2009年08月11日
Favre-Brandt15・・・
【フランソワ・ペルゴ】と言う人のこと・・・・
司馬遼太郎氏の歴史小説「峠」では、主人公、長岡藩の奇才、河井継之助が横浜でスイス商人ファブル・ブラント(James Favre-Brandt)と逢いそして、永世中立の思想を学ぶことになっております。しかしながら、河井がもしも横浜のファブル・ブラントと逢ったと仮定しましても、河井が横浜遊学が出来た、したとすると、それは未だファブル・ブラントが横浜に来ていない時期ですし、困ったなぁと思っていたところ、かの時計コレクター&研究家の大川伸功氏より、フランソワ・ペルゴのお話しを聞きましてひらめきました・・・
フランソワ・ペルゴはJames Favre-Brandtに先立つこと3年前の1861年に横浜に来ており、James Favre-Brandtを含むスイス通商使節団(1863年来日)を迎え入れる準備をしたとの事です。河井が遊学していたのが、1859年~1861年位ですから、河井とフランソワ・ペルゴが逢える可能性はあった訳です。しかもフランソワ・ペルゴは1864年、かの死の商人(後世の評価ですが)エドワード・シュネル(スネル兄弟の弟)と共同経営していますから、後に河井がJames Favre-Brandtまたはスネルから武器を購入することと関連性さえ伺えます。もっとも、フランソワ・ペルゴは時計だけに専念し、武器を扱うエドワード・シュネルとは対立し共同経営は終わっていますけれど・・・James Favre-Brandtともスイス通商使節団及びライフルクラブを通じて充分な親交はありました・・・フランソワ・ペルゴは1877年に43歳の若さで死去、葬儀委員長としてJames Favre-Brandtが仕切ったと聞きます。
フランソワ・ペルゴの時計に対する情熱は現在も「ジラール・ペルゴ」の高級腕時計などに綿々と受け継がれています
司馬遼太郎氏の歴史小説「峠」では、主人公、長岡藩の奇才、河井継之助が横浜でスイス商人ファブル・ブラント(James Favre-Brandt)と逢いそして、永世中立の思想を学ぶことになっております。しかしながら、河井がもしも横浜のファブル・ブラントと逢ったと仮定しましても、河井が横浜遊学が出来た、したとすると、それは未だファブル・ブラントが横浜に来ていない時期ですし、困ったなぁと思っていたところ、かの時計コレクター&研究家の大川伸功氏より、フランソワ・ペルゴのお話しを聞きましてひらめきました・・・
フランソワ・ペルゴはJames Favre-Brandtに先立つこと3年前の1861年に横浜に来ており、James Favre-Brandtを含むスイス通商使節団(1863年来日)を迎え入れる準備をしたとの事です。河井が遊学していたのが、1859年~1861年位ですから、河井とフランソワ・ペルゴが逢える可能性はあった訳です。しかもフランソワ・ペルゴは1864年、かの死の商人(後世の評価ですが)エドワード・シュネル(スネル兄弟の弟)と共同経営していますから、後に河井がJames Favre-Brandtまたはスネルから武器を購入することと関連性さえ伺えます。もっとも、フランソワ・ペルゴは時計だけに専念し、武器を扱うエドワード・シュネルとは対立し共同経営は終わっていますけれど・・・James Favre-Brandtともスイス通商使節団及びライフルクラブを通じて充分な親交はありました・・・フランソワ・ペルゴは1877年に43歳の若さで死去、葬儀委員長としてJames Favre-Brandtが仕切ったと聞きます。
フランソワ・ペルゴの時計に対する情熱は現在も「ジラール・ペルゴ」の高級腕時計などに綿々と受け継がれています
Posted by shin344 at 11:05│Comments(0)
│横浜今昔物語