2006年11月18日

吉田新田物語2

吉田新田物語2吉田新田の大事業に着手したのは吉田勘兵衛です。吉田勘兵衛は慶長16年(1611年)に摂津の国能勢郡歌垣村吉野で生まれました。今の大阪北部と京都府との県境付近の能勢町吉野です。勘兵衛は、その後、江戸(東京)の本材木町に住み、江戸城の材木や石材を商っていました。色々な紆余曲折はあったのでしょうが、彼の肖像を含めてほとんどその辺りは、残ってはいません。そして、おそらく東海道往還の折に、この横浜の入海を聞き及び、立ち寄ったものと思われます。そして、勘兵衛45歳の時にこの入海を埋め立てるという壮大な事業に着手し1669年徳川家綱より「吉田新田」と称され、苗字帯刀を許されましたから、吉田勘兵衛の前はおそらく「吉田屋勘兵衛」だったと私は想像しております。吉田新田物語2吉田勘兵衛はその後、現、長者町9丁目に居を構えましたが、上の絵、左側の小高い丘は、野毛の丘、そして手前の一角が吉田屋敷です。長者町9丁目に居を構えた訳は、生活に必要な真水がこの辺りから汲み上げることが出来たからと言われます。右側の田んぼの中の小高い場所は、今は陰も形もない「常清寺」です。勘兵衛の創建になります。そして、遠景には、前回お話しした、「州干島」の砂州が望見できます。その位置関係から、現代の地図で見ますと、→の書き込みのように、きっと伊勢佐木町のユニー辺りから望見して描かれた絵だと想像できます。


今では全く、上の絵のような雰囲気は残っておりませんが、歴史の楽しみのひとつに、今では面影すらないところに立って、当時の面影を想像することがあります。そんな意味でも現代の横浜と過去の横浜の両方を同時に楽しめる私は、幸せ者ですよね船

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Posted by shin344 at 10:49│Comments(0)歴史
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