2006年12月17日
吉田新田物語9・・・横浜新田考1
横浜新田は横浜村の村民が自主的に埋め立てた新田です。この図で分かるかと思いますが、横浜村の人々にとって、内海は決して敵対する存在ではなかったはずです。しかし吉田新田が近くまで迫り、中村川がまともに横浜村に迂回すると、当然、水害や汚水の被害も出ました。そこで村民は、元々耕作地の少ない村の実情から、自主的に埋め立てをしました。それが「横浜新田」です。完成時には150石が収穫できる新田で、きっと横浜村民の誇りだったことでしょう。ところが時代の奔流は、横浜村の村民を元町(元村)や本牧方面に追い出して、外国人居留区とし、村の中心に堀川を通して中村川を排水させた上、横浜新田には、貿易に必要な「買弁」(ばいべん・・通訳や為替レートの調整役)の中国人達に住まわせました。土地の高低さの加減か、急ぎの工事だったのかは分かりませんが、横浜新田の畦道をそのまま「通り」に使用しました。中華街となった今でもこの街割りは、横浜新田の畦道そのままです。街の形がそのまま、今は当時の面影の一片もない「横浜新田」そのものだなんて、ロマンですね
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Posted by shin344 at 18:43│Comments(2)
│歴史
この記事へのコメント
中華街のバックグラウンド、そんなものがあったんですね。 勉強になりました。 見た目や空気が違っても、その場所で昔行われていた事とかを考えると、2次元を見ているような不思議な気分になります。
Posted by Ziggy at 2006年12月18日 19:51
☆Ziggyさん。本当に嬉しいです。2次元でこの記事を読んで下さるなんて。誰に読んで貰えなくても、淡々と自分の興味のおもむくまま、投稿していますが、こんな風に感じて頂けるなんて、投稿冥利に尽きますし、励みになりますよ。
Posted by scemo3440 at 2006年12月18日 20:23