2009年01月31日

ファブル・ブラント7・・・

【外人墓地の事・・エピソード3】ファブル・ブラントの「横浜の風物と事情」から、しばらく引用しています・・・
実際に開港された頃の横浜を語るのに、それを見聞きして来た人の話し程、うなずける文献は少ないのではないかと思うからです・・・ファブル・ブラント7・・・

自らも外人墓地9区に、妻松野久子と共に葬られた「外人墓地」・・・今は観光化して、多くの人がカメラを片手に訪れていますけれど、当時の感覚と現在とはちょっと違うように思えました・・・

堀川の向側の閑静と言うよりむしろ陰気な谷間に外国人墓地があった(中略)・・・そこに故国の近親と遠く離れて眠っている多くの人々は年齢20歳から26歳までの若者であることが、刻まれた墓銘によってうかがえる。しかし、この中に一人、老人が加わっている。

横浜市内で暗殺されたデッカー大将である(中略)
この他にも不慮の死を遂げた人々の墓を見出す事ができる。


白昼横浜の大通りで殺されたロシア人の墓がある(中略)

ここにまた、英国商人の邸宅の前で真夜中に刺殺されたフランス領事の下僕(中略)

横浜市街で斬られたヴイス大尉(中略)

江戸の英国公使館を警備中に討たれた二人の水兵(中略)

レノックス・リチャードソン(生麦事件で殺された)の墓も見られる・・・(中略)

また、横浜郊外(井土ヶ谷)で殺されてその加害者も分からぬフランス軍人カミュ中尉・・・(中略)

鎌倉で斬られたボールドウィン少佐とバード中尉の質素な墓もある・・・(中略)

我々外人が、拳銃を持たないで外出してはならぬと命令されていたことは敢えて驚くには当たらない。外人たちは食卓へ臨む時さえ、武器を手放さなかったし、枕元に装填したピストルを忍ばす用心を払わないでは、寝に就こうとしない時代があった事を、私は思い出す」・・・

平和な日本及び横浜の市街では、当時かなり殺伐としたものだった事がこの一文で分かるような気がします・・・

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