2006年11月26日
吉田新田物語(番外編)・・・
以上述べて来ました、吉田新田のことで大体のイメージを掴んで頂けましたでしょうか?・・・この2枚の画像は、福音館から発行された絵本「ある都市のれきし」の原画です。上の画像は丁度吉田新田がほぼ完成した頃、沖に黒船が迫っていますね。画像右端の海にせり出した土地が野毛村(現野毛町)、川を越えて建つ屋敷が吉田勘兵衛さんの家(長者町9丁目)で、田んぼの中にぽつんと建っているのが常清寺(廃寺・・・現、福富町)です。画像左端、砂州(州干島)の付け根に横浜村(現、本町1丁目辺り)があります。そして、横浜村村民が自分達の水田確保の為に埋め立てた横浜新田(現、中華街)も水田として機能しています。
下の画像がほぼ現在の、上の図と同じ場所からの俯瞰図です。20年前の横浜ですが、まだ、みなとみらい地区は整備されていないものの、今とそれ程変わった変化はありません。
下の画像がほぼ現在の、上の図と同じ場所からの俯瞰図です。20年前の横浜ですが、まだ、みなとみらい地区は整備されていないものの、今とそれ程変わった変化はありません。
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Posted by shin344 at 11:50│Comments(2)
│歴史
この記事へのコメント
やっぱり 埋め立て前と後ではそうとうな違いがありますね。
変な質問。。。埋め立てた土地というのは 誰の所有となるんでしょうか? 国? 県? 市?
あれだけの企業が土地を売買して建物を建てたということは そうとうな額が動いたんでしょうね~。 すみません。。。変な事を考えてしまいました。
変な質問。。。埋め立てた土地というのは 誰の所有となるんでしょうか? 国? 県? 市?
あれだけの企業が土地を売買して建物を建てたということは そうとうな額が動いたんでしょうね~。 すみません。。。変な事を考えてしまいました。
Posted by Ziggy at 2006年11月27日 19:20
☆Ziggyさん。いえいえ、マニアックなご゜質問感謝ですよ。35万坪の埋立地は当初は農地として埋め立てられましたから、この開港前では全部水田でした。で、収穫される石高は1038石です。むろんこれだけの土地を吉田勘兵衛さんが耕作する訳ではなくて、新田内に住み着いた周辺農民が小作人として耕作していました。1038石収穫が上がるとして、国(幕府)への税と小作料を差し引いても、吉田家には約500石の収益が上がるはずですから、そこは商人です。その米を江戸などで売りさばいていたそうです。相当な財産になる訳ですよね。でもこれだけの土地に建物を建てたり、公共施設を建てたりするにつけて、その目的の人が吉田さんから土地を買い上げたり、国が買い叩いたりして、やがて、米を生み出す以外の土地利用になるのも時代の趨勢ですよね。それでも吉田家の邸宅跡には、吉田興産とか吉田の名を冠した企業が立ち並んでいますから、一大財閥を成し遂げたと思います。反面可哀想なのは、州干島の内海と吉田新田の間を埋め立てた太田屋某と言う商人の太田屋新田は、潮の出入りが厳しすぎて、ほとんど米も採れずに破産してしまいました。今は太田町と言う町名に残るだけです。そんな訳で新田開発ってものすごいお金がかかります(吉田新田で8500両とのこと)が、その後の収穫がなければ、失敗、パーになりますから一種の賭けのようなものですね。この辺の事情は、いずれまた触れてみますね。
Posted by scemo3440 at 2006年11月28日 16:06