2008年11月26日
真景横濱今昔・・・宝生寺
先日宝生寺のことをブログアップしましたが、Danbesさんのブログに大変面白い記事を発見しました。それは、この宝生寺を菩提寺とした室町時代から戦国時代を駆け抜けた「平子(たいらこ)氏」のことでした。
平子氏は久良岐郡平子郷(現横浜市の南区磯子区中区)を支配した鎌倉御家人の一人でしたが、その一族は遠く山口県や関東管領上杉氏に付き従って越後へ行ったりしてそれぞれの地で活躍しています。
Danbesさんの職場近くに「平楽」と言う地名があり、大抵、鎌倉の御家人が支配した土地には、森氏なら森、都筑氏なら都筑、師岡氏なら師岡(もろおか)、鴨志田氏なら鴨志田、奈良氏なら奈良と地名が残ることが多いのに、平子と言う地名はないんですよね・・・
それでDanbesさんは「平楽」がもしかしたら平子氏の残した地名かも知れないと、平楽の古老を訪ねられたそうです・・・その行動力や恐るべし・・・結果、今は平楽(へいらく)と呼び慣わしているこの地が、実は「たいらく」⇒「たいらこ」(平子)の残した地名と帰結されたそうです。着想も考察も素晴らしい!!トロイ遺跡のロマンはこういう発想から生まれているんですよね・・・
この事が何故「横濱今昔」と関連があるのかと言いますと、この宝生寺には「横浜」と言う地名が載る現存最古の文書が残されているからなんです・・・まずはその文章を書き下しますとこう言う事です・・・
武州久良(くらき)郡横浜村薬師堂免田畠等事、田大二百文(歩)、畠二百文、由緒に任せて正願の儀に依りて永代を限って寄進するところなり。然らば由緒に任す上は後世の代官は是非の沙汰に及ぶべからず【要するに、横浜村の田200歩と畠200歩を由緒に乗っ取って寄進するので、後世の代官共はとやかく言うんじゃない!・・・てな、ところでしょうか】・・・そしてこの文書を発行しているのは、比留間 範数(花押)と、市河 季氏(花押)ですが、この比留間、市河さんは平子氏の家人と言われています・・・これで、横浜と平子氏がばっちり一致しました・・・
平子氏は久良岐郡平子郷(現横浜市の南区磯子区中区)を支配した鎌倉御家人の一人でしたが、その一族は遠く山口県や関東管領上杉氏に付き従って越後へ行ったりしてそれぞれの地で活躍しています。
Danbesさんの職場近くに「平楽」と言う地名があり、大抵、鎌倉の御家人が支配した土地には、森氏なら森、都筑氏なら都筑、師岡氏なら師岡(もろおか)、鴨志田氏なら鴨志田、奈良氏なら奈良と地名が残ることが多いのに、平子と言う地名はないんですよね・・・
それでDanbesさんは「平楽」がもしかしたら平子氏の残した地名かも知れないと、平楽の古老を訪ねられたそうです・・・その行動力や恐るべし・・・結果、今は平楽(へいらく)と呼び慣わしているこの地が、実は「たいらく」⇒「たいらこ」(平子)の残した地名と帰結されたそうです。着想も考察も素晴らしい!!トロイ遺跡のロマンはこういう発想から生まれているんですよね・・・
この事が何故「横濱今昔」と関連があるのかと言いますと、この宝生寺には「横浜」と言う地名が載る現存最古の文書が残されているからなんです・・・まずはその文章を書き下しますとこう言う事です・・・
武州久良(くらき)郡横浜村薬師堂免田畠等事、田大二百文(歩)、畠二百文、由緒に任せて正願の儀に依りて永代を限って寄進するところなり。然らば由緒に任す上は後世の代官は是非の沙汰に及ぶべからず【要するに、横浜村の田200歩と畠200歩を由緒に乗っ取って寄進するので、後世の代官共はとやかく言うんじゃない!・・・てな、ところでしょうか】・・・そしてこの文書を発行しているのは、比留間 範数(花押)と、市河 季氏(花押)ですが、この比留間、市河さんは平子氏の家人と言われています・・・これで、横浜と平子氏がばっちり一致しました・・・
Posted by shin344 at 20:52│Comments(0)
│横浜今昔物語