2006年11月13日
吉田新田物語1
折角、地域密着型のブログに行き会えたのですから、横浜の話題にも触れてみたいと思います。今、横浜市歴史博物館で「吉田新田いまむかし」展が開催されていますが、詳しいことはそちらに譲るとしまして、横浜と言う地名は何で横浜なんだろう、JR横浜近辺と関内近辺とどう違うのか、などを少しづつ語れることが、どこまで出来るかは分かりませんが、やって見たいと思います。まずこの図ですが江戸時代後期の吉田新田がほぼ完成した頃の、当時の図面等は割合にデフォルメされたものが多い中、比較的正確な実測図です。図、上の方のほぼ3角形の、縦横に割り振りされた地域が、吉田新田で、現、吉野町から関内や花園橋方面までが、埋め立てられています。で、ご注目頂きたいのが、図の下の方、現、元町辺りから、桜木町方面にかけて「州干島」と称される砂州が延びていて、その先には、弁天社が祭られていました。今でも、この砂州の上に、神奈川県庁、マリンタワー、神奈川県警、税関など主だった建物が乗っているんですよ。砂州の付け根内側辺りに、畦道のハッキリしたお椀状の場所がありますが、あそこは、横浜村村民が自分達の力で埋め立てた、その名も横浜新田と言います。で、明治初期のドサクサで、畦道を残したままの区割りで建物を造り、中国人を住まわせました。これが、今の中華街です。という事は、この砂州の付け根から元町方面にかけて、浜の横に広がった村「横浜」と言うことで、ここが横浜のルーツとも言える場所なんですねー。ロマンですねー。
明治と江戸時代の端境期、横浜には、大量の外国人が移り住みました。しかし、国の方針として、外国人は外国人居留区を設けて、日本人(攘夷浪人などぶっそうなのも一杯いましたからね)との接点をなるべく避けるようにしました。この図は明治10年代の関内付近です。もう、すっかり上の図と違って、街並みもしっかりとしていて、州干島や弁天社などの面影すらありません。図の真ん中辺りに丸い場所が見えますか?あそこは、上の図ではまだ海の一部でしたが、現、横浜スタジアムです。埋め立てられた当時は、遊郭だったのですが、幕末の「豚屋火事」で焼けてしまい、その後は外国人のクリケット場や公園になっていました。その公園から海にかけて、真っ直ぐな通り、日本大通りがありますが、ここから左側の山手方面が外国人居留区域、右側、桜木町方面が日本人居留区域となりました。今でも、この基本的な街並みは全く変わっていません。こんなところが横浜の魅力のひとつなんでしょうねぇ。さてさて、次はどんな話題になりますやらですね
Posted by shin344 at 12:39│Comments(0)