2006年12月21日

吉田新田物語9・・・横浜新田考2

ここに2枚の写真があります。文久3年(1863)に来日したイギリスの写真家F・ベアトの撮影したものです。吉田新田物語9・・・横浜新田考2上の画像は、丁度中心部分が横浜新田です。

既に接収(この表現は正しくないかも知れませんが)されて、中国人の家が建築ラッシュです。
吉田新田物語9・・・横浜新田考2

そして、上の画像左端と下の画像右端と続きます。吉田新田を望みます。中村川が、吉田橋方面に伸びている様子や、潮入り沼(後の寿町あたり・・・埋め地7か町)の様子が良く分かります。

ところで、横浜村村民が元町へ移住させられたのは、万延2年(1861)と言いますから、開国賛成派の大老「井伊直弼」が桜田門外で暗殺された一年後に当たります。当時は尊王攘夷と言って、外国人の命を狙う浪人がウロウロしていた関係で一日も早く、外国人居留区を定め、関所を厳重にしました。そのような事情があり、幕府と言う弱体化したとは言え絶対権力に対して、懐かしの村を追い出された横浜村村民の無念は想像して余りあると思いますが、不思議に記録は残っていません。ただ、元町と言う命名に「こここそ、本当の横浜村だぞ、元祖だぞ」と唇を噛みながら、自分達の住み慣れた横浜村に次々と外国人商館が建つのを堀川越しに眺めていた村民の心を思うのみです。

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Posted by shin344 at 09:00│Comments(2)歴史
この記事へのコメント
こんにちは♪

幕府の事情、村民の気持ち・・・いろいろな立場から歴史を振り返ることは大切ですね。
外国人居留地へ入った西洋人は居留することに対してこだわりはなかったと思いますが、狭い地域に押し込まれ、しかも村民からは敵視されていたであろう中国人は不安が大きかったと思います。

毎回のレポートを楽しみにしております。
ありがとうございます。
Posted by バック at 2006年12月21日 10:32
☆バックさん。コメントありがとうございます。
横浜新田の狭くジメジメした土地をあてがわれた中国人は、明らかに差別を受けていましたね。中国人居留区域以外の外国人居留区域は、米英や欧米列国人が混在しているのにですから。横浜村民の恨みや欧米の蔑視(便利屋的召し使い程度にしか見られていなかったようですかね)に耐えて乗りきるなんてさすが華橋ですね。関東大震災や大戦でひどい目に会っても今の繁栄ですから。バックさんのフランス山のレポート等私も楽しませて頂いております。
Posted by scemo3440 at 2006年12月21日 11:36
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