目なんだそうですが、それでは一体あのダンダラの隊旗は何だったのでしょうか?・・・面白いっちゃ面白いです・・・
「近藤先生の墓」と、後ろのダンダラは新撰組の隊旗・・・これは間違いない!・・・と思って、年号を見ると、「天保○年」とうっすら読み取れます。これはおかしいと思って調べましたら、このお墓、天然理心流の流祖「近藤内蔵之助長裕(こんどうくらのすけながひろ)」のお墓だそうです。近藤 勇はこの人から四代目なんだそうですが、それでは一体あのダンダラの隊旗は何だったのでしょうか?・・・面白いっちゃ面白いです・・・
2009年05月15日
象の鼻パーク・・・
新しくなった象の鼻パークの遊歩道を歩いて来ましたが、何だか、象の鼻の変貌が激しすぎて、一目で嫌いになりました。以前のようにもうすっかり忘れられて、あれが「象の鼻」の跡だなんて、余程気を付けないと分からなかった時の方が、とても好きでした・・・
これは2007年のまだ工事に取り掛かった頃の「象の鼻」です・・・
そして、今日の完成成った、「象の鼻」です・・・往時の姿に近づけたようですが、はっきり言って作り過ぎ・・・あれ程、忘れ去られたように放置された象の鼻・・・それでも、横浜を愛する人は決して目を離せないそんな場所だったのに、これでは、単にイベントの盛り上げの為の厚化粧としか思えません・・・こんな姿にしてしまった横浜の情けない精神、がっかりです・・・
この象の鼻、私にとっては心が和む場所だったんですが、もう二度と行きません・・・
これは2007年のまだ工事に取り掛かった頃の「象の鼻」です・・・
そして、今日の完成成った、「象の鼻」です・・・往時の姿に近づけたようですが、はっきり言って作り過ぎ・・・あれ程、忘れ去られたように放置された象の鼻・・・それでも、横浜を愛する人は決して目を離せないそんな場所だったのに、これでは、単にイベントの盛り上げの為の厚化粧としか思えません・・・こんな姿にしてしまった横浜の情けない精神、がっかりです・・・
この象の鼻、私にとっては心が和む場所だったんですが、もう二度と行きません・・・
2009年05月15日
獅子頭共用栓・・・
横浜開港資料館の中庭に、この獅子頭共用栓がありました・・・横浜居留地に水道が敷設されたのは明治18年から20年と言うことです・・・
当時の水道は、今のように各家屋に蛇口があるものではなくて、路頭の共用栓から汲んで使う方式だったようですよ・・・この獅子頭共用栓は、当時イギリスのエンフィールド社から輸入された600基のうちのひとつだそうです。
そして、その水受けの溝は山手の坂道などに使われていたブラフ溝と言う石が使われています・・・外国人居留地のおかみさん達も、この共用栓から水を運んだのでしょうね・・・
当時の水道は、今のように各家屋に蛇口があるものではなくて、路頭の共用栓から汲んで使う方式だったようですよ・・・この獅子頭共用栓は、当時イギリスのエンフィールド社から輸入された600基のうちのひとつだそうです。
そして、その水受けの溝は山手の坂道などに使われていたブラフ溝と言う石が使われています・・・外国人居留地のおかみさん達も、この共用栓から水を運んだのでしょうね・・・
2009年05月10日
アイスクリームの日・・・
この前アップした馬車道のお祭りは、実は5月9日が「アイスクリームの日」にちなんだ、イベントだったそうです・・・何でアイスクリームの日なのか?私が以前の記事で紐解いていました。開港当時の氷事情ですが、現代のように簡単に氷が手に入ることは無かったようです・・・私の子どもの頃のたった50年前ですら、氷屋さんから買っていた位ですから・・・アメリカのボストンから天然氷を喜望峰周りで輸入した高額の氷だったようです・・・それを見た、中川喜兵衛という人が、函館五稜郭の天然氷を商品化したそうです。これで、随分価格が下がったのでしょうけれど、まだまだ高嶺の花でだったと思いますよ。
そしてこの五稜郭からの天然氷でアイスクリームを作って日本で初めて売り出したのが町田房蔵と言う人・・・馬車道(常磐町5丁目)で明治2年5月9日だったそうですよ。ただし、こんな風にして生まれたアイスクリーム、今のように、簡単に手に入る訳でもないし、一般庶民が口に出来るような代物ではなかったのでしょうね・・・
画像は、谷戸坂下にあったヨコハマアイスワークスです・・・明治12年頃にやっとエーテル式の製氷技術で氷を作ることができるようになったそうです・・・
氷が超貴重品だった頃、冬の間に出来た氷を、保存しておいて、将軍家に献上する話しがありますが、石川県の方に「氷見」と言う地名、これもそれに関係するものと聞いた記憶があります・・・
そしてこの五稜郭からの天然氷でアイスクリームを作って日本で初めて売り出したのが町田房蔵と言う人・・・馬車道(常磐町5丁目)で明治2年5月9日だったそうですよ。ただし、こんな風にして生まれたアイスクリーム、今のように、簡単に手に入る訳でもないし、一般庶民が口に出来るような代物ではなかったのでしょうね・・・
画像は、谷戸坂下にあったヨコハマアイスワークスです・・・明治12年頃にやっとエーテル式の製氷技術で氷を作ることができるようになったそうです・・・
氷が超貴重品だった頃、冬の間に出来た氷を、保存しておいて、将軍家に献上する話しがありますが、石川県の方に「氷見」と言う地名、これもそれに関係するものと聞いた記憶があります・・・
2009年05月03日
横浜の不思議なもの・・・
何もかもが近代化された横浜ですが、小まめに歩きますと、結構こんな不思議なものが、あるんですよ・・・
これは、近代的なマンションかオフィス街に囲まれた一角にありました・・・レンガ積みは典型的なフランス積み・・・下の石はブラフ積み、ある商館の壁の一部です・・・その煉瓦は、小菅刑務所で作られたものらしいです・・・良く残っていたものです。
この大砲は、横浜の開港騒ぎの中、開港阻止派の佐久間象山たちが、この大砲を持って押し寄せたものの、結局、開港になってしまい、断腸の思いでこの地に埋めたとの事です・・・ここは、昔、シーベル・へグナー社があったところで、20年位前には、掘り出されたままのこの大砲が、ゴロゴロしていたのが思い出されます・・・
これは、近代的なマンションかオフィス街に囲まれた一角にありました・・・レンガ積みは典型的なフランス積み・・・下の石はブラフ積み、ある商館の壁の一部です・・・その煉瓦は、小菅刑務所で作られたものらしいです・・・良く残っていたものです。
この大砲は、横浜の開港騒ぎの中、開港阻止派の佐久間象山たちが、この大砲を持って押し寄せたものの、結局、開港になってしまい、断腸の思いでこの地に埋めたとの事です・・・ここは、昔、シーベル・へグナー社があったところで、20年位前には、掘り出されたままのこの大砲が、ゴロゴロしていたのが思い出されます・・・
2009年05月02日
湧き水再び・・・
この前、黄金橋の近くで偶然にこんこんとした湧き水を発見して、随分驚きましたが、今日は、打越橋の近くの湧き水を訪ねて見ました・・・
この湧き水の存在は以前から知っていました。20年近く前には、良くタクシーの運転手さんが、水分補給をしていましたし、ウイスキーの水割りとか、料理で使うなどと、タンクに詰めて水を汲んで行く人を見かけましたが、やはり、保健所あたりから、注意があったんでしょうね、「飲まないで下さい」と注意書きがありました・・・
それでも、後から来たお婆さんがペットボトルで汲んでゴクゴクと飲んでました。豪快でしたね・・・
この湧き水も、横浜港から出航する船に積まれたり、関東大震災や、横浜空襲の際にも貴重な飲料水として市民の命を救ったそうです・・・それでこの湧き水「霊泉」と言うありがたい名前を貰ったようですよ・・・
この湧き水の存在は以前から知っていました。20年近く前には、良くタクシーの運転手さんが、水分補給をしていましたし、ウイスキーの水割りとか、料理で使うなどと、タンクに詰めて水を汲んで行く人を見かけましたが、やはり、保健所あたりから、注意があったんでしょうね、「飲まないで下さい」と注意書きがありました・・・
それでも、後から来たお婆さんがペットボトルで汲んでゴクゴクと飲んでました。豪快でしたね・・・
この湧き水も、横浜港から出航する船に積まれたり、関東大震災や、横浜空襲の際にも貴重な飲料水として市民の命を救ったそうです・・・それでこの湧き水「霊泉」と言うありがたい名前を貰ったようですよ・・・