2008年08月08日
真景横濱今昔・・・掘割川切通し
現在の南区高砂町辺りから、中村、蒔田村の間の「弥八ヶ谷戸」を切り通して中村川を根岸湾に通した大事業が行われました。明治3年(1870年)の事です。当時は水運の便を根岸湾に通じさせる事と、現堀割川周辺の湿地帯(この元湿地帯の中に我職場もあるんです・・・だから?)の水はけを良くする目的がありました。この切通し作業は現在の技術や、当時の欧米の技術を導入して行えばもっと早く開通するのにと思いますが、そこには日本人のプライドがあったのかは分かりませんが、人海戦術でかなりの期間をかけて行われたそうです・・・
中村町の山手から見た掘割川への分岐点です。左側に見える大きく湾曲しているのは現吉野町辺り、吉田新田の始まりの地、こんもりとした、お三の宮日枝神社が望めます。そして中村川がクイっと鋭角に左側に延びている先が堀割川になります・・・今では同じ場所から撮影してもこのような様子はとても垣間見る事さえ困難です・・・
提供:長崎大学附属図書館

ここが堀割られたばかりの「弥八ヶ谷戸」です・・・右前方に見える丘が現在も当時の面影を残しています。手前(左側)の切り割られた崖はおそらく現在「神奈川県警機動隊」の敷地だと思われますが、後年にもっともっと掘り広げられているようです。
提供:長崎大学附属図書館

国道16号線から堀割川越しに見られるこの丘が、「弥八ヶ谷戸」の一部だったなんて、不思議な思いがします・・・私は朝な夕なにこの丘を眺めながら通勤していますが、何時見ても、そんな100年も前の事実が思い起こされてけっして退屈はしません。

提供:長崎大学附属図書館

ここが堀割られたばかりの「弥八ヶ谷戸」です・・・右前方に見える丘が現在も当時の面影を残しています。手前(左側)の切り割られた崖はおそらく現在「神奈川県警機動隊」の敷地だと思われますが、後年にもっともっと掘り広げられているようです。
提供:長崎大学附属図書館

国道16号線から堀割川越しに見られるこの丘が、「弥八ヶ谷戸」の一部だったなんて、不思議な思いがします・・・私は朝な夕なにこの丘を眺めながら通勤していますが、何時見ても、そんな100年も前の事実が思い起こされてけっして退屈はしません。
Posted by shin344 at 19:49│Comments(6)
│横浜今昔物語
この記事へのコメント
おはようございます♪
私が、この切通しの歴史を知ったときの感想は、「あ~、だからかぁ」。
米軍住宅のある崖が、海べりでもないのに、不自然だなぁと、
感じていたからです。
この事業によって、山があったことで秘境状態だった
根岸の海岸の村が開けていったことは、大きいですよね。
私が、この切通しの歴史を知ったときの感想は、「あ~、だからかぁ」。
米軍住宅のある崖が、海べりでもないのに、不自然だなぁと、
感じていたからです。
この事業によって、山があったことで秘境状態だった
根岸の海岸の村が開けていったことは、大きいですよね。
Posted by みやちゃん
at 2008年08月09日 07:39

☆みやちゃんさん。
おはようございます!
確かにあの崖は不自然ですよね。十数年前、あの崖が
崩れて、下のマンションが埋まったこともありましたね。
人工的に切り割ったつけだったのでしょうか・・・
本当に・・・当時の水運を考えますと、根岸湾岸への
供給は本牧岬回りが堀割川で直行は大きい利点です
よね・・・
コメントありがとうございます。
おはようございます!
確かにあの崖は不自然ですよね。十数年前、あの崖が
崩れて、下のマンションが埋まったこともありましたね。
人工的に切り割ったつけだったのでしょうか・・・
本当に・・・当時の水運を考えますと、根岸湾岸への
供給は本牧岬回りが堀割川で直行は大きい利点です
よね・・・
コメントありがとうございます。
Posted by scemo3440 at 2008年08月09日 08:04
こんばんは。
画像の提供元の長崎大学附属図書館、、、いいですねえ。
上司に見せたら食い入るように見てましたよ。良いタイミングで地域の歴史の教室があったので。
本題に関係なくてすみません。^^;
画像の提供元の長崎大学附属図書館、、、いいですねえ。
上司に見せたら食い入るように見てましたよ。良いタイミングで地域の歴史の教室があったので。
本題に関係なくてすみません。^^;
Posted by Danbe at 2008年08月09日 19:51
>2008年08月09日 19:5☆Danbeさん。こんばんは。Danbeさんの職場って良いですねー。職場周辺の歴史を顧みる教室があるなんて、羨ましい限りです。私の職場での勉強会で頑張って見ましたが、反応がいまいちでした(汗)。長崎大学のコレクションは本当に良いですよ。ネットで探しましたが、これだけの貴重な資料を惜しげもなく許可をして貰い嬉しい限りですよ。気軽に誰でもデータのサイトに行く事が出来るようにリンクを張る条件と、更新したら、図書館に報告することだけですから、Danbeさんも教室などでお使いになられてはいかがですか?
Posted by scemo3440 at 2008年08月09日 20:19
scemo3440さん はじめまして
すごい資料が長崎大学に残されていたなんて。
神奈川県警機動隊の後ろ側はお寺さん
「宝生寺」の境内になっていて
昔のままなんですよね。
「磯子七福神」めぐりの時に行きますが
あの風景の延長が根岸台へと連なって
いたんですね。
すごい資料が長崎大学に残されていたなんて。
神奈川県警機動隊の後ろ側はお寺さん
「宝生寺」の境内になっていて
昔のままなんですよね。
「磯子七福神」めぐりの時に行きますが
あの風景の延長が根岸台へと連なって
いたんですね。
Posted by みやちゃん
at 2008年08月10日 13:21

☆みやちゃんさん。こんにちは!
ご来訪ありがとうございます。
そうそう、宝生寺の境内の森がそのまま
切り割ってありますよね・・・私もこの
お寺が大好きで、時々仕事の行き帰りに
寄ったりしています。
「横浜村」が古文書で初めて登場したのも
この宝生寺の文献だそうです・・・
私もお正月に、私の施設利用者さんを連れて
磯子七福神めぐりをしました・・・
ご来訪ありがとうございます。
そうそう、宝生寺の境内の森がそのまま
切り割ってありますよね・・・私もこの
お寺が大好きで、時々仕事の行き帰りに
寄ったりしています。
「横浜村」が古文書で初めて登場したのも
この宝生寺の文献だそうです・・・
私もお正月に、私の施設利用者さんを連れて
磯子七福神めぐりをしました・・・
Posted by scemo3440 at 2008年08月10日 19:03