2006年12月27日
吉田新田物語10
横浜村から目を転じまして、釣鐘新田と呼ばれた吉田新田の上部ですが、ここに不思議な切通しがあります。大岡川を吉田新田により、大岡川と中村川及び今はない吉田川の三川に分かったものの、やはり洪水などの水利の必要性から根岸滝頭村へ水路を造りました。明治3年から3年間をかけて「弥八が谷戸」という中村の一部を切り通して掘割川を根岸の海へ流しました。この3年間の工事を見たイギリス人技師が「日本人は頑固な国民だ。イギリスの技術なら3ヶ月で工事を終わらせる事が出来るのに・・」と言わしめたそうです。また、この工事に吉田新田生みの親「吉田家」が係わり、その軒先を傾かせたらしいですが、それもまた因縁ですか・・・ところでこの切通しと掘割川の土砂で吉田新田最後の底なし沼と言われた沼地が埋め立てられました。この埋立地が「埋め地7ヶ町」(寿・松影・扇・不老・万代・翁・蓬莱の7町)です。寿、松影町は日本3大ドヤ(簡易宿泊所)街で有名です。下のマップ初めて使って見ました。赤い矢印のところは中村切通しの今。航空写真も観る事ができますよ。「両方」の中で「滝頭小」の「小」の字の上に乗っているのが、私のショ・ク・バです。もっと+で拡大しますと正確に言いますとそこは私の職場前の公園です。地図をクリックしながら動かすと色々なところが散歩できますのでご案内しますと、私の職場のすぐ下、碁盤の目のような街は大正12年までは「横浜刑務所」があった場所です・・・記事にはあまり関係ないですけれど
河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と、シーズン2・・・
縄文文化円熟展・・・縄文式土器について
横浜刑務所(横濱監獄)考・・・
北方作戦・・・横須賀軍港に刺激されて・・・
河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・10
河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・9
縄文文化円熟展・・・縄文式土器について
横浜刑務所(横濱監獄)考・・・
北方作戦・・・横須賀軍港に刺激されて・・・
河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・10
河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・9
Posted by shin344 at 11:24│Comments(2)
│歴史
この記事へのコメント
こんにちは♪
「弥八が谷戸」は現在の中村橋から天神橋にかけての地域になるのでしょうか?
3年間もかかったことをイギリス人が笑っているようですが、当時の日本の土木技術からみても3年間は長過ぎたのでしょうか?
工事の規模がよく見えないので的外れな質問かもしれませんがお許し下さい。
元々なかった掘割川を高砂町辺りから根岸の海まで引いたのなら、かなりの工事だと思われるのですが・・・。
「弥八が谷戸」は現在の中村橋から天神橋にかけての地域になるのでしょうか?
3年間もかかったことをイギリス人が笑っているようですが、当時の日本の土木技術からみても3年間は長過ぎたのでしょうか?
工事の規模がよく見えないので的外れな質問かもしれませんがお許し下さい。
元々なかった掘割川を高砂町辺りから根岸の海まで引いたのなら、かなりの工事だと思われるのですが・・・。
Posted by バック at 2006年12月27日 17:55
☆バックさん。こんにちは!
マニアックなご質問感謝です。「弥八が谷戸」が滝頭村方面か蒔田村方面かは、はっきり分かりませんが、どちらかに存在して、高砂町方面から滝頭方面を縦断するには一番手頃だったと思います。私も毎日中村橋から天神橋へ通い、一体何処を切り割ったのか考えて居ましたが、最近は県警機動隊の中庭に掘り割った当時の面影がありますし、反対側の米軍住宅側も何となく一致します。谷戸を切り割ったものの、丘陵の高さは決して低い訳ではなかったようですし、削ったところが崩れてしまっては仕方がありませんので、かなり大きく切り割ったと考えられます。
3年間の工事ですが、確かに長いかも知れません。でも、明治3年という混乱期のこと、吉田新田のような人海戦術ではなく、時間をかける事の方が、有意義な何かがあったのではないかと思っています・・・これは、あくまでも私の想像なんですが。滝頭村の17世紀の古地図には、掘割川辺りに川が存在したのは見出せますから、その川を整備する事で大分、工事がはかどったのかと思います。それから、ここをどうしてわざわざ切り割って、根岸の海へ水を流さねばならなかったのかは、地図とにらめっこをしてますと、蒔田村寄りから川を流すと、村の多くの田畑が失われますし、もっと中村寄りになりますと、根岸の台地(米軍住宅のある台地)が邪魔になりますし、この場所しかないように思えます。吉田新田物語初期に古絵図を示しましたが、この辺りの膨らみが謎なんです。何か、将来的に、根岸の海へいざとなったら川を通そうというような計画があったのかも知れません・・・と、いう事で、よろしいでしょうか?私もまだまだ、調べ続けて行きたいと思って居ますので、新しく何かが分かりましたら、お知らせしますね。
マニアックなご質問感謝です。「弥八が谷戸」が滝頭村方面か蒔田村方面かは、はっきり分かりませんが、どちらかに存在して、高砂町方面から滝頭方面を縦断するには一番手頃だったと思います。私も毎日中村橋から天神橋へ通い、一体何処を切り割ったのか考えて居ましたが、最近は県警機動隊の中庭に掘り割った当時の面影がありますし、反対側の米軍住宅側も何となく一致します。谷戸を切り割ったものの、丘陵の高さは決して低い訳ではなかったようですし、削ったところが崩れてしまっては仕方がありませんので、かなり大きく切り割ったと考えられます。
3年間の工事ですが、確かに長いかも知れません。でも、明治3年という混乱期のこと、吉田新田のような人海戦術ではなく、時間をかける事の方が、有意義な何かがあったのではないかと思っています・・・これは、あくまでも私の想像なんですが。滝頭村の17世紀の古地図には、掘割川辺りに川が存在したのは見出せますから、その川を整備する事で大分、工事がはかどったのかと思います。それから、ここをどうしてわざわざ切り割って、根岸の海へ水を流さねばならなかったのかは、地図とにらめっこをしてますと、蒔田村寄りから川を流すと、村の多くの田畑が失われますし、もっと中村寄りになりますと、根岸の台地(米軍住宅のある台地)が邪魔になりますし、この場所しかないように思えます。吉田新田物語初期に古絵図を示しましたが、この辺りの膨らみが謎なんです。何か、将来的に、根岸の海へいざとなったら川を通そうというような計画があったのかも知れません・・・と、いう事で、よろしいでしょうか?私もまだまだ、調べ続けて行きたいと思って居ますので、新しく何かが分かりましたら、お知らせしますね。
Posted by scemo3440 at 2006年12月27日 19:01