2007年03月18日
河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・9
(河井継之助とファブル・ブラントの出会い1)
今日は河井継之助とファブル・ブラントの出会いについて語りたいと思います。
まず、司馬遼太郎氏の小説「峠」では河井継之助とファブル・ブラントの出会いは文久元年(1860年)に河井継之助が横浜在住の通訳「福地源一郎」の仲介で出会い、河井が初めて会う西欧人という設定で、一目でお互いに理解し合い、河井がその時に、スイスの永世中立国という事をファブル・ブラントから説明を受け、後の長岡藩を永世中立の国家にするヒントとしたと描かれております。
しかし、1860年の3月か4月に岡山の「山田方谷」のところから江戸の古賀塾へ戻り、夏に長岡へ帰るまでの間に横浜へ行った(行ったとしたらこの時期しかない)と思われますものの、ファブル・ブラントは元治元年(1863年)に日本へ来ていますから、そこで会うというのは、物理的に無理のようです。
また、「峠」では、慶応2年(1866年)の横浜大火(豚屋火事)後に河井継之助は再びファブル・ブラントを横浜外国人居留区145番地の商館にしばし寄宿して、周辺の夜回りをしたと記述がありますが、この頃の河井継之助は1865年に長岡藩の郡奉行から軍事総督となり、藩主、牧野忠恭の京都所司代赴任により疲弊した藩の財政を立て直すための内政改革をしていますから、「峠」に記載のこの時期に、河井継之助が横浜のファブル・ブラントを訪ねるという事は、新幹線も飛行機もないこの当時、やはり、物理的に無理と思えます。
←居留地145番地(現NTTピル)のファブル・ブラント商館(再掲)・・・拡大で観ることは可能です
と、いう事で司馬氏のロマンを年代的に否定した形になりましたが、私は、河井継之助とファブル・ブラントが横浜の何処かで会ったとは思いたいです。
こんな話しが残っています。当時武器調達係としてファブル・ブラントの商館に度々出入りしていた、掛川藩士「福島住弐」氏が晩年に語ったことです。商館の主人ファブル・ブラントと大変に親しそうな日本人がいたので、ある時名乗りあったらそれが、河井継之助でした。ファブル・ブラントは「私のことを保護して下さるお方です」と大変に丁寧に接していたそうです。

まず、司馬遼太郎氏の小説「峠」では河井継之助とファブル・ブラントの出会いは文久元年(1860年)に河井継之助が横浜在住の通訳「福地源一郎」の仲介で出会い、河井が初めて会う西欧人という設定で、一目でお互いに理解し合い、河井がその時に、スイスの永世中立国という事をファブル・ブラントから説明を受け、後の長岡藩を永世中立の国家にするヒントとしたと描かれております。
しかし、1860年の3月か4月に岡山の「山田方谷」のところから江戸の古賀塾へ戻り、夏に長岡へ帰るまでの間に横浜へ行った(行ったとしたらこの時期しかない)と思われますものの、ファブル・ブラントは元治元年(1863年)に日本へ来ていますから、そこで会うというのは、物理的に無理のようです。
また、「峠」では、慶応2年(1866年)の横浜大火(豚屋火事)後に河井継之助は再びファブル・ブラントを横浜外国人居留区145番地の商館にしばし寄宿して、周辺の夜回りをしたと記述がありますが、この頃の河井継之助は1865年に長岡藩の郡奉行から軍事総督となり、藩主、牧野忠恭の京都所司代赴任により疲弊した藩の財政を立て直すための内政改革をしていますから、「峠」に記載のこの時期に、河井継之助が横浜のファブル・ブラントを訪ねるという事は、新幹線も飛行機もないこの当時、やはり、物理的に無理と思えます。

と、いう事で司馬氏のロマンを年代的に否定した形になりましたが、私は、河井継之助とファブル・ブラントが横浜の何処かで会ったとは思いたいです。
こんな話しが残っています。当時武器調達係としてファブル・ブラントの商館に度々出入りしていた、掛川藩士「福島住弐」氏が晩年に語ったことです。商館の主人ファブル・ブラントと大変に親しそうな日本人がいたので、ある時名乗りあったらそれが、河井継之助でした。ファブル・ブラントは「私のことを保護して下さるお方です」と大変に丁寧に接していたそうです。
河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と、シーズン2・・・
縄文文化円熟展・・・縄文式土器について
横浜刑務所(横濱監獄)考・・・
北方作戦・・・横須賀軍港に刺激されて・・・
河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・10
「象の(が)鼻」について・・・
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横浜刑務所(横濱監獄)考・・・
北方作戦・・・横須賀軍港に刺激されて・・・
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「象の(が)鼻」について・・・
Posted by shin344 at 11:30│Comments(2)
│歴史
この記事へのコメント
こんにちは♪
小説はあくまで小説であり、事実とは異なる。
分かっていても思わずその通りに信じてしまうところが小説家の力量ですね。
昨日、外人墓地の周りを散歩して来ました。
ファブル・ブラントはここに眠っているのですよね。
小説はあくまで小説であり、事実とは異なる。
分かっていても思わずその通りに信じてしまうところが小説家の力量ですね。
昨日、外人墓地の周りを散歩して来ました。
ファブル・ブラントはここに眠っているのですよね。
Posted by バック at 2007年03月18日 16:27
☆バックさん。
こんにちは!
おっしゃるとおり、事実より奇なりかも知れませんが、この小説が書かれたのも、おそらく膨大な資料に基づくと思います。そうでないと、そこまで想像力を働かせることは困難でしょうし・・・SFではありませんしねー。
そうですよ、ファブル・ブラントは関東大震災の23日前に亡くなって、自らが建てた商館の壊滅を見ることなく、外人墓地に葬られましたのが、天啓だったのかも知れませんね。
こんにちは!
おっしゃるとおり、事実より奇なりかも知れませんが、この小説が書かれたのも、おそらく膨大な資料に基づくと思います。そうでないと、そこまで想像力を働かせることは困難でしょうし・・・SFではありませんしねー。
そうですよ、ファブル・ブラントは関東大震災の23日前に亡くなって、自らが建てた商館の壊滅を見ることなく、外人墓地に葬られましたのが、天啓だったのかも知れませんね。
Posted by scemo3440 at 2007年03月18日 18:58