2013年11月22日
横浜弁天社・・・
以前に「横浜今昔」と称するカテゴリーで幕末明治の古写真から、現在の場所を比較することを行いましたが、その時に集めた資料を調べて居て、ふと気が付いたことがありました。ファブル・ブランド達、スイス友好修好条約締結使節団が横浜へ足を踏み入れた際、一番最初に「弁天(ベンタン)の地にあったオランダ総領事フォン・ポルスブルック」の屋敷に迎え入れられました・・・この弁天とは、現桜木町駅近くに横浜村の鎮守社「弁天神社」の付近と思われます・・・
これが、幕末の頃の弁天神社(洲干神社)らしいのですが、当時は、今のマリンタワー辺りにあった「横浜村」から、桜木町方面へ鳥の嘴のように伸びる洲干島(と言うより天の橋立のような洲)の一番先っぽにあった風光明媚な神社だったのですが・・・横浜の発展に伴い現在は羽衣町に移転しました・・・
羽衣町辺りは、現横浜公園の地にあった「遊郭」が「慶応の大火(俗に豚屋火事)」で焼け落ちた後、一時的にここへ移ったそうですが、今では真金町辺りにほんの少し「遊郭」の痕跡らしいものはあるものの、すっかり様変わりしています・・・
弁天社はすっかりと寂れた神社になってしまっていますし洲干弁天だった痕跡は全くありませんが、鳥居にかかる「扁額」が当時のまま移されたと言う記録がありますが、そう言われると、そのように思えるから不思議ですね・・・
これが、幕末の頃の弁天神社(洲干神社)らしいのですが、当時は、今のマリンタワー辺りにあった「横浜村」から、桜木町方面へ鳥の嘴のように伸びる洲干島(と言うより天の橋立のような洲)の一番先っぽにあった風光明媚な神社だったのですが・・・横浜の発展に伴い現在は羽衣町に移転しました・・・
羽衣町辺りは、現横浜公園の地にあった「遊郭」が「慶応の大火(俗に豚屋火事)」で焼け落ちた後、一時的にここへ移ったそうですが、今では真金町辺りにほんの少し「遊郭」の痕跡らしいものはあるものの、すっかり様変わりしています・・・
弁天社はすっかりと寂れた神社になってしまっていますし洲干弁天だった痕跡は全くありませんが、鳥居にかかる「扁額」が当時のまま移されたと言う記録がありますが、そう言われると、そのように思えるから不思議ですね・・・
Posted by shin344 at 15:48│Comments(0)
│ファブル・ブラント商会・・・