2009年02月07日

ファブル・ブラント7・・・

【エピソード4・・・岩亀楼のこと】

引き続きファブル・ブラントの「横浜の風物と事情」より・・・
「ガンキローなたはヤンキローと呼ばれた茶屋は、後になくなった(注、豚屋火事で消失)が、現在のY・C・&・A・C(注、今の横浜公園・・横浜スタジアムもある)の敷地がその跡で、クリケットグラウンドのほぼ中央に位置していた。(中略)その頃、横浜では縷々、外人水兵と日本人との流血騒ぎが起こったのでそれらの不祥事を根絶させたいと言うことから建てられたのである。ファブル・ブラント7・・・

1850年のある晴天の日、領事はじめ全ての外人に、扇子、赤い木綿布(手拭のことであろう)、日本語とラテン語で[ガンキロー]と銘を入れた茶碗が贈られて外人の遊興所にあてられた。扇子には岩亀楼の鳥瞰図が描かれていた。妙なことだが、この招待に立腹する者はなく、却って大勢集まり夜を徹して祝宴を張ったと言う。(中略)

外人たちはタバコを吸い、飲食し、笑い(外人には珍しいことだが)、20人ほどのゲイシャの囃子を聴きながら踊る女達のゆがんだ表情を眺めていた。一方おびただしく着飾ったゲイシャは、卓子の傍で、「オバサン」(遣手婆・・やりてばばあ)の指図のもと、静かに立ち働いていた。」・・・

上の浮世絵は岩亀楼で遊興する外人達の様子です・・・ファブル・ブラント(外人)の目を通して、当時の遊廓の様子を垣間見られる一文です。岩亀楼を含む40軒程の遊廓は1866年11月26日の「豚屋火事」で消失しました・・・当時横浜公園の遊廓街は壕に囲まれた島のようになっていて、その島には橋がひとつしかなく、しかもそのたった一つの橋付近からの出火でしたから、大勢のゲイシャ達を渡し舟で救い出そうと外人や日本人も努力したようですが、「彼女等は気の毒にも焼死してしまった」と記載されています。



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