2007年01月17日
吉田新田物語12・・・太田屋新田2
太田屋新田は横浜新田に隣り合わせた現弁天通りから関内駅付近までの横浜公園を含めた太田町、相生町、住吉町、真砂町、尾上町を称します。この新田は三州(三河)の、太田屋徳九郎さんが開発しましたが、横浜新田(現中華街)と比較してもかなり広い割にはその面積の80%が潮流の干満する沼地でした。そして僅か5戸の住民が葦を刈ったり、魚蝦を獲ったりの生活で、石高は横浜新田の150石に比べて、僅か38石と言われております。巨額な資金を投じて、埋め立てを行ったものの、土地からの上がりがなければ、採算は当然取れませんから、徳九郎さんは故郷三河から、源左衛門さんと言う親戚を呼んで、土地の差配や、三州瓦を焼いて江戸に売ったりと四苦八苦している内に、この辺が開港に伴う需要も高くなり、かなり発展して来ました。そして今の街並みの基礎が出来上がって来ました。この太田屋新田の街は、羽衣町付近に移設された弁天社や伊勢佐木町辺りにこれまた、現横浜公園の地から豚屋火事により移設された「遊郭」、そして、他方、外国人居留地の入り口を持つと言う位置関係から、遊郭の出入り商人や、外国人の商用を取り持つ職種の人達が多く住んでいたという事です。記録によりますと、この街には、料理屋、そばや、湯屋(銭湯)、などが多く、住民の職業も古道具商、荒物商、仲買商、煙草商、芸師匠、芋商、青物商、等々、様々な人達が多かったといいます。
ところで、馬車道というのがありますが、この道は当時、外国人が、伊勢佐木町辺りに移設された遊廓へ通う為には、居留地から大きく迂回を余儀なくされる為に馬車でストレートに通れる道を造るよう外国の圧力で出来たという逸話もありますが、どうも、太田屋新田後の都市計画を紐解いて行きますと、そのような単純な理由ではないように思えます。太田屋新田はこれで終わります。
ところで、馬車道というのがありますが、この道は当時、外国人が、伊勢佐木町辺りに移設された遊廓へ通う為には、居留地から大きく迂回を余儀なくされる為に馬車でストレートに通れる道を造るよう外国の圧力で出来たという逸話もありますが、どうも、太田屋新田後の都市計画を紐解いて行きますと、そのような単純な理由ではないように思えます。太田屋新田はこれで終わります。
河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と、シーズン2・・・
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Posted by shin344 at 12:19│Comments(0)
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