2009年08月29日
お祭り騒ぎが大好きで~~♪
職場でお祭りをしました・・・何もしたくないし、寝るより楽はなかりけりの職場のお方たちにどうしたら楽しんでもらえるかってスタッフ一同知恵を出し合って、結論はやっぱり食い物・・・でもどうせ食い物ならば、我々が手作りの食い物を、食って・・・いやもとい、召し上がって頂こうと言うことで、スタッフがそれぞれ屋台の経営者になって頑張りました・・・
ここは「揚げたこ焼き屋」の「かみや」さん、只今、お客が来る前の準備におおわらわです・・・
ここが、焼き鳥屋の「じんべい」さんです・・・店名の通り甚平を着たスタッフがこれも準備に大忙しです・・・
「じんべい」の焼き鳥です・・・これでビールが飲めれば最高なのにね・・・
残った焼き鳥を家に持って帰って、晩酌のつまみにしましたが、その辺で買うような焼き鳥よりもずっと美味しかったですよ・・・ここの名物にしようかなー・・・
ここは、栄養士が試行錯誤して試作に試作を重ねて今日の開店に間に合いました・・・フルーツ飴のお店「トロピカル」さんです・・・
そしてここは、西日が当たると気を使ってくれた振りをして、客足の遠のきそうな奥地に追いやられた「じゃがバター専門店」「味好(あじよし)」さん・・・ここの店主は私です・・・商売に不利な場所をあてがわれてそれで、引っ込むようなやわな店主ではありません・・・周り近所憚るような大声で手は叩くは、ベタな売り文句・・・「ほっかいどう?のじゃがバター、食べると34年間も長生きするよ!!」等々、無責任にあることないこと吼えまくって、咽が嗄れましたよ・・・
さていよいよ、お客様登場!・・・お客は皆、食券を持っていて買い物をします。普段一緒に生活をしていて感じたことは、お客様に楽しんで頂けたようです・・・どうやら、私たちスタッフの努力は報われた感じはします・・・
この後、私たちは後片付けにてんてこ舞いでしたが、別のスタッフがゲームをして楽しんでいました・・・景品はやはり食い物・・・食い物のコンセプトなしに私たちの仕事は成り立たない??・・・
皆さんのお顔は、個人情報の範疇、借金取りに見られて困る人もいるので、ぼかさせて貰いました・・・
ここは「揚げたこ焼き屋」の「かみや」さん、只今、お客が来る前の準備におおわらわです・・・
ここが、焼き鳥屋の「じんべい」さんです・・・店名の通り甚平を着たスタッフがこれも準備に大忙しです・・・
「じんべい」の焼き鳥です・・・これでビールが飲めれば最高なのにね・・・
残った焼き鳥を家に持って帰って、晩酌のつまみにしましたが、その辺で買うような焼き鳥よりもずっと美味しかったですよ・・・ここの名物にしようかなー・・・
ここは、栄養士が試行錯誤して試作に試作を重ねて今日の開店に間に合いました・・・フルーツ飴のお店「トロピカル」さんです・・・
そしてここは、西日が当たると気を使ってくれた振りをして、客足の遠のきそうな奥地に追いやられた「じゃがバター専門店」「味好(あじよし)」さん・・・ここの店主は私です・・・商売に不利な場所をあてがわれてそれで、引っ込むようなやわな店主ではありません・・・周り近所憚るような大声で手は叩くは、ベタな売り文句・・・「ほっかいどう?のじゃがバター、食べると34年間も長生きするよ!!」等々、無責任にあることないこと吼えまくって、咽が嗄れましたよ・・・
さていよいよ、お客様登場!・・・お客は皆、食券を持っていて買い物をします。普段一緒に生活をしていて感じたことは、お客様に楽しんで頂けたようです・・・どうやら、私たちスタッフの努力は報われた感じはします・・・
この後、私たちは後片付けにてんてこ舞いでしたが、別のスタッフがゲームをして楽しんでいました・・・景品はやはり食い物・・・食い物のコンセプトなしに私たちの仕事は成り立たない??・・・
皆さんのお顔は、個人情報の範疇、借金取りに見られて困る人もいるので、ぼかさせて貰いました・・・
2009年08月22日
World Watch Fair・・・
首都東京にしばらくご無沙汰をしている内に、すっかり田舎者(決して地方の人を蔑んだ言葉ではありません)になってしまいました・・・何故ってこのWorld Watch Fairが日本橋三越で開かれているって聞いて駆けつけた先が、銀座三越・・・銀座三越の6階に行きましたが、そんな催しの影も形も見えませんて・・・当たり前ですよね・・・
何とか銀座三越から日本橋三越に到着して世界のWatch展を観て来ました・・・
特に気になりましたのは、開港直後の1861年に横浜へ来浜したフランソワ・ペルゴの夢が結実した「ジラ―ル・ペルゴ」の時計です。フランソワ・ペルゴが死去したときの葬儀委員長がJames Favre-Brandtだったことを想い合わせますと、何だかこの時計が私を呼んでいるような・・・
呼ばれてもねぇ~~・・・その訳は・・・
この腕時計だけでも105万円(ん百万円の時計なんて当たり前ですからね)・・・
腕時計って男のステータスシンボルだと思いますしそうだと思います。私にはこの105万円の時計を買えるはずもありませんし、買う意志もありませんが、負け惜しみではなくてそれで良いと思います・・・高級外車に乗るか乗らないか位のことです。
私のステータスシンボルの時計は、救急救命に必要なダイバーズウオッチです。充分です・・・
何とか銀座三越から日本橋三越に到着して世界のWatch展を観て来ました・・・
特に気になりましたのは、開港直後の1861年に横浜へ来浜したフランソワ・ペルゴの夢が結実した「ジラ―ル・ペルゴ」の時計です。フランソワ・ペルゴが死去したときの葬儀委員長がJames Favre-Brandtだったことを想い合わせますと、何だかこの時計が私を呼んでいるような・・・
呼ばれてもねぇ~~・・・その訳は・・・
この腕時計だけでも105万円(ん百万円の時計なんて当たり前ですからね)・・・
腕時計って男のステータスシンボルだと思いますしそうだと思います。私にはこの105万円の時計を買えるはずもありませんし、買う意志もありませんが、負け惜しみではなくてそれで良いと思います・・・高級外車に乗るか乗らないか位のことです。
私のステータスシンボルの時計は、救急救命に必要なダイバーズウオッチです。充分です・・・
2009年08月22日
流しそうめん・・・
毎年恒例の流しそうめんをしました。竹は午前中に竹林から切り出してきた孟宗竹で、スタッフはその竹を割ったり節を抜いたり、流しそうめんの流水のごとく大汗をかいて準備におおわらわでした・・・
さて、いよいよ流しそうめん開始、3グループに分けて、1グループが完食するまで、何度でも流します・・・この流れて来るそうめんを引っ捕らえるのは少々コツが要るのですけれど、逃がしたところで、再び流れて来ますからご安心を・・・って誰を納得させているの?
そうめん発祥の地です・・・因みに当然のことながら、スタッフはもちろん、食べる人も全員、事前に完全消毒していますから、皆さん安心して召し上がって下さい・・・
そうめんなんて、茹でて、冷水で絞めて食べれば別にこんな厄介なことしなくても良いのに、って思いますけれど、野山でおにぎりを食べたり、良い音楽を聴きながらお酒を飲んだり、清流のそばでバーベキューをしたりと同じ事で、不思議に美味しいんですね・・・
さて、いよいよ流しそうめん開始、3グループに分けて、1グループが完食するまで、何度でも流します・・・この流れて来るそうめんを引っ捕らえるのは少々コツが要るのですけれど、逃がしたところで、再び流れて来ますからご安心を・・・って誰を納得させているの?
そうめん発祥の地です・・・因みに当然のことながら、スタッフはもちろん、食べる人も全員、事前に完全消毒していますから、皆さん安心して召し上がって下さい・・・
そうめんなんて、茹でて、冷水で絞めて食べれば別にこんな厄介なことしなくても良いのに、って思いますけれど、野山でおにぎりを食べたり、良い音楽を聴きながらお酒を飲んだり、清流のそばでバーベキューをしたりと同じ事で、不思議に美味しいんですね・・・
2009年08月21日
マリンタワー・・・
リニューアルオープンしたマリンタワーに登って来ましたよ・・・むろん、利用者さんと一緒のプログラムです・・・「むろん」と言う訳は私個人では絶対に登る訳けがないからです・・・何故なら高所が嫌いだからです・・・高いところに登るのは○○と煙だけでぃ!!・・・まぁ、それは良いのですが、素晴らしい景色は堪能できました・・・
以前は、赤と白のダサいダンダラでしたけれど、メタルシルバーのとてもシックな姿に生まれ変わりました・・・
緑の森がこんもりした場所は、幕末の頃、フランス軍が進駐して、後にフランス領事館となった「フランス山」、そしてその森の更に先は、「港の見える丘公園」・・・イギリス領事館のあった場所です・・・そしてこの森の右側の公園は、アメリカ軍が進駐した「アメリカ公園」です・・・などと、見ているだけで、当時の様子が見えて来ます・・・
こちらは、みなとみらい地区です・・・あのランドマークタワーが出来る前のランドマーク(灯台)はここマリンタワーだったんです・・・
そして、氷川丸です・・・この氷川丸が係留されている山下公園は、関東大震災で大量に出来た瓦礫の山をここに埋め立てて出来ました・・・公園はロマンチックですが、この山下公園を掘り起こしたら、開港から大正12年前の貴重な遺物が沢山出て来るんでしょうね・・・そちらの方がロマンチックですけれど・・・
以前は、赤と白のダサいダンダラでしたけれど、メタルシルバーのとてもシックな姿に生まれ変わりました・・・
緑の森がこんもりした場所は、幕末の頃、フランス軍が進駐して、後にフランス領事館となった「フランス山」、そしてその森の更に先は、「港の見える丘公園」・・・イギリス領事館のあった場所です・・・そしてこの森の右側の公園は、アメリカ軍が進駐した「アメリカ公園」です・・・などと、見ているだけで、当時の様子が見えて来ます・・・
こちらは、みなとみらい地区です・・・あのランドマークタワーが出来る前のランドマーク(灯台)はここマリンタワーだったんです・・・
そして、氷川丸です・・・この氷川丸が係留されている山下公園は、関東大震災で大量に出来た瓦礫の山をここに埋め立てて出来ました・・・公園はロマンチックですが、この山下公園を掘り起こしたら、開港から大正12年前の貴重な遺物が沢山出て来るんでしょうね・・・そちらの方がロマンチックですけれど・・・
2009年08月16日
ドーナッツ・・・
我が家のすぐ近く、歩いて45秒位のところに「はらドーナツ」のお店がオープンしています・・・毎日通りかかる度に行列が出来ていたので、気になりつつも横目に見て通り過ぎていましたけれど、今日やっと寄ってみました。とうもろこし味、さとうきび味など色々な風味が楽しめます・・・
これは、シンプルな「はらドーナツ」オリジナルです・・・
そしてこちらは、さとうきび味と、とうもろこし味のドーナツです。お味は、あっさりとして甘味が後に残るようなことはありません。おからが入っていてヘルシーなんだそうです・・・
これは、シンプルな「はらドーナツ」オリジナルです・・・
そしてこちらは、さとうきび味と、とうもろこし味のドーナツです。お味は、あっさりとして甘味が後に残るようなことはありません。おからが入っていてヘルシーなんだそうです・・・
2009年08月15日
終戦記念日・・・靖国神社にて
1945年に終結したこの戦争で、世界中で数百万人の何にも代え難い命が失われました・・・失われた命のひとつひとつは、親が居て、子が居て、親であり、子であり、愛する人が居て、愛する故郷や国がある人なんですね・・・そんな事の確認に私は、大体この時期、靖国神社に訪れます。今日は少し午前中早目に出かけましたが、九段下の地下鉄階段を出た辺りからもうこんな状態・・・・
何を訴えたいのか分からない各種団体が、迫って来ます。外国人に選挙権を?いや、与えるな!とか、○○国は我等民族を虐殺している!とか、右翼らしき外宣車がワーワー言ってたり、もう少し静かに慰霊する気にならないんでしょうかね・・・・
やっとの思いで、大鳥居に辿り着きました・・・いやーホッとしたと安心したのもつかの間でした・・・
こんどは、参道の真ん中で慰霊祭をやってます・・・どこの団体だか分かりませんが、何もこんな人通りの真ん中を占拠して慰霊祭なんぞする事ないのに、しかもその何とか会と言う会員しかこの慰霊祭に参加できませんなんて張り紙・・・
やっとの思いで参拝を済ませましたけれど、今年もありましたよ、戦争の亡者達のパフォーマンス・・・愛する国や国の家族を守る為に、死にたくもなかった人々が、これを見て嬉しいんでしょうかね。分かりません私には・・・
その後、何時もはスルーするんですが、遊就館(ゆうしゅうかん)と言う戦争博物館に入って見ました・・・ご真影と称しまして、この靖国神社に納められた人の写真が一面に張ってある場所があります。私の伯父も張り出されていても不思議ではないのですが、ありませんでした。遺族の希望にもとずいて張り出されるという事でしたから、なくて良かった。伯父の父、私の祖父はそういうセレモニー的な事大嫌いでしたからね・・・
遊就館の中はもちろん撮影禁止ですから、撮影可能な、無駄な戦争の無駄遣いの「零戦」を撮って来ました・・・
参拝が終われば、もう用はない、辺りはばからない外宣車の騒音など聞きたくもないですし、さっさと混まない方向へ闇雲に歩いていましたら、麹町に出ました。静かになったら途端にお腹がキューッと言う訳で、その辺のお店で「カタヤキソバ」を頂きました。空きっ腹にはとても美味しかったなぁ・・・
今年は、友が死んだり、息子が結婚したりの何か節目の年です。日本国の節目のこの終戦記念日、我が家も終戦で戦争から開放された父が母と結婚して私が生まれた訳ですから、そんな何かの因縁が、この暑苦しい雑踏に私が足を踏み入れた動機付けなのかも知れません・・・今年ほど真面目に参拝した事ありませんでした・・・
何を訴えたいのか分からない各種団体が、迫って来ます。外国人に選挙権を?いや、与えるな!とか、○○国は我等民族を虐殺している!とか、右翼らしき外宣車がワーワー言ってたり、もう少し静かに慰霊する気にならないんでしょうかね・・・・
やっとの思いで、大鳥居に辿り着きました・・・いやーホッとしたと安心したのもつかの間でした・・・
こんどは、参道の真ん中で慰霊祭をやってます・・・どこの団体だか分かりませんが、何もこんな人通りの真ん中を占拠して慰霊祭なんぞする事ないのに、しかもその何とか会と言う会員しかこの慰霊祭に参加できませんなんて張り紙・・・
やっとの思いで参拝を済ませましたけれど、今年もありましたよ、戦争の亡者達のパフォーマンス・・・愛する国や国の家族を守る為に、死にたくもなかった人々が、これを見て嬉しいんでしょうかね。分かりません私には・・・
その後、何時もはスルーするんですが、遊就館(ゆうしゅうかん)と言う戦争博物館に入って見ました・・・ご真影と称しまして、この靖国神社に納められた人の写真が一面に張ってある場所があります。私の伯父も張り出されていても不思議ではないのですが、ありませんでした。遺族の希望にもとずいて張り出されるという事でしたから、なくて良かった。伯父の父、私の祖父はそういうセレモニー的な事大嫌いでしたからね・・・
遊就館の中はもちろん撮影禁止ですから、撮影可能な、無駄な戦争の無駄遣いの「零戦」を撮って来ました・・・
参拝が終われば、もう用はない、辺りはばからない外宣車の騒音など聞きたくもないですし、さっさと混まない方向へ闇雲に歩いていましたら、麹町に出ました。静かになったら途端にお腹がキューッと言う訳で、その辺のお店で「カタヤキソバ」を頂きました。空きっ腹にはとても美味しかったなぁ・・・
今年は、友が死んだり、息子が結婚したりの何か節目の年です。日本国の節目のこの終戦記念日、我が家も終戦で戦争から開放された父が母と結婚して私が生まれた訳ですから、そんな何かの因縁が、この暑苦しい雑踏に私が足を踏み入れた動機付けなのかも知れません・・・今年ほど真面目に参拝した事ありませんでした・・・
2009年08月14日
2009年08月13日
川越ヂイ散歩・・・
暑い暑い日差しの中でしたが、何時もなんとなく気になっていました「川越」の散歩をしました・・・NHKのテレビドラマの舞台になっているようですね・・・川越と言いますと、「時の鐘」と「芋菓子」「蔵の街」が有名と言う予備知識はありましたけれど、実は川越って栃木県か群馬県位の遠いところと漠然と思っていました・・・着いて見ますと埼玉県ではありませんか・・・川越の皆さんスミマセン・・・えっ?地理をもっと勉強してから来い?確かに・・・
さて、川越、例によって観光ガイドも地図も、予備知識も持たずに出たとこ勝負で行きました。川越駅に降り立った時点では、周辺に蔵の街らしいものも、時の鐘も、何一つ川越らしいものは見当たりませんので、右も左も分からないとはこの事・・・えーいままよ!と観光客らしい人が一番多く乗込んでいる路線バスに乗りましたら、うまい具合に蔵の街の真ん中に着きましたよ・・・さすがにすごいですね。古い蔵造りの町並みが両脇にびっしり・・・壮観、圧巻でした・・・
これが川越の象徴と言える「時の鐘」です・・・400年も昔から時の鐘を鳴らし続けているそうです。この時の鐘の存在感てすごいですね・・・写真で見ただけでは味わえない迫力と美しさでした。行って見て分かったのですが、この時の鐘ってお寺の境内にある鐘楼なんです。蔵でびっしりの街の小さな寺の鐘楼・・・
どちらの存在が先なのかは分かりませんが、この街に時をあまねく知らせるには、こんな高い鐘楼が必要だったのでしょうね・・・
写真には写り込んでいませんが、この時の鐘の下の蔵造りの通りは沢山の観光客そして、お土産屋さんが並んでいますよ・・・
さて、別な地域コミュニティ「ロコ」で知り合った川越在住の人が、川越の見物すべき場所を知らせて下さいました。その中に、喜多院の五百羅漢と言ういかにも面白そうな場所が入っていました・・・早速行って見ました・・・
喜多院の本堂はあまりドウと言うこともなかったのですが、境内のこの多宝塔は、ごらんの通り、造形美に惹きつけられましたよ。特に木組みの美しい事、暑くなかったら何時までも見ていたかったです。
そして圧巻だったのは五百羅漢です。何でも天明2年(1782年)から約50年かけて作られ、538体あるそうです。文字通り五百羅漢ですね。何でも自分の親族や知り合いに似ている羅漢さんが一体はあるそうですから・・・
何人かの知り合いを見つけましたが、何故か心惹かれたのはこの羅漢さん、眠っているのか、臥せっているのか、考えをまとめているのか、絶望しているのか分かりません・・・
おーい!羅漢さん300年近くもそのお姿で何をしているんだい!
そして、こちらは一目見て私のお祖父さん・・・謹厳な職業軍人あがりの人で家の中の普段着に軍服を着ているような祖父でしたが、私の前では優しいおじいさん・・・おならを「プッ!!」として「ほい、しもうた(しまった)!」と頭に手をやっている姿そのもの・・・懐かしい人に逢えました・・・
川越の散策、本当に楽しかったです・・・今度は日射病、熱中症を気にしないで居られる秋にまた来ましょう・・・家から2時間もかからないで来られるなんて発見ですし・・・
さて、川越、例によって観光ガイドも地図も、予備知識も持たずに出たとこ勝負で行きました。川越駅に降り立った時点では、周辺に蔵の街らしいものも、時の鐘も、何一つ川越らしいものは見当たりませんので、右も左も分からないとはこの事・・・えーいままよ!と観光客らしい人が一番多く乗込んでいる路線バスに乗りましたら、うまい具合に蔵の街の真ん中に着きましたよ・・・さすがにすごいですね。古い蔵造りの町並みが両脇にびっしり・・・壮観、圧巻でした・・・
これが川越の象徴と言える「時の鐘」です・・・400年も昔から時の鐘を鳴らし続けているそうです。この時の鐘の存在感てすごいですね・・・写真で見ただけでは味わえない迫力と美しさでした。行って見て分かったのですが、この時の鐘ってお寺の境内にある鐘楼なんです。蔵でびっしりの街の小さな寺の鐘楼・・・
どちらの存在が先なのかは分かりませんが、この街に時をあまねく知らせるには、こんな高い鐘楼が必要だったのでしょうね・・・
写真には写り込んでいませんが、この時の鐘の下の蔵造りの通りは沢山の観光客そして、お土産屋さんが並んでいますよ・・・
さて、別な地域コミュニティ「ロコ」で知り合った川越在住の人が、川越の見物すべき場所を知らせて下さいました。その中に、喜多院の五百羅漢と言ういかにも面白そうな場所が入っていました・・・早速行って見ました・・・
喜多院の本堂はあまりドウと言うこともなかったのですが、境内のこの多宝塔は、ごらんの通り、造形美に惹きつけられましたよ。特に木組みの美しい事、暑くなかったら何時までも見ていたかったです。
そして圧巻だったのは五百羅漢です。何でも天明2年(1782年)から約50年かけて作られ、538体あるそうです。文字通り五百羅漢ですね。何でも自分の親族や知り合いに似ている羅漢さんが一体はあるそうですから・・・
何人かの知り合いを見つけましたが、何故か心惹かれたのはこの羅漢さん、眠っているのか、臥せっているのか、考えをまとめているのか、絶望しているのか分かりません・・・
おーい!羅漢さん300年近くもそのお姿で何をしているんだい!
そして、こちらは一目見て私のお祖父さん・・・謹厳な職業軍人あがりの人で家の中の普段着に軍服を着ているような祖父でしたが、私の前では優しいおじいさん・・・おならを「プッ!!」として「ほい、しもうた(しまった)!」と頭に手をやっている姿そのもの・・・懐かしい人に逢えました・・・
川越の散策、本当に楽しかったです・・・今度は日射病、熱中症を気にしないで居られる秋にまた来ましょう・・・家から2時間もかからないで来られるなんて発見ですし・・・
2009年08月11日
Favre-Brandt15・・・
【フランソワ・ペルゴ】と言う人のこと・・・・
司馬遼太郎氏の歴史小説「峠」では、主人公、長岡藩の奇才、河井継之助が横浜でスイス商人ファブル・ブラント(James Favre-Brandt)と逢いそして、永世中立の思想を学ぶことになっております。しかしながら、河井がもしも横浜のファブル・ブラントと逢ったと仮定しましても、河井が横浜遊学が出来た、したとすると、それは未だファブル・ブラントが横浜に来ていない時期ですし、困ったなぁと思っていたところ、かの時計コレクター&研究家の大川伸功氏より、フランソワ・ペルゴのお話しを聞きましてひらめきました・・・
フランソワ・ペルゴはJames Favre-Brandtに先立つこと3年前の1861年に横浜に来ており、James Favre-Brandtを含むスイス通商使節団(1863年来日)を迎え入れる準備をしたとの事です。河井が遊学していたのが、1859年~1861年位ですから、河井とフランソワ・ペルゴが逢える可能性はあった訳です。しかもフランソワ・ペルゴは1864年、かの死の商人(後世の評価ですが)エドワード・シュネル(スネル兄弟の弟)と共同経営していますから、後に河井がJames Favre-Brandtまたはスネルから武器を購入することと関連性さえ伺えます。もっとも、フランソワ・ペルゴは時計だけに専念し、武器を扱うエドワード・シュネルとは対立し共同経営は終わっていますけれど・・・James Favre-Brandtともスイス通商使節団及びライフルクラブを通じて充分な親交はありました・・・フランソワ・ペルゴは1877年に43歳の若さで死去、葬儀委員長としてJames Favre-Brandtが仕切ったと聞きます。
フランソワ・ペルゴの時計に対する情熱は現在も「ジラール・ペルゴ」の高級腕時計などに綿々と受け継がれています
司馬遼太郎氏の歴史小説「峠」では、主人公、長岡藩の奇才、河井継之助が横浜でスイス商人ファブル・ブラント(James Favre-Brandt)と逢いそして、永世中立の思想を学ぶことになっております。しかしながら、河井がもしも横浜のファブル・ブラントと逢ったと仮定しましても、河井が横浜遊学が出来た、したとすると、それは未だファブル・ブラントが横浜に来ていない時期ですし、困ったなぁと思っていたところ、かの時計コレクター&研究家の大川伸功氏より、フランソワ・ペルゴのお話しを聞きましてひらめきました・・・
フランソワ・ペルゴはJames Favre-Brandtに先立つこと3年前の1861年に横浜に来ており、James Favre-Brandtを含むスイス通商使節団(1863年来日)を迎え入れる準備をしたとの事です。河井が遊学していたのが、1859年~1861年位ですから、河井とフランソワ・ペルゴが逢える可能性はあった訳です。しかもフランソワ・ペルゴは1864年、かの死の商人(後世の評価ですが)エドワード・シュネル(スネル兄弟の弟)と共同経営していますから、後に河井がJames Favre-Brandtまたはスネルから武器を購入することと関連性さえ伺えます。もっとも、フランソワ・ペルゴは時計だけに専念し、武器を扱うエドワード・シュネルとは対立し共同経営は終わっていますけれど・・・James Favre-Brandtともスイス通商使節団及びライフルクラブを通じて充分な親交はありました・・・フランソワ・ペルゴは1877年に43歳の若さで死去、葬儀委員長としてJames Favre-Brandtが仕切ったと聞きます。
フランソワ・ペルゴの時計に対する情熱は現在も「ジラール・ペルゴ」の高級腕時計などに綿々と受け継がれています
2009年08月10日
百日紅・・・
「さるすべり」の花って、暑苦しくて本当に嫌な花・・・汗をしっかりかいたベトベトな時にも、アブラゼミのしつこい耳障りな鳴き声にも、常にこの「さるすべり」の花が背景にあるような印象です・・・ところが今年は不思議なことに、ほとんど嫌悪感を感じないのです。私の心の何かが変質したのか、嫌悪感を抱かない年齢になったのか、それが全く分かりません・・・
通りかかりのお宅にあった白い「さるすべり」・・・まさかこんな「さるすべり」がある訳ないと、近くに寄りましてもやっぱり確かに
「さるすべり」です。
そして、これが良く目にする「さるすべり」の花・・・この鬱陶(うっとお)しい、もやもやの背景に脂汗の出そうなアブラゼミ(だからアブラゼミって言うのかな・・・まさかね)と、灼熱の日差しと湿った空気がコラボして、とても堪らなくて、毎年カメラを向ける気にもなりませんでしたが、冒頭でお話ししましたように、今年の受け止め方は違っています・・・
今年は唯一無二の親友が死んだ・・・自分の身を削って大切に育てた息子が結婚する・・・さるすべりって人が喪失感や絶望感を味わった時に心に響いて来るのかなぁ・・・何て身勝手な解釈をしてます。
「さるすべり・・・百日紅」不思議な花・・・
通りかかりのお宅にあった白い「さるすべり」・・・まさかこんな「さるすべり」がある訳ないと、近くに寄りましてもやっぱり確かに
「さるすべり」です。
そして、これが良く目にする「さるすべり」の花・・・この鬱陶(うっとお)しい、もやもやの背景に脂汗の出そうなアブラゼミ(だからアブラゼミって言うのかな・・・まさかね)と、灼熱の日差しと湿った空気がコラボして、とても堪らなくて、毎年カメラを向ける気にもなりませんでしたが、冒頭でお話ししましたように、今年の受け止め方は違っています・・・
今年は唯一無二の親友が死んだ・・・自分の身を削って大切に育てた息子が結婚する・・・さるすべりって人が喪失感や絶望感を味わった時に心に響いて来るのかなぁ・・・何て身勝手な解釈をしてます。
「さるすべり・・・百日紅」不思議な花・・・
2009年08月09日
結婚するのはいいけれど・・・
来月、一人息子が結婚します・・・それはそれでおめでたいこととは思うのですが、28年間しっかりと育てた息子の結婚式にしては、何だか面白味が無くなっているように思えてなりません・・・最初は質素に個性的に、手作りの結婚式をしたいと言っていたので、それには大賛成していましたが、話しが段々大げさに膨らんで、来ています。
挙句の果て、息子の幼少時の写真を編集するので写真を要求されるのには、半分ブチキレ状態。お互いの赤ん坊時代からの成長過程をスライドにして披露する例のあれをするんでしょうね・・・私は息子にだけはあれをして欲しくなかったのです・・・あのスライドを見て喜ぶのは、現在の彼しか知らない人だけなんでしょうが、いくら結婚式とはいえ、そんなものを見せる必要性が何処にあるんだろうと思います。あれは悪趣味の何ものでもありません。プランナーと称する者に色々と吹っかけられているようですが、ここで私が乗り出して行っても、余計な事をするって怒るはずだし、何だかどうなってしまうのやら・・・嬉しい事と思う反面、28年手塩にかけて来た息子がそんな凡々とした結婚式をするなんて情けないやら、口を出せないのが口惜しいやら・・・
自分達でパンフレットを作り、計画を立てて、自分達手作りのケーキを配ったある結婚式に招待されたことがありますが、素敵でした・・・あんなのやってくれよ!!大切な息子娘よ!!
挙句の果て、息子の幼少時の写真を編集するので写真を要求されるのには、半分ブチキレ状態。お互いの赤ん坊時代からの成長過程をスライドにして披露する例のあれをするんでしょうね・・・私は息子にだけはあれをして欲しくなかったのです・・・あのスライドを見て喜ぶのは、現在の彼しか知らない人だけなんでしょうが、いくら結婚式とはいえ、そんなものを見せる必要性が何処にあるんだろうと思います。あれは悪趣味の何ものでもありません。プランナーと称する者に色々と吹っかけられているようですが、ここで私が乗り出して行っても、余計な事をするって怒るはずだし、何だかどうなってしまうのやら・・・嬉しい事と思う反面、28年手塩にかけて来た息子がそんな凡々とした結婚式をするなんて情けないやら、口を出せないのが口惜しいやら・・・
自分達でパンフレットを作り、計画を立てて、自分達手作りのケーキを配ったある結婚式に招待されたことがありますが、素敵でした・・・あんなのやってくれよ!!大切な息子娘よ!!
2009年08月07日
馬の博物館にてⅡ・・・
根岸森林公園は昭和18年まで根岸競馬場だったことは前回述べましたが、競馬にまつわる話題をひとつ、James Favre-Brandt著「横浜の風物と事情」より・・・
居留民の中にトム・トーマス氏と言う競馬ファンがおった(注:イギリス貿易商・・根岸競馬場管理運営する日本レースクラブ理事なとを勤め関東大震災で死去)氏はこの頃以後、50年もの間横浜競馬の後援者であった。当時競馬には日本産と支那(中国)産の馬を使用していた。
トーマス氏は支那馬に跨り、在留民中最も高齢のエド・シャネル氏(注:謎の多い冒険家、または死の商人として名高いエドワルド・シュネルか)は日本馬に乗って「廻りコース」の競技を行ったが、試合はトーマス氏の見事な快勝に終わった。以来、支那馬は日本馬より優れているとの折り紙が付けられた。
その頃、日本人は外人達の乗馬の見事さと巧技に感嘆して、この分野では外人の優越を認めていた。日本人は人も馬もじきに疲労してしまうような粗末な鞍を用いて、いつも並足で走っていた。しかし、私がたびたび、騎馬の役人(護衛)に付き添われて江戸へ道中する途中で見る彼等の馬術は、外人と同様、巧みなものであった。
居留民の中にトム・トーマス氏と言う競馬ファンがおった(注:イギリス貿易商・・根岸競馬場管理運営する日本レースクラブ理事なとを勤め関東大震災で死去)氏はこの頃以後、50年もの間横浜競馬の後援者であった。当時競馬には日本産と支那(中国)産の馬を使用していた。
トーマス氏は支那馬に跨り、在留民中最も高齢のエド・シャネル氏(注:謎の多い冒険家、または死の商人として名高いエドワルド・シュネルか)は日本馬に乗って「廻りコース」の競技を行ったが、試合はトーマス氏の見事な快勝に終わった。以来、支那馬は日本馬より優れているとの折り紙が付けられた。
その頃、日本人は外人達の乗馬の見事さと巧技に感嘆して、この分野では外人の優越を認めていた。日本人は人も馬もじきに疲労してしまうような粗末な鞍を用いて、いつも並足で走っていた。しかし、私がたびたび、騎馬の役人(護衛)に付き添われて江戸へ道中する途中で見る彼等の馬術は、外人と同様、巧みなものであった。
2009年08月01日
馬の博物館にて・・・
馬の博物館のある根岸森林公園は、横浜今昔物語のカテゴリーに入ります。横浜開港と同時に居留した外国人は大の競馬好き、と言うより生活の一部だったようで、開港直後の文久2年(1862年)には山下町(現中華街辺り)で競馬が行われています。そして、慶応2年(1866年)にはここ根岸競馬場が開かれて、以来戦雲急を告げる昭和18年(1943年)まで競馬場でした。
これは、明治時代、根岸競馬場に集う、人々です。今の日本の競馬のようにオッサンが赤鉛筆を耳に挟んで、耳目をギラギラさせているような競馬でなくて、老若男女が集う社交の場のような雰囲気だったのでしょうね・・・
館内のパネルから・・・フラッシュを焚くことと天皇陛下の馬車以外は撮影OKでしたよ。
馬の遠い祖先です。もちろん化石から復元されたものですが、体長約30cm位、ネズミの親戚みたいですね・・・彼の子孫が、人間なる横暴な生き物を乗せて走り回るなんて、この頃は誰が想像したでしょうね・・・なんてバカな事を言ってる私(人間)の遠い祖先だってネズミのような哺乳類だったのでしょうけれど・・・
戦国武将乗馬のレプリカです・・・映画などで、馬に乗って疾走する颯爽とした武将などを良く目にしますが、この馬はちょっとそんなイメージではないですね。重い甲冑を着た武将に潰されそう・・・実はこの馬は、日本馬、実際に鎌倉の合戦現場から発掘された軍馬の骨格から再現されたらしいです。
そう言った視点からですと、黒澤映画の合戦シーンのように、人馬の群れがドドドドッ!!・・・とぶつかり合うような迫力よりもむしろ、敵同士の陣の中から、ポコポコと小さい馬に乗った武将が出て来て、「やあやあ我こそは相模守、根岸馬之助なり!・・・」などと名乗りあって、一騎討ちをする方が何となく合いそうな感がしました・・・
そんな訳で、根岸競馬場、今は家族が楽しく駆け回ったり、木陰で読書をしたりする平和な根岸森林公園です。しかし、昭和18年以降は、この一等観覧席跡の眺望の良さから、海軍が接収をして、戦後は米軍が接収しましたよ。米軍は今でも、この周辺の一等地を占めています・・・この一等観覧席跡は廃墟スポットとして人気があるそうですが、残念ながら中には入れません・・・
これは、明治時代、根岸競馬場に集う、人々です。今の日本の競馬のようにオッサンが赤鉛筆を耳に挟んで、耳目をギラギラさせているような競馬でなくて、老若男女が集う社交の場のような雰囲気だったのでしょうね・・・
館内のパネルから・・・フラッシュを焚くことと天皇陛下の馬車以外は撮影OKでしたよ。
馬の遠い祖先です。もちろん化石から復元されたものですが、体長約30cm位、ネズミの親戚みたいですね・・・彼の子孫が、人間なる横暴な生き物を乗せて走り回るなんて、この頃は誰が想像したでしょうね・・・なんてバカな事を言ってる私(人間)の遠い祖先だってネズミのような哺乳類だったのでしょうけれど・・・
戦国武将乗馬のレプリカです・・・映画などで、馬に乗って疾走する颯爽とした武将などを良く目にしますが、この馬はちょっとそんなイメージではないですね。重い甲冑を着た武将に潰されそう・・・実はこの馬は、日本馬、実際に鎌倉の合戦現場から発掘された軍馬の骨格から再現されたらしいです。
そう言った視点からですと、黒澤映画の合戦シーンのように、人馬の群れがドドドドッ!!・・・とぶつかり合うような迫力よりもむしろ、敵同士の陣の中から、ポコポコと小さい馬に乗った武将が出て来て、「やあやあ我こそは相模守、根岸馬之助なり!・・・」などと名乗りあって、一騎討ちをする方が何となく合いそうな感がしました・・・
そんな訳で、根岸競馬場、今は家族が楽しく駆け回ったり、木陰で読書をしたりする平和な根岸森林公園です。しかし、昭和18年以降は、この一等観覧席跡の眺望の良さから、海軍が接収をして、戦後は米軍が接収しましたよ。米軍は今でも、この周辺の一等地を占めています・・・この一等観覧席跡は廃墟スポットとして人気があるそうですが、残念ながら中には入れません・・・