2006年12月15日
吉田新田物語8・・・太田屋新田考
横浜の新田史の中で忘れる事が出来ないのが、この「太田屋新田」です。今の弁天通り、太田町、相生町、住吉町、常磐町、横浜スタジアムを含めた尾上町、日本大通りの地を、三河の人「太田屋徳九郎」が開発し、安政3年(1857)には38石2斗の収穫があったと言います。
しかし、後に話しますが、右隣りの後に中華街となる「横浜新田」が、150石の収穫という事ですから、広大な地域の割には、収益も少なかったのです。何故かといいますと、太田屋新田の8割方は、潮流の干満する沼地で、わずか5戸の住民が葦を刈ったり、漁で辛くも生活を立てていたようです。そんな訳で、太田屋徳郎は、600両という大枚を投じても利益がなく、太田町一丁目辺りで「三州瓦」を焼いたりしたものの、生糸密輸事件に係わって獄中で死亡すると言う、吉田勘兵衛とはまた、別な人生を歩んだようです。新田開発と言うのが、資財を投げ打って、土地を豊かにすると言う高邁な精神でだけで成り立っただけではなく、一種の投資と賭けであった事は確かでしょうね。太田屋徳九郎の名前は、「太田町」と言う地名に僅か残っているに過ぎません。次回は「横浜新田」についてです
しかし、後に話しますが、右隣りの後に中華街となる「横浜新田」が、150石の収穫という事ですから、広大な地域の割には、収益も少なかったのです。何故かといいますと、太田屋新田の8割方は、潮流の干満する沼地で、わずか5戸の住民が葦を刈ったり、漁で辛くも生活を立てていたようです。そんな訳で、太田屋徳郎は、600両という大枚を投じても利益がなく、太田町一丁目辺りで「三州瓦」を焼いたりしたものの、生糸密輸事件に係わって獄中で死亡すると言う、吉田勘兵衛とはまた、別な人生を歩んだようです。新田開発と言うのが、資財を投げ打って、土地を豊かにすると言う高邁な精神でだけで成り立っただけではなく、一種の投資と賭けであった事は確かでしょうね。太田屋徳九郎の名前は、「太田町」と言う地名に僅か残っているに過ぎません。次回は「横浜新田」についてです
河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と、シーズン2・・・
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Posted by shin344 at 17:59│Comments(2)
│歴史
この記事へのコメント
Scemoさんって本当に詳しいですね~! 勉強熱心なのと、ご自分の住む町を愛されているのが しっかり伝わってきます。
私もまずは自分の故郷の事からもう少し 勉強しないとなって思いました。
私もまずは自分の故郷の事からもう少し 勉強しないとなって思いました。
Posted by Ziggy at 2006年12月15日 23:09
☆Ziggyさん。嬉しいコメントありがとうございます。自分の町の
歴史を知ると、町の楽しみ方に、すごくメリハリがつくように
思えます。若者や女性あこがれの元町あたりを、遠い目をした
変なオヤジがウロウロしているなんて噂を撒かないように気を
付けませんとね・・・Ziggyさんの故郷調べお手伝いしますよ・・・
歴史を知ると、町の楽しみ方に、すごくメリハリがつくように
思えます。若者や女性あこがれの元町あたりを、遠い目をした
変なオヤジがウロウロしているなんて噂を撒かないように気を
付けませんとね・・・Ziggyさんの故郷調べお手伝いしますよ・・・
Posted by scemo3440 at 2006年12月16日 10:57